6:ディオンの失態
王宮を出ながら、ディオンは自分の犯した失態に強く歯噛みする。
傷心のルシアに刻み込まれた、魔王への憎しみ。
破滅の後、魔王の丘を顧みなかった自分が悪いが、まさかこのような形で天界の罠があるとは思わなかったのだ。
いつからノルンは天界に心を奪われていたのか。王妃レイアの従者として在ったことは間違いがない。レイアの信頼が厚かったことも知っている。
人界の王妃、レイア=ニブルヘム。
元はルシアと双神であり、天界の女神であったが人界の王トールを愛し、大地に降嫁した。レイアは女神としての死を選び、天界を去ったのだ。
それでもルシアとの絆は切れず、二人の心は繋がっていた。
天と地にわかれた女神は、天界と人界の繋がりとなり世界を柔軟にした。ディオンも人界の王トールと親交を深め、世界を学んだ。
同じ夢を語り、互いに寝食を忘れるほどに、理想の世界についてを話し合ったものだ。
屈託のない時間。けれど、ディオンにも見えていないことがあった。
神の嫉妬。
天界の王となったヴァンスが放った破滅。
圧倒的な一撃だった。
呆気なく失われてしまった世界。
美しい大地は、跡形もなく焼かれた。
ディオンとルシアは、トールとレイアをはじめーー人界の全てを失うに至った。
破滅のもたらした結末に心を痛めたルシア。彼女を慰める者として、ディオンは人界から救い出した者からノルンを選んだ。王妃レイアに仕えていた侍女である。ルシアと想いを分かち合うには、最適な者であったはずなのだ。
そのノルンが裏切るとは、さすがにディオンにも考えが及ばなかった。
ノルンを蛇として、天界の王ヴァンスの思惑は叶えられただろう。
レイアを悼むあまり、残された最期の想いに同調したルシア。ノルンはその心に見事に偽りを植え付けた。
ルシアは今、この上もなく自分を憎んでいるのだ。
美しい碧眼に映る苛烈な憎悪を見るたび、ディオンは失った右眼の痕にもたらされた試練に、心が奪われそうになる。
この身に潜んでいる、手の付けられない狂気。囚われないように最善の注意を払っているが、ときおり不安定に蠢いてディオンを苛む。
金の装飾で隠した右眼に手を当てながら、彼はやり切れない思いで魔王の丘を後にする。
「ヨルムンド」
霧の深い森に入りながら、ディオンが呼ぶとざっと風が舞った。大きな影がすぐに駆けつける。銀のたてがみと赤い瞳の魔獣。人界の狼より巨大な体躯で、彼の鼻先とディオンの目の高さが等しい。
ヨルムンドを見つけた時は、まだ子犬ほどの大きさで森の食物連鎖の餌食になりかけていたが、瀕死のところをディオンが拾った。
今思えば、なぜただの魔獣の子に意識が向いたのか。赤く光る眼に憐憫を感じたせいだろうか。あるいは導きだったのだろうか。
ヨルムンドとの邂逅で、ディオンは一つの事実を手に入れた。これまで地底の魔獣は決して懐かないと言われてきたが、そうではなかったのだ。
地底を拠り所とするのに、この上もなく重要な情報だった。
ディオンが腕を伸ばして首筋を撫でると、ヨルムンドは何の警戒心もなく大きな頭を擦り付けてくる。グルルルと甘えるような唸りが聞こえた。
しっかりと手を当てて鼻先から顔を撫でると、気持ちよさそうにひくひくと髭が動く。
「ヨルムンド、悪いが今は飛べそうにない。乗せてくれるか」
ディオンは六枚の羽を持つ有翼種だが、普段は隠している。魔界で翼を出すことに伴う変化には、未だに慣れない。黒色の翼を広げることに、言い様のない危機感がともなう。
ヨルムンドはディオンの声を聞くと、ばさりと木をなぎ倒しそうな勢いで尾を振った。すっかりディオンを主だと思い定めているのか、喜んでいる気配がする。
「すまないな。私は最果てへ戻る」
ディオンが大きな背に飛び乗ると、ヨルムンドは迷わず駆けだした。一気に辺りの光景が流れる。空を翔るような軽い足取り。ディオンを乗せても変わらない俊足だった。
「――っ」
ディオンは再び右眼を隠す装飾に触れる。右眼の痕が、焼かれたように痛んだ。
身の内に飼うおぞましい影。
久しぶりにルシアの顔を見たが、今の彼女はディオンの狂気を掻き立てる。傍に居ることはできそうにない。クルドに託すことが最善だと判断した。
微笑まない女神。触れることも出来ない。
「ルシア……」
破滅により、失われた世界。
過ぎた日の輝きが、今はあまりにも遠い。