あいの序章
ちりん、ちりんと首元で鈴が鳴っている。
視線の先にあるのは、午後の暖かな日差しに照らされた中庭。昼食を終えた女子生徒達が数組、おしゃべりに花を咲かせくつろぐ光景を眺めながら、私はそっと溜め息を吐き出した。
――食堂を目指していたはずなのに、困ってしまった。
やはり、意地を張らずどなたかに声をかけるべきだったかもしれない。まだ皆さんが講堂に残っている間に。
ちりん、ちりんと鈴が音を立てるように、軽く頭を振ってみる。ちりん、ちりん。しかし音に気付いてくれる誰かも、音に誘われて声をかけてくれる誰かもいなかった。
しかたがない、と腹を括る。もう一度、食堂を目指して歩きましょう。昼休みの時間も半分ほど過ぎ、今からたどり着いてもサンドイッチを一切れ食べられればいい方だけれど。何も食べられないよりはずっとマシでしょう。
そう思い振り返った矢先、聞き覚えのある笑い声が弾け私はぎょっとして声の方に顔を向けた。日陰になっている中庭の奥、目立たない木陰に、まるで隠れるように寄り添う人影があった。周囲の女子生徒達はおしゃべりに夢中で聞こえなかったのか、誰も気にしていないその二人は、私の知っている人物だった。
テオドール・ローゼン・バレット王太子殿下。ヴァルツァー王国の第一王子であり、私の婚約者でもある。絹のような灰色の髪と、宝石と見紛うアメジストの眸は多くの女性を虜にして離さない。また外面ばかりでなく、英邁で優しい王太子と、早くも将来を期待されているお方だ。
一緒にいるのは、子爵家ご令嬢ソフィア・ジェーンさま。私や殿下とは一学年下の高等部一年になる。チョコレートを溶かし込んだような艶やかな髪と、鮮やかなエメラルドの眸が愛らしい。見ているこちらがつい笑みを浮かべてしまうような可愛らしい顔立ちで、花もほころぶ笑顔は今、殿下に向けて一心に注がれていた。
二人は私に気づくことなく、微笑み合いながら会話を続けている。
「あらあら、」
ヴァルツァー王国、アリスティア学園。
将来、国を統べ民を率いていく王家を筆頭に、その王家を支える貴族階級の子息令嬢が集められ、学び育むことを目的とした全寮制の教育機関である。つまり将来的な国の中枢、その縮図とも呼べる場所である。
十二歳の頃に入学し、中等部、高等部と過ごし十八歳で卒業を迎える。私達はここで社交界デビューのための総仕上げを行うのだ。学園は同時に社交の練習の場も兼ねており、正式なデビューに備え、ここで経験を積む。卒業式には陛下と王妃さまが参加され、そのまま社交界デビューのパーティとなる。教養を身に着けることを第一に、人脈作りから結婚のお相手探しと、やることは目白押しだ。
そんな場で、彼女は最近なにかと話題になっていた。
ある時は、第二王子であるユーリ・ローゼン・バレット殿下と仲良さげに昼食をご一緒されていた、とか。
またある時は、父親がこの国の宰相を務める公爵家ご令息ゼル・クリストファーさまと楽しげに談笑している姿が度々目撃されている、とか。
さらにある時は、私の義弟セシル・ベルシュタインと王都の通りを親密そうに歩いていた、とか。
話題には事欠かない方のようで、他にも多くの男子生徒と接点を持ち、人脈作りに励んでいるらしい。少々、同性からの評判は芳しくないものの、その社交性の高さには素直に感心してしまう。羨んでしまいそうになるほどに。
けれど、感心してばかりもいられない話題もある。
女子生徒達の密やかな囁きによれば、彼女はテオドール殿下とも親しくしているらしい、とか。これについては今まさに、目の前で目撃してしまったところである。
手を取り合って語り合う二人はお似合いに見えてしまって、声をかけるのも忘れてしまうほど、見惚れてしまった。
本来であれば私は、婚約者がいる身で、とテオドール殿下を窘めなければならない立場にいる。学生という立場であれど殿下は王太子。婚約者を置いて、特定の女性と親しくしている姿は褒められたものではない。まして声をあげて笑うなんて、迂闊が過ぎる。けれど、あまりに二人が親しげで。ソフィア嬢のあふれんばかりの幸せを湛えた表情が、殿下への愛を一途に伝える双眸が、私から言葉を奪った。
「あらあら、まあまあ」
私と殿下が婚約したのは十歳の頃。この国の成人は十八歳。成婚の儀は殿方が成人してからというのが通例で、そのため私達は少なくともあと一年、婚約者という関係を続けることになる。まあそれも、私が殿下に婚約解消を言い渡されなければ、ということになるけれど。
一年もあれば、ソフィア嬢の一途な愛はすっかり殿下を包み込んでしまうかもしれない。殿下の優しい双眸からも、そのうち愛があふれてしまうかもしれない。そうなれば、私に勝ち目はない。
七年続いた殿下との婚約関係ではあるけれど、私達の間にまともな会話と呼べるようなものはほとんどなかった。なにせ私は本狂い。文字を食べて生きていると言われるほどの読書好きである。図書館にこもるばかりで、社交とは相性がよろしくない。殿下と過ごす時間もそのほとんどが図書館で、隣り合って座りこそすれ、読書に耽るだけの逢瀬。きっと殿下はつまらなかったに違いない、と私は常々、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
おまけに私は極度の方向音痴である。どなたかに連れて行ってもらわなければ、毎日通っているはずの食堂へもたどり着けない。辛うじて覚えたのは、寮の部屋から図書館までの道だけ。教室へ行くのだって迷子になる。
頼むから一人で出歩かないでくれ、と殿下に懇願されたほどの迷子っぷりで。音でもさせていてくれないと行く先の予測がつかない、とそう言って贈られたのが今も首に着けている鈴のついたチョーカーである。それがまるで猫の首輪のようだと、令嬢達の目に留まり、ついたあだ名が迷い猫。私が校内で彷徨っていると、殿下の飼い猫が今日も迷っておいでよ、と囁く声が聞こえてくる。
お母さま譲りの猫目が、私のあだ名に拍車をかける。お父さまが猫可愛がりしてくれる猫目が、私は最近、ちょっぴり嫌いになりそうである。
『ヴィ、わたしの迷い猫』
幼い頃から、どうやっても治らなかった私の方向音痴。けれど殿下はいつだって鈴の音を聞いて見つけてくれた。探し出してくれた。
『今度はどこへ行こうとしたんだい? 困った子猫だね、ヴィ』
いつもそう言って、困ったように笑っていた。申し訳なくて、情けなくて、私はいつも目を伏せてしまう。謝罪の言葉は羞恥でかすれ、お礼の言葉だって言いそびれることの方が多いくらいで。
きっと殿下は、そんな私に呆れてしまったに違いない。だって今はもう、近くにいても見つけてはくださらないのだから。
「……殿下の、嘘吐き」
ぽろり、とこぼれた言葉に自分で驚いた。
殿下が私に愛想を尽かしたのなら、ソフィア嬢に心変わりしたのなら、それは私の責任に他ならない。私が至らないから、殿下に何も差し上げられないから。
殿下の飼い猫、ヴァイオレット・ベルシュタイン侯爵令嬢は迷い猫。
そんな風に囁かれてしまう私だから、殿下を繋ぎ留めておけないのだ。殿下の優しさの上に胡坐をかいていた結果のことなのだから、拗ねたようにいじけたことを言うなんて、はしたない。
「……」
すっかり食欲もなくなってしまった。行き先は教室へ変更しようと決めて二人から視線を逸らす。早くしないと、始業前にたどり着けない。
殿下が見つけてくれないのなら、私は一人で頑張るしかない。
普段から気にかけてくれているセシルも、一人でいる私はつまり迷子だと断定して声をかけてくださるユーリ殿下も、同じ方向に用があるからと気遣ってくださるゼルさまも、一人にすると叱られるからと困ったように笑うテオドール殿下の騎士ロータス・ルーナさまも、この場にはいない。
――その時が来たのよ、ヴァイオレット。覚悟なさい。
自分に言い聞かせる。
か細いなけなしの社交性を奮い立たせ、助けをお願いする。それだけのことだ。それだけできればいいのである。迷い猫でも捨て猫でも、王家より薔薇の花を下賜されたベルシュタイン家直系の娘のお願いにそっぽを向ける人間は少ない。少々、傲慢な考え方ではあるものの、これくらい強気でないとやっていけない。
強気なフリも、冷静なフリも、淑女教育でしっかり叩き込まれた。今こそ、学んだことを活かす場面である。
殿下に婚約解消を言い渡されてしまえば、私のような女を拾ってくださる殿方などいないでしょう。そうなれば、実家へ戻って図書館の壁のシミになるしかない。本に囲まれて朽ちていけるのなら本望だ。
大丈夫、きっと大丈夫。ベルシュタイン家には立派なお兄さまと優秀な義弟がいるのだから。家のことはきっと、何も心配ない。せいぜい、読書だけして日々を過ごす私の肩身が狭いくらいで。その時は、蓄えた知識でもなんでも売って滞在費を支払うことにしましょう。
実家で、殿下との婚約が成立してからは王宮で、叩き込まれた教育は伊達じゃない。身に着けた作法も知識も、使い方次第でいくらでも役に立つ。
そう考えると、私に必要なのは独り身で枯れていく覚悟というよりも、心の準備になりそうだ。殿下にさよならを告げられた際、間違っても泣き崩れたりしないように。
踏み出した私の首元で、ちりん、ちりんと鈴の音だけが軽やかに風に溶けていった。
◇
駄目だ。
まさか校内に戻ってから先、誰ともすれ違わないなどと誰が予想できたでしょうか。ひと気を求めて歩いていたはずが、いつの間にかどんどん人の気配が遠のいた。シン、と静まり返った廊下で、もうどう歩いてきたのかも思い出せない。
どうしましょう、と考え込んでいると、遠くから駆けてくる誰かの足音が聞こえてきた。かすかに声も聞こえる。
「――さん、……義姉さん!」
すぐそばまで迫った声に振り返る。
「セシル」
立っていたのは義弟だった。
私と揃いの銀糸の髪は私とは違って癖っ毛で、うなじの辺りで緩く結ってあり尾のように肩をくすぐっている。私より幾らか色素の薄い青い双眸は垂れ気味で、強気に跳ねる眉と相まって悪戯っ子のような表情をつくっている。
一つ年下のこの義弟は、テオドール殿下の次に私を見つけるのが得意だ。
「また一人でうろうろして……どこに行きたいの?」
「第三教室に、午後は座学なの」
「こっちにあるのは講堂と、あとは特別教室だけだよ。行こう、俺が送ってあげる」
差し出された手を素直にとる。
並んで歩いているのに油断すると視界から消えている、と最初に言われたのはいつだったでしょう。目的地はこちらだと確信を持って歩いていたのに、どうしてかセシルと距離が開いてしまう。幾度かそんなことがあって、以来、セシルと行動する際は手を繋ぐのがルールとなった。
「さすがに、この歳になっては叱られると思っていたのだけれど……」
繋いだ手をじぃっと見つめていると、セシルが深々と溜め息を吐き出した。呆れを含んでいる、と感じたのは間違いではないでしょう。
「これ以上に義姉さんを確実に目的地へ連れて行く方法はないからね。みんな何かしらやってるでしょう?」
「……そう、ね」
確かに、腕を組んだり手を引かれたり、皆さま私との距離を物理的に縮めている。あまり褒められた光景ではないはずだけれど、歩いて三十歩の距離でも迷ってしまう私が拒否できるわけもない。
とはいえ、いつまでも続けてはいられないでしょう。セシルだって今は逃げ回っているけれど、いずれ婚約者を迎えるのだから。義理とはいえ姉とこうも距離が近いとあっては、婚約者も内心穏やかではいられないでしょう。……方向音痴、やはり早急に克服したいものだわ。
「方向音痴は義姉さんの数少ない隙だから、俺はそのままでいいと思うよ」
思考を読まれたと錯覚する。目を丸くする私を見下ろして、セシルは悪戯に成功した子どものように笑った。
「義姉さんの思考は難解だけど、多少はわかるよ。弟だからね」
茶目っ気を発揮してウインクまでして見せた。つられたわけではないけれど、気持ちが少しだけ浮上する。
「嬉しいわ」
難解だと言われてしまった思考を、少しだけ明け渡してしまおう、と思う程度には気持ちが浮かれた。
「ねえ、セシル」
「なぁに? 義姉さん」
「私が実家へ戻ることになったら、お父さまとお兄さまの説得を手伝ってね」
邪魔にならないよう図書館に住むから、と続けるはずの言葉は、セシルが遮ってしまった。
「実家へ戻る? 殿下がいるのに?」
本当に驚いたのでしょう、セシルは目を丸くしている。
「婚約解消が迫っているのよ。準備だけはしておかないと」
「義姉さん……それはまた、どうしてそういう思考に至ったの?」
私は先程、目撃したばかりの殿下の様子と、ソフィア嬢に関する噂話を伝える。淑女の噂話を殿方に耳打ちするのはマナー違反だけれど、これは姉弟の内緒話。例外として問題ないでしょう。
一通り話を聞き終えたセシルは腕組みし、何やらうんうん唸り始めた。手が離れてしまったので、はぐれないよう慎重に歩を進める。
「義姉さん、それはぁー……うん。一度きちんと殿下と話をするべきだと思うよ」
至極当然なその意見に今度は私が腕組みして、頬に手をやる。困ってしまった。
「話、できるかしら」
「……会話は意思疎通の初歩だよ、義姉さん」
そう言うセシルの社交術はすさまじい。初対面の相手ともすぐに打ち解けられ、どなたとでも仲良くなれる。周囲には常にたくさんの人がいて、いつも笑顔に囲まれている。私とは大違い。見習わなければ、と思うのに、どうしても寡黙な本を相手にする方が楽でそちらに逃げてしまう。
「それから、念のために言っておくと、俺はそのご令嬢とは何もないよ」
「そうなの?」
「そうだよ! 俺は誰とでもある程度は親しげに会話するけど、特定の相手と深くかかわったりしないよ。たまたま一緒にいるところを見た誰かが早とちりしたんだろ」
「そうなの」
心底うんざり、という顔をするセシルに、私はそれ以上の追及を放棄した。何もない、とセシルが言うのなら、本当に何もないのでしょう。嘘を吐いても得などないし、セシルの嘘ならすぐわかる。
「それより殿下の話。本当、義姉さんは殿下のこととなると途端にダメになるね。他の誰かが相手なら、餌を狩る虎も斯くやってくらい恐ろしいのに。さっさと会いに行って、昼間のあれは何だったのか問い質すだけでいいんだよ。何を臆病になっているんだか」
「悪意のある言い方だわ」
「義姉さんがそうさせるんだよ。たかだか恋愛のちょっとしたスパイスだろうに。逃げ腰になるなんて、ベルシュタイン家の名が泣く」
ムッとする。
家名を出してまで叱咤されては、私も腹を括るしかない。
「ベルシュタイン家の名に懸けて、殿下とはきちんとお話します」
「そうだね、頑張って。さあ、着いたよ」
セシルが立ち止まったので、私も歩を止める。
「ありがとう、セシル。助かったわ」
「どういたしまして。……殿下の件、きっと大丈夫だよ。義姉さんは我が家のとっておきなんだから」
うまく笑えなかったのでしょう。セシルが笑顔を誘うように私の髪をつまんで毛先をくすぐった。
「それとも、我が家の虎と言った方がやる気になる?」
今度はうまく笑えた。ふふ、と漏れた笑みを見て、セシルが安堵の息を吐く。
「放課後にでも会いに行ってみるわ。きっと生徒会室にいらっしゃるでしょうから」
「うーん……その時間だと俺は迎えにきてあげられないな。誰か案内人を見つけてね、義姉さん」
わかってるわ、と笑んだ私に、本当かなぁ、と苦笑してセシルは去って行った。
教室に入り席に着く。
セシルと話せたことで、中庭にいた時に感じていた胸が締め付けられるような閉塞感は薄らいだ。同時に、消失していた空腹感がじわじわと蘇る。……講義の最中にお腹が鳴ったらどうしましょう。
気を紛らわせるべく、思案に耽る。
王家から婚約の話が持ち込まれたのは、私が十歳の誕生日を迎えた少しあとのこと。
ベルシュタイン家はヴァルツァー王国の防衛の要、インヴェルン辺境領の統治を任されている。リゼルユース山脈を境界とし、長きに渡り大陸の覇権を争う北の大国の侵攻を防いできた。その功績によって、ベルシュタイン家は王から薔薇の花を賜ったのだ。花の下賜は王からの信頼の証であり、受け取るということは王への信頼と心からの忠誠の誓いとなる。特に薔薇の花は王家の紋にも使用されている花であり、それを賜った家は王国の歴史の中でもごくわずかだ。公爵家と並ぶほどの権力を、それ以上の信頼を得たに等しいベルシュタイン家と王家の更なる結びつき。王都にいるエリックお兄さまが吹雪の中、無茶をして帰ってくるわけである。
大陸最大の領土を誇るヴァルツァー国の最北端、他とは一線を画す凍て地と揶揄される極寒のインヴェルンでは、吐く息さえ凍るといわれている。雪が降りだせば辺りは白銀に染まり、結晶混じりの風は肺を焼く。そんな地へ、冬の最も深い時期に。まだ幼い十歳のテオドール殿下が自ら訪ねてきたのが始まりだった。
『わたしのことは、図書館とでも思ってくれていい』
衝撃的な言葉に、私は返事も忘れて瞠目した。将来はこの国の王となる方が、自身を図書館と称するなんて予想もしていないことだった。
『わたしの婚約者として、最低限の社交は容赦してほしい。けれどその代わりに、私は君と本の仲を決して裂いたりしないと約束しよう』
私にとっての最優先、それを踏まえての発言。王太子として妃に求めることよりも、私の求めることに心を割いてくれる。
初めに抱いた感情は、恐怖だった。
王子の婚約者というのは、幾人かの候補者を立て、その中から選ばれる。けれど私が婚約者候補に名が挙がったという話もなく、王宮での顔合わせも行われていない。もちろんお父さまからそんな話も聞いていない。にもかかわらず、殿下の言い方はもう婚約者になることが確定しているよう。
王子の婚約者として我が家が条件を満たし、私も問題がなかったということはわかった。けれどそれだけだ。政略結婚、その典型のような話だった。だからこそ余計に、私の胸中に降り積もる警戒心は一向に溶ける気配を見せなかった。
渋い顔をしたお父さまに渋々といった風で案内された部屋にいた殿下は、およそ十歳とは思えなかった。つくり込まれた笑顔、洗練された佇まい、完璧にも見える王太子の姿。子どもらしさや隙は王妃さまのお腹の中に置き忘れてしまったのでしょうか。そう思ってしまうほど、当時の殿下は容姿と中身がちぐはぐだった。
不気味で、恐ろしい。
婚約者との初顔合わせの場で、緊張の欠片すら感じさせず挨拶と自己紹介を済ませ、あっという間にお父さまを部屋から追い出した。その間、一切ブレることのなかった笑みは、今、思い出しても身震いしてしまいそうになる。
『わたしと婚約すれば王宮書庫の本も自由に閲覧できるよ。あとはそうだなあ……異国の本も可能な限り取り寄せてあげる』
殿下の申し出は破格で、あまりに魅力的で、それが余計に恐怖を煽った。本狂いである私が、殿下が言葉を重ねるほどに冷静になったのだからよっぽどだ。
初対面の婚約者に対してどう振る舞うことが求められているのか理解し、正しく振る舞う。通例とは異なる手順を踏む婚約で、相手の警戒心を解し懐に入り込むためにはどうするのが効果的か思考し、最適解を実行する。あまりに理性的なその態度が、気に食わなかった。
我が家が預かるインヴェルン辺境領は国境の要。この地を統べるベルシュタイン家のとっておきは、おいそれと差し出せるものではない。直系の娘である以上、私もまた王家に忠誠を捧げる身なれど。この地が屈すれば、他の地が阻める力などないのだから。
『私は、殿下に何を差し上げればよろしいですか』
『え……?』
『今のお話だと、私は殿下からいただいてばかりです。私、借金はしない主義ですの』
『し、借金……』
初めて動揺を見せた殿下に、私は内心にっこりしたのを覚えている。
『わ、わたし達は将来、夫婦になるんだよ? 奥さんを幸せにしたいと思うのは……あ、』
出会ったばかりの相手に向けるには性急な言葉を選んだと気づいたのでしょう。殿下は、しまった、と言わんばかりに口を噤んだ。ここぞとばかりに畳みかける。
『私だって、旦那さまを幸せにして差し上げたいですわ』
『……参ったな』
ぽつり、と呟いて、ややあって殿下は声をあげて笑い出した。子どもらしい無邪気な笑い声に、無垢な笑顔に、私もつられて可笑しくなってしまった。二人でしばらく笑い合って、落ち着いた頃には殿下の表情は和らいでいた。
不意を突かれて動揺するなんて、完璧とは言い難い。隙だらけと言ってもいい。
殿下も私と歳の変わらない子どもなんだと思ったら、肩の力も抜けた。
『こんなに笑ったのは初めてだ。……初めての経験をもらってしまった。君の理論で言うと今度はわたしがお返しする番だが、もう一つもらってからにしよう』
借金はわたしがするよ、なんて。ちょっと意地悪するつもりで選んだ言葉だったのに、殿下は存外、気に入ってしまったらしい。
『わたしの婚約者になってほしい』
お願い、と。これはわざとらしく子どもじみた仕草で首を傾げて。そんな様子も可笑しくて、
『はい、……ふふ、喜んで』
私はうっかり受けてしまった。
待ちくたびれて戻ってきたお父さまには盛大に顔を顰められてしまったけれど。お兄さまの顔も盛大に引きつっていたけれど。殿下との婚約を後悔したことは、まだない。
「……はぁ」
後悔したことはない。殿下が私以外の女性と、あの時のように笑い合っている場面を見た今も。
殿下と過ごす時間は心地よくて。一人で黙々とページをめくるだけで満たされていた読書の時間も、殿下と隣り合っていると喜びも一入だ。自分では思いつかない表現を読んだ瞬間、綺麗な文章と出会った瞬間、未知との遭遇。そのどれもが宝物になるような、そんな気がした。
――それも、お終いかもしれないのね。
それを寂しい、と私は感じているのに。読書に明け暮れる日々の中ですっかり動きの鈍くなってしまった表情筋は、まるで感情を表現してくれない。凪いでいた心にも漣が立っているはずなのに、どうしてか他人事のように感じてしまう。上位貴族の娘として、むやみに感情を表に出さないことが求められるにしても、限度がある。達観している、と言えば聞こえはいいけれど、無感情、果ては寒さで心も凍ったなどと言われるようになってしまうほど私の感情は外に出たがらない。困ってしまう。
気持ちや思考を表情で伝達できない私は言葉や仕草で表現するしかないというのに、私はそれも不得手だ。殿下の言葉に甘えて、そしてデビュー前であることを言い訳に、私は最低限の社交をこなしてきたに止めている。物言わぬ本とばかり仲良くしていた弊害か、役に立つかもわからない知識はいくらも蓄えたけれど、淑女に必要なおしゃべりの技術や話題はちっとも育たなかった。
セシルの言う通り。たった一言、殿下にソフィア嬢との関係を問うだけでいいのに。それだけで私は身の振り方を決められるのに。……殿下に責任転嫁してはいけない。
放課後、きちんとお話しなくては。覚悟を、決めましょう。
詰めていた息をそっと吐き出して、いつの間にか握りしめていた拳を開く。
折よく始業の鐘が響き、私の思考は一区切りとなった。