最小の料理
宴会場はピリピリとした緊張に包まれ、ヒソヒソと小声で話をする者がそこかしこにいる。
ああ、この空気……私はよく知っている。人が『美味いもの』を期待している空気である!
やがて引き戸が開かれて、レンが姿を現した。
だがしかし目の前に並べられた料理に、皆あきらかに拍子抜けした表情になった。
一口大にまとめた米の上に、短冊状の具材が乗ってる。
ただ、それだけである。
レンが腕組み顎上げポーズで言う。
「四種の握り寿司だ! 右から順に素手で食ってくれ」
『ニギリズシ』の角皿の横には、濡らした布巾が置いてある。
具材は生の白身魚の切り身と青魚の切り身、そして三つめは……むむっ、なんだこれは!?
どうも『動物の生肉』に見えるが……?
と、ヴァナロの誰かが声を出した。
「……これは。まさかマグロの脂身ではござらぬか?」
「なにっ!? そんな物を食ったら腹を壊すぞ!」
「バカな。マグロの脂身と言えば、行灯の安価な燃料でござる」
「猫すら食わぬ脂身を、我らに食えというでござるか!」
マグロは身が傷みやすいので、大陸でも食材にされること自体が稀である。
ラメンの材料として加工した『マグロ干し』や、ブラドとオーリが特別に発注してる『アラブシ』以外、料理の食材として研究されたことはほとんどない。
食べ方も煮るか焼くかのどちらかだが、脂肪は焼くとすぐに溶け落ち、煮るとスープがギトギトになって生臭い。
そこかしこで上がる文句に、カザンは悔しそうな声を出した。
「情けない……本当に情けない、あなた方はっ! ヴァナロの常識がどうしたというのです? これは異国の料理です。そんなことでは、父上の標榜する『他国と手を取り合う開かれたヴァナロ』など夢のまた夢ですよ!」
シーンと静まりかえる室内をにらみつけ、カザンはニギリズシに手を伸ばした。
そして、パクリと口に入れる。途端、周囲はオタオタしだす。
「カ、カザン様っ!」
「若様だけに食べさせるわけにはいかぬ!」
「おい、我々も早く食うぞ!」
「おうよ。若の仰る通りだ。我らの行い、確かに恥じた言動であったわ」
「失礼をした、お客人。いただきまする!」
カザンに続いて一斉に食べ始めるヴァナロの面々に苦笑しながら、私も布巾で手を拭いてからニギリズシを掴むと……おっ、これはっ!?
飯が人肌に温かく、しっとりしていてベトつかない。持ち上げても崩れない程度に固めてある。
なんというか、とても『気持ちのいい触り心地』である。
さてレンの指示に従って、まず最初に口に入れたのは白身魚だ。
塩とスダチが絞ってあり、口に入れると米がパラリとほぐれて広がる。
飯には酢と砂糖、若干の塩が混ぜ込んであるらしく、プリプリした上品な白身魚に、ほのかな米の甘酸っぱさがなんとも言えない味わいだ!
次に食べたのは、青魚であった。
酢と塩で軽くマリネしてあり、中にはすりおろした生のショウガが入ってる。
歯切れのいい青魚の生身にほどよい酸味、ショウガの辛さがサッパリとした後味を添える。脂はたっぷりなのにちっともしつこくなく、舌の上をサラリと流れるようだった。ううむ、美味ッ!
さて、三つ目。マグロの脂身だ。私も食べるのは初めてである。
レンの料理に間違いがないのは知っているが、ピンク色にテラテラ光る脂身を見て、若干の不気味さを感じてしまう。どうやら、上には薄くショーユが塗ってあるようだが……?
呼吸を整えてから口へ入れると、おっ。おおおおお!?
なんだこれは!? く、口の中で溶けた……?
いや。本当に溶けたわけではない。そう錯覚しただけだ。
脂身が舌に触れた瞬間、とろけるような旨味が爆発して、顎が勝手に動いて咀嚼したのだ!
先ほどの青魚の脂とはまるで違い、こちらの脂はあまりに強烈で暴力的だ。
ネットリと米粒にまとわりついて、ショーユの風味と混ざり合う! 中にはワサビが入っていて、しつこい脂をツンとした鋭さで引き締める!
ああ……生のマグロの脂身がこんなに美味いとは。これだから美食はやめられぬ。
未知の味に、私はしばし忘我した。
ハッと気づいて、周りを見渡す。
あれほど脂身を嫌っていたヴァナロの人々が、これを食べてどうなったのか気になったのだ。
果たして、彼等の反応は……絶句。絶句である。私と同じだ。
だがその顔を見れば、決してマズいと感じていないことはわかった。
ふむ? 四つ目。最後に残ったのは、卵焼きか!
分厚く切られているが具材によって米の量を変えてるらしく、他の三つと同じくらいの大きさだ。食べてみるとフンワリと柔らかく、出汁がきいてて甘かった。
未知の快楽の後だからこそ、食べ慣れた卵の味に心底ホッとするな……。
卵焼きには白くて半透明の、薄切りの植物が巻いてある。シャキシャキと水っ気たっぷりで、生のカブやリンゴに似た風味だが、それよりも遥かに鮮烈な辛味があった。
ほほう。先ほどのマグロの脂身で重たくなっていた口が、一気にリフレッシュしたぞ!
デザートと口直しの、良いとこ取りの一品である。
と、我々のすぐ近く、カザンの後ろでニギリズシを食べ終えたイッシンが、レンに膝でにじり寄ってガバっと頭を下げた。
「レン殿っ! ニギリズシ。このたった一口の『最小の料理』には、最大限の新鮮な食材、確かな技術、そして細かな心遣いが込められておりまする。このような素晴らしい味、今まで食したことがありませぬ。拙者、レン殿の実力に感服いたしましてござる! ぜひとも、拙者に料理を教えていただきたく存じます!」
おおっ! どうやらイッシンもレンの実力がわかったようだな。
これでようやくわだかまりなく、ラメン作りに邁進でき――
「おいコラ、なんだそりゃ!? 話が違うじゃねえかよ、イッシンさん! 俺はなぁ、あんたが『余興』って言うから、寿司を握ったんだぜ!」
「……はっ?」
え。ええ!? レンが怒ってる……なんで?
周囲もなぜ彼が怒っているのかわからず、みな戸惑っていた。
どうやらレンは、少し酔っているらしい。
だとしても、理由もなしに怒り出すのはやはりおかしい。
レンは口をへの字に曲げて、腕組みをして不機嫌そうな声で続ける。
「言うに事欠いて、最大限だの素晴らしいだのと……聞いてるこっちが恥ずかしくなるような美辞麗句を並べやがってッ! 俺は、寿司をほんの数ヵ月学んだだけだ。だけど俺に寿司を教えてくれた先生は、本当にすごい人だったんだぞ! その人の握る寿司にこそ、今みたいな言葉がふさわしいんだよ!」
ああ、なるほど。
ブラドが『転生版タイショのラメン』を完成させてからすっかり忘れていたが、その思いはタイショのラメンを食べたことのある我々全員が、かつて抱いてたものだった。
自分の味を創るとか、いまだ師を超えられずとか……そんなレベルですらない。
明らかなオリジナルの劣化コピーしか作れない。
そんなものを食べて、わかった気になってもらっては困るのだと。
レンは、そう言っているのだ。
「寿司ってのはな、普通は何年も下働きで修行してようやく色々と教えてもらえる……俺はラーメンに生きる。寿司の世界に絶対に入らないって条件で、特別に色々と教えてもらったんだ! 先生はかつて、銀座のトップレベルの寿司屋でカウンターで握ってた人だ。銀座の寿司は日本一、それ即ち世界一ってことなんだぜ!」
「ちょーっと待ちなさいよ、レン! それは聞き捨てならないわね。日本一の寿司は小樽に決まってるでしょ!? 東京湾で釣れた魚と小樽で獲れたピチピチで新鮮な魚、どっちが美味しいと思ってるのよ!」
え。なんだ!? 今度はサラが不機嫌そうな顔をしてるぞ!
こちらもやはり酔ってるらしく、目がすわっている。
レンはフッっと鼻で笑った。
「ははん? さてはサラさん、知らねえな。今は水揚げされた魚は、その日のうちに空輸される。それに寿司ネタに使う魚は、少し熟成させた方が美味いんだよ。獲れたてだからって美味いわけじゃねえぞ」
「あら、そうかしら。季節の真ダチの白子に、ピッカピカの新鮮なイクラっ! ミョウバンにつけてない最高の生ウニや、函館で水揚げして数時間の透き通ったイカは、北海道のお寿司屋さんでしか食べられないわ!」
「ぐっ……確かに魚卵やキモは、極上のクオリティでは出せねえよ……。けどな!? 職人の腕はどうだ! 銀座には、世界中から一流の寿司職人が集まるんだぜ!」
二人の言い合いはヒートアップする。
なんとか止めたいが、どれも私たちにはない知識なので、一向に口を挟めない……。
「小樽の職人だって一流よ! なにしろ、子供の頃から味わう素材が違うものね。値段もリーズナブルで観光客の多い土地柄だから、一見さんにも優しいわ。銀座のお寿司屋さんなんて、座るだけで何万もとられるじゃないの!」
「銀座は土地が高いから仕方ないんだっ! だけど、日本全国の漁港から買い付けた最高の魚が――」
「はーっはっはっは!」
と、その時だ。
言い合いをする二人の声をかき消すような、大きな笑い声が響き渡った。
日本一、これすなわち世界一でごわす!
エンジョイっ!




