9:死者への冒涜
庭に出たことでルシアは久しぶりに清々しい気持ちを取り戻していたが、クルドは見せたいものがあると、さらに敷地内の外庭を進む。ルシアの居住区となっている宮殿も遠ざかり、心なしか霧が深くなったような気がする。
「ルシア様、こちらです」
少し先でクルドが歩みを止める。振り返ってこちらを見ている彼女に歩み寄ると、そこには石像のようなものがあった。
地中から空へと駆け上がろうとしている大蛇。まるで本物を石にしてしまったかのような圧倒的な迫力があった。良くできた石像だが、気分転換に見せるようなものではない。ルシアはクルドの思惑が分からず、無言のまま彼女のあどけない顔を見た。
「これがノルンの墓標です」
自分を守るために命を落とした者に大蛇を施す。その趣味の悪さにルシアは気分が悪くなった。抑えがたい苛立ちに支配される。
「このようなものを見せて、私にどうしろと言うのですか。こんな、ひどい……」
「これがルシア様のお傍にあったノルンの本性です。躯はその者の本性を示します。大蛇は裏切り者の意味。ルシア様にも理解していただけるでしょう?」
「ノルンは私に尽くしてくれました。彼女が共に在ってくれたから、私は絶望せずに過ごしていられたのです!」
「ですが、これは歪めようのない事実です。もしかしたら何か理由があったのかもしれませんが、それでもルシア様を危険な目に合わせようとしていたことは本当です」
「ノルンが私を裏切るなんてありません!」
「だから! そんな役目を与えるなんて、本当にひどいのは天界の王となったヴァンスです」
「もうやめてください、クルド。こんなことをしなくても、私は魔王に従います」
ルシアは石像に触れる。冷たい躯だった。そっと大蛇を抱くように両腕を回した。優し気なノルンの微笑みが蘇る。こらえきれず涙がこぼれた。
「ノルン……」
酷い仕打ちだった。大蛇が何を意味するのかはルシアにもわかる。わかるからこそ、不当な仕打ちなのだ。この石像がノルンであってもなくても許しがたい。罪のない死者を冒涜している。ルシアは涙を拭うと、憤りのままに傍らのクルドに厳しい声をかけた。
「魔王にお会いすることはできますか?」
「ルシア様が望むならできると思いますが……、ディオン様が恐ろしいのではないのですか?」
「恐ろしいです」
ルシアは素直に頷いた。
恐ろしい。恐ろしくてたまらない。
けれど、このまま無為な日々を送ることはできないと悟ったのだ。自分がどんな世界に立っているのかもわからない。偽りに染められた世界。
そのためだけにノルンに与えられた仕打ち。ルシアには耐え難い。
これからもそれは続くのだろう。じわじわと自分を追い詰めていく仕掛け。
「ノルンをこのままにしておくことはできません。何のためにこのようなことをするのでしょうか」
「ですから、それはディオン様のせいではありません」
「クルド。このような回りくどい仕掛けを与えられる位なら、私は魔王との対話を望みます」
「ディオン様にお願いしたところで、この墓標はどうにもなりません」
「私には魔王ーー」
言いかけて、ルシアはぐっと言葉を呑み込んだ。激情に駆られていてはいけない。与えられた立場を噛み締めてから、言葉にする。
「私には、ーーディオン様が何を望んでいるのかがわかりません」
「それは、……きっとルシア様の笑顔です」
屈託のない調子でクルドが答える。ルシアは諦めにも見た空虚な想いに囚われる。もうクルドが嘘をついているとは思わない。魔王の思い描く世界を刷り込まれているのだ。
誰もが魔王に利用されている。ルシアは自分だけはそうあってはならないのだと言い聞かせる。魔王に囚われ従順に過ごしながら、虎視眈々と狙うしかないのだ。自分が魔王の力を利用できる日を。いつまでも恐れてなどいられない。
作られた世界を暴く必要はない。
人界の王トールへの想い。
ノルンの微笑み。
自分の中の真実を見失わなければ良い。
「クルド、私はディオン様にお会いしたいです」
戸惑ったようにクルドがルシアを見つめる。無理もないが、ルシアは迷わず彼女の大きな碧眼を見返した。恐れないと自らに言い聞かせるように。
「わかりました」
ルシアの決意が伝わったのか、クルドが困ったように笑った。