誰かの『ラメン』
以前、レンにエルフの里で、旨味について教わった。
ラメンの主な旨味要素は三つであり、すなわち『グルタミンサン』『イノシンサン』『グアニルサン』。
これらが合わさって、美味いスープができるのだと。
このうち、コンブ(ナガカイソウ)はグルタミンサンを、鶏ガラとカツオブシ(マグロ干し)はイノシンサンを担っている。
鶏ガラ、コンブ、カツオブシ。
ヴァナロの三つの神器ではないが、いずれもショーユラメンには欠かせぬ三位一体の品である。
私がなぜ、これらの食材が入っていないことに気づかなかったのか?
理由は単純。スープが、あまりにも『美味過ぎた』からだ。
もしもメンを啜ってスープを飲み、少しでも物足りなさを感じたならば、私は即座に理由を探り、それらの食材を使っていないからと見破っただろう。
しかし、まろやかな甘味が漂うスープには、物足りなさは一切なかった!
それどころか絶妙な広がりを持った香りと、複雑な旨味が胃と胸を一杯にして、こんなに美味いショーユ・スープなのだから、それらの食材を使っていないはずがないと、そう思い込んでしまったわけである。
いわば、強烈な固定観念が私を縛り付けて、「あれれ? 何か変だぞ……」と思いながらも、理由の看破には至らなかったわけだな。
もちろん、コンブやカツオブシを使わなくても美味いラメンができることは、レンがエルフの里の『トマトラメン』で証明してくれた。
しかし、それはあくまで無いから代用したのであって、美味しいショーユラメンを作るならば、コンブやカツオブシを使うという選択肢が、一番近道であるはずだ。
また、先ほど、『普通ラメンのスープは塩辛いものだが、このスープはそれだけでも料理として完成してるほどだ』と語った。
そう。スープ単体で味わっても塩辛くないのに、塩気のないメンと一緒に食しても、物足りなさを感じないのだ……。
このパラドックスを紐解くのは、スープを包み込む優しい甘さである。
果物のシャーベットを作る時は、塩をひとつまみ入れると甘味が引き立つ。
その逆もまた然りであり、柔らかくてトゲのない不思議な甘みが、全体の塩気を引き立てて、満足感を引き出しているのである。
だが、いくら控えめとは言っても、油と甘さが組み合わされば、どうしても口は重たくなるものだ。
そこで力を発揮するのが、メンを覆い隠さんとばかりに大量に入れられた白菜だ!
ほどよくシャッキリ感の残った歯応えと、わずかにほろ苦い後口。そして葉物野菜特有の爽やかさが、合間合間に食べることで口をサッパリさせる。
スープが上品なので、生のヤクミほど鮮烈でなくても、口直しには十分なのだ。
最初はたんなる具材かと思っていたが、味わえば味わうほど、緻密な計算の上に成り立ったバランスだとわかる……。
さて。ラメンも終盤を迎え、残りわずかになってきた。
プリプリの中細メンや白菜、豚バラ肉は、すでに残らず平らげた。スープの色が澄んでいるので、取りこぼしはないはずだ。
ドンブリに残ったスープは、ヤタイの照明で薄い黄金色にキラキラと輝き、『早く飲んで!』と私を誘う。
たまらず唇を付けてドンブリを傾けると、芸術的な香気と共にスープが口内へと流れ込んだ。
思い返すとこのラメン、真の主役は『甘味』であったように感じる……。
食材から滲み出た旨味には、それぞれ層がある。
肉には肉の、魚介には魚介の、野菜には野菜の層があり、それらは時間をかけて煮込むことで、互いに融合して輪郭がなくなる。
しかしどれだけ丁寧に混ぜ合わせても、微妙な凹凸は残ってしまう。
それらを最後に甘みが優しく包み込むことで、微妙な段差がなだらかになり、このスープの完成度はグッと増したように思う。
この肉と野菜が溶け込んだ上品な美味さは、甘味がなければ成立しえなかった。
甘みが全ての食材をまとめ上げ、一段高みへと押し上げていた……。
最後の一滴までスープを美味しく飲み干しながら、私はそんな風に考えるのであった。
レンが腕組みしながら私たちを見回し、顎を上げて言う。
「みんな、食い終わったな! それじゃあ今夜のラーメン、ぜひ感想を聞かせてくれよ」
「とっても上品で、素晴らしく美味なるラメンだったよ。どこぞの宮廷料理と言われても違和感ないほどだ。牛肉と野菜の芳しいスープに、不思議で優しい甘さがとてつもなく調和していたぞ」
「いやぁ、驚ぇたよ、レン……! こいつぁ多分、ムカチョーだろ? そんでもってショーユラメンなのに、鶏ガラ、コンブ、カツオブシは使ってねえんじゃねえのか!?」
「牛のスープは、僕も何度か試したことはあります。だけど、どうやってもこんなあっさりとしたショーユ味にはなりませんでしたよ!」
「んーっと。これはきっと、アレよ。前に義父ちゃんが言ってた味よね……えーっと、そう! 難しい味って奴だわね!? 美味しさのけい……えーっと、経験値? ってのがないと、物足りない薄味に感じちゃう味よ」
我々の言葉を聞いて、レンはウンウンと何度も頷く。
「そもそも牛ってのは、ラーメンに向かない食材なのさ。主な要因は二つ。ひとつは価格だな。美味いスープが作れる鶏ガラや豚骨が手軽に安く手に入るのに、それより高い牛骨を使う意味は薄いだろ?」
ブラドが同意した。
「ええ、そうですね。鶏ガラを使えば、旨味十分で濁りのないスープが作れます。しかし牛骨を煮出すと、どうしても強いクセというか、脂のクドさみたいなものが出てしまいます」
「そう。ブラドが言う、牛のクセ! それが、二つ目の理由だぜ」
私も頷く。
「うむ。牛の旨味は、ミルキーで甘い風味が特徴だ。よく言えばリッチで、悪く言えばクドい。例えば『グリヤシュトープ』という、牛肉を使ったスープがあるんだがね……。このスープは牛のスネ肉をじっくりと煮込んだスープなのだが、牛の匂いや脂っこさをトマトの酸味と各種スパイスで、重厚感のある食べ応えへと変化させているのだよ」
「クドいってのは食材として、決して悪い事じゃねえ。例えば、醤油と砂糖を濃い目に入れれば牛丼風のわかりやすい味になるし、カレーで煮込めばドッシリとした骨太な味になる。拉麺の発祥地お隣の大陸には、牛肉を使った牛肉麺や蘭州ラーメンもある。しかし、牛肉麺は八角やパクチーを効かせた濃い味だし、蘭州ラーメンはあっさり目だが、臭み消しに香草類をたっぷり入れる。……やはり牛を煮込んだ汁には、パキッとしたわかりやすい香りや味付けが必要になるな」
「けどよ。今回は真逆の味わいだったろ? クドくもなけりゃあ、塩も濃くねえ。香りはいいけど、強烈じゃねえ」
オーリが言うと、レンは私とオーリにチラリと視線を送った。
「……なあ。二人は覚えてるだろ? 前に、ジュリアンヌとのラーメン勝負の時に、俺が作った『最強の親父のラーメン』を、よ」
「ああ、もちろん覚えているとも。あれは衝撃的な美味さだった! きっと千年経っても忘れられない美味さだぞ」
「俺っちも覚えてるぜ。タイショのラーメンは大好きだけど、あの『ワンタンメン』の美味さにはかなわねえ」
私たちが頷くと、レンは遠い目をして言う。
「ありゃあ、俺の最高傑作よ……。俺は、親父のラーメンを全力で磨き上げて、俺の信じる『最高のラーメン』を作ったつもりだった。だがそのラーメンは、コストが高すぎて屋台のラーメンには使えない。逆に屋台で商売するんだったら、なんの改良もしてない『親父のラーメン』をそのまま出すのが一番だってわかっちまって、俺は無力感に打ちのめされた……。心がポッキリ折れちまったんだ」
「レ、レン」
とても寂しげな声だった。
必死で作り上げたラメンを捨てねばならぬのだ、よっぽど悔しかったろうな……。
だけどレンは、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「そんな時だよ! 俺が今回の元となったラーメンを食ったのはな! 俺ぁ、大いに刺激を受けたねえ! 白菜と豚バラたっぷりの丼顔に、牛コンソメを主体にした、あっさりしつつもコクの溢れる透明感のあるスープ。フレンチみたいに格調高いのに、しっかり大衆的な味わいだ。それまでの醤油ラーメンと全く違う、新機軸の斬新なラーメンだよ!」
勢い良く語り出すレンに、私はホッとする。
彼は、気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「結局、俺はラーメン馬鹿なんだな。美味いラーメンを前にしたら、悩みは全部ぶっとんじまう。で、そのスープを参考に、どうせなら一般的な醤油ラーメンで使われる鶏ガラ昆布カツオブシ。いずれも使わずやってみようって考えて、完成したのが今回の『おいしいラーメン・改』なんだ」
レンの思い出話を聞いて、ブラドがしみじみと言った。
「レンさんも『誰かのラメン』に、人生を救われたんですね……」
グリヤ・シュ・トープ(誰かのための煮込み料理)




