限りなく近くて、どこまでも遠い場所
「みんな、今日の塩ラーメンはどうだったよ?」
レンの問いかけに、私たちは次々と感想を述べる。
「鶏と塩の旨味に満ちた、実に素晴らしいラメンだった! あれほどわかりやすい味ならば、誰に食べさせてもまず外れなく、万人に受けるだろうね」
「俺っちは不覚にも、ブラドが初めて作ってくれた鶏ガラスープの味を思い出して泣けちまったぜ……。考えてみれば鶏肉と塩ってのはよ、料理人にとって一番馴染みのある食材かもしれねえな」
「義父さんも言いましたが、鶏と塩は料理の中でも基本の組み合わせです。しかし、百人の料理人に鶏と塩でスープを作れと言えば、百通りの味ができるでしょう! 脂身はどれだけ使うか、塩の濃さはどうするか。鍋に掛ける火や時間、皮や内臓は入れるのか、肉は炙るか煮るか蒸すか……。その中でも今日食べたラメンは、想像をはるかに超えた美味さでした」
「なんていうのかなー? 鶏の美味しいトコだけ、トコトン集めちゃいました! みたいな? 味はギュッと詰まってるのに、嫌味な匂いがまったくなかったわ。メンも細いのにプチプチシコシコで。とにかく、すっごい美味しかった!」
皆が喋り終わるのを待ってから、一拍置いて私が言う。
「で。まさか、レン。このスープの作り方を教えないだなんて……そんな意地悪を言う気はあるまいね?」
その言葉に、レンはニヤリと笑った。
「安心しな。何もかも教えてやるよ。まず、今日使った鶏はこいつ。名古屋コーチンだ」
言いながらレンは、ヤタイから丸鶏を取り出した。
「ほう! やはり、普通の鶏ではないと思っていたが……。だが、その『ナゴヤコーチン』は、一体どこが特別なのだ?」
「名古屋コーチンは地鶏といって、地域ごとに血統が管理されていて、普通よりも日数をかけて育てられた鶏になる。まあ、平たく言えば肉の味がよくなるよう、大切に育てられたブランド鶏だ。論より証拠。まずは味をみてくれよ」
レンは胸の辺りを切り分けると、小ぶりのフライパンを取り出して、その上で肉を焼き始めた。
肉の色は赤みが強く、皮は分厚く脂が黄色い。じっくりじっくり、弱火で慎重に火を通す。
やがて肉の周囲に脂がジクジクと滲み始め、良い匂いが漂い始める。
レンは一瞬だけ強火にすると、パッパと塩コショウを振って、我々の前にフライパンを置いた。
「本当は、炭火で焼くのがいいんだけどな。さあ、とうぞ」
我々は一斉にワリバシを伸ばす。
口に入れるとやや硬めの肉質で、グッと歯を沈めると旨味たっぷりの肉汁がジュワっと溢れ出てきた!
皮は表面がパリパリ、皮目の部分は蒸されたように柔らかで、噛むほどに脂が滲み出る。
う、うまい。
レンは回収したフライパンの脂を、紙で拭きながら言う。
「俺は地鶏が好きで、全国色々と食べ歩いた。比内地鶏は味も香りも抜群だが、いかんせん値段が高い。薩摩地鶏は肉の味がしっかりしてて、香味野菜や甘口醤油とよく合うぞ。阿波尾鶏は唐揚げが、奥久慈軍鶏は鍋が美味かった! みやざき地頭鶏も、奥深くて美味いスープが取れる。が、コストや入手のしやすさ、それに知名度を考えると、ラーメンには名古屋コーチンが一番だと思う」
肉を噛みしめながら、オーリが言う。
「ふうん、なるほど。使う鶏の種類によって、合う料理が変わってくるってわけか……。俺らの使ってる鶏ってのは、あんまり血統は気に掛けねえなぁ」
それに私も頷いた。
「うむ。東方にいる闘鶏はシチューにすると美味いとか、北方の鶏は脂が多いから串焼きが美味いとか……そういう話はよくあるがね。鴨、雉、鶉、美味い野鳥はいくらでもいる。鶏というのは、卵を産んでなんぼだ。卵をどれだけ産むかは気にするが、肉の美味さに気を使って交配する……というのは聞かないな」
レンが苦笑する。
「俺らの世界じゃ、野鳥はなかなか手に入らない。そういう多種多様な鳥肉の代わりに、気軽に味わえる地鶏が育てられてる面もあるかもしれねえ」
ブラドが肉をゴクンと飲み込み、それから言った。
「確かに、美味い鶏です。しかし、単純にこの鶏を使ったからと言って、あんなに美味しいスープができるとは思えません! この鶏を使って、どのようにスープを取ったのですか?」
「よっしゃ。みんな、こっちに来てくれ!」
レンは、我々を調理台の方へと呼び寄せた。
大鍋には底まで見通せるほど透き通った、美しいスープが溜まっている。
レンは、さっき胸肉を切った生のナゴヤコーチンをひっくり返すと、尻の部分の切れ目から内部を指さして言った。
「このスープの作り方を教えるぜ。まず、内臓と脂をしっかり取り除く。皮の間の脂身もできるだけ取る。そうして丸鶏を切り分けたら、ガラと肉だけでスープを作る」
言いながらレンは、華麗な包丁使いであっという間に丸鶏をさばいてしまう。
ナゴヤコーチンはバラバラになり、肉と鶏ガラ、黄色い脂身が切り分けられた。
ブラドが問いかける。
「あんなに油たっぷりのスープだったのに、脂身は入れないんですね」
「そうだ、入れない。皮は入れるがな。脂身を入れて煮だすと、わずかにクドく重たくなっちまうんだよ。水を入れたら弱火で四~五時間。沸騰させないように気を付けて、スープの色が透明になるまで、浮いてきたアクや脂を徹底的に取り除く」
「肉と骨と水だけ……? えっ、臭み消しのリンゴやヤクミの青い部分は入れないんですか!?」
「入れない」
「ナガカイソウは入れないのかね?」
「それも入れない。スープは名古屋コーチン単体で取る」
「せめて、ニンニクか生姜をひと欠片……」
「入れない。もちろん、塩ダレの方には塩コショウ以外にもスープの味を引き立てるため、干し椎茸や干しホタテなんか入ってるがな。塩ダレの旨味要素は、他に化調だ。名古屋コーチンの風味を邪魔しないため、昆布は入れずに純粋な旨味要素だけを選択した」
ブラド、私、オーリと順々に問いかけるが、レンはそのどれもに首を振った。
私たちは絶句する。な、なんというストイックさだろう!
確かにさっき、鶏と塩の旨味と言った。味わいの要素が少ないゆえに、誰にでもわかる美味だと言った。
しかし、まさか本当に鶏と水だけでスープを作っていたとはっ!
と、呆然とする私たちの隣で、マリアが指摘する。
「でも、おかしいわレンさん。このスープ、私たちが食べたラメンのスープと、ずいぶん見た目が違くない?」
そ、そうだ!
言われてみれば、その通りである。
このスープには、私たちが食べたラメンにあった『油の層』が浮いてない!
レンはフッと笑って、まな板に乗る黄色い脂身を手に取った。
「その秘密は、こいつさ」
言いながらレンは、さっきのフライパンに脂身を入れた。
極弱火で火に掛けると、やがて水分と脂が出てきた。
さらに火に掛けると水分が飛んで、トロリとした黄金色の油だけが残る。
鶏油である。
「極上の名古屋コーチンだけで取ったスープは、どこまでも純粋でクリアな旨味に富んでいる。そこに同じ鶏から作った鶏油を加えることで、完璧な味の一体感を出しつつも、芳醇でリッチなコッテリ感がプラスされるってわけだ」
我々はハッと息を呑む。
よもや、よもや、よもやっ!?
あのスープの脂と旨味が、別々に取られたものだったとはっ!?
いつか、レンは言っていた。
食材の旨味を引き出す温度は、それぞれ違うと。
野菜と肉だけでなく、脂身と肉では、旨味を引き出す温度もそれぞれ違うということか。
やってることは単純だが、とんでもなくレベルが高い!
さらに使う材料を極限まで絞り込み、何かを引いていくことで完成させる『引き算の美学』よ。
料理も美術も文章も、みな同じである。どれだけやっても十分とは思えず、つい何かを付け足したくなる。
旨味の積み重ね、重厚で流麗な文章、絵や彫刻の細部の描き込み造り込み……どれも決して無駄ではない。
しかし実は、その対極にも同じように美はあるのだ!
最上の材料に、熟練のシェフの経験と勘。そして、ひたすら真っ直ぐストイックを貫く信念。
老若男女人種を問わず、誰もが美味いと感じる味。そんな『料理人の夢や憧れ』とも言える味は、きっと驚くほど近くで、そして恐ろしいほど険しい道の先にあるのだろう。




