50:ルシアの望み
暖かい。
失われた感覚が蘇る。心を苛む雑音も消え失せて、痛みもない。
穏やかな世界を取り戻した。
心残りがないといえば嘘になる。
ただ目的を果たした。その思いだけがあった。
何にも考えを巡らせず、微睡むような心地よさに身を任せていたかったが、傍らに気配を感じた。最後まで手放すことを惜しんだ温もりに似ている。
ーー私の傍にいてください。
ハッと意識が引き戻された。記憶が巻き戻る。
(ーールシア?)
声の聞こえた先を確かめたい。彼はもう一度目覚めることを望んだ。
「ディオン様!」
すぐに縋り付くようにルシアが身を寄せてきた。把握できずにいると、アルヴィとクルドの嗚咽が聞こえてくる。乞うように自分の名を繰り返し呼んでいるが、涙声でよく聞き取れない。
首筋にしがみついたまま動かないルシアも、声を殺しきれず泣きじゃくっているのがわかる。
「ルシア……」
声をかけると、彼女がゆっくりと上体を起こす。ディオンも同じように身を起こして、涙に濡れたルシアの頰を拭った。いつも彼女を傷つけないように気遣っていた醜い爪が失われている。右眼に飼い続けた邪悪の気配もない。えぐったはずの眼球も取り戻している。
温もりに満ちた体。脈打つ鼓動。
人知を超え、神を超えた力の流れを感じた。
(ーーまさか……)
天界にあった頃と同じ容貌に、にわかには信じられない憶測が生まれる。
「良かった、ディオン様」
「これはーー」
辺りに目を向けると、優しげな光に満たされている。霧が晴れているが、魔王の丘の庭園であることは、石柱や石造りの祠が明らかにしていた。
眩い火はとてつもない力で砕かれ、別たれた。
これからは世界の秩序が変容してくだろう。それはかつてのように争いの絶えない世界を生むのかもしれない。けれど、大きな力が粛清を下すような結末は、永遠に失われた。
「ルシア、おまえはーー」
ディオンの憶測は核心をついていたが、問いただすことにためらいを感じる。
人界の再興にとって礎となる、美しく肥沃な大地。
彼女が自分の願いを裏切ることなどあるだろうか。
(どうしてーー)
言いよどんでいると、ルシアの背後からアルヴィが飛びついてきた。
「ディオン様の嘘つき!」
責めるように小さな拳でディオンの胸を叩く。クルドも泣きながらこちらを睨んでいた。
「アルヴィ、クルド」
自分に縋って泣き崩れる三人に何かを問うことは憚られた。ふと視界の端に人影が動く。ヴァンスが佇んだまま、じっとこちらを見下ろしている。眼が合うと、自分とよく似た面ざしに勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
「思い通りにいかないこともあるのだと、あなたもようやく理解するのか」
「ヴァンス」
「ーーまさか本当に眩い火殺しになるとは……」
「破滅を放ったおまえに責められる謂れはない」
あの一撃から、彼と自分の道は別れた。
ヴァンスは一歩近づき、眉間に皺を寄せて厳しい声を出す。
「どう思われようと、ディオンには必ず天界に戻っていただく。あなたの犯したことの責任は、必ずとってもらう」
「天界の王座は譲った。責任を果たすのはおまえの務めだ。ーー私はただの罪人にすぎない」
「もちろん眩い火殺しの罪は贖っていただく」
ヴァンスの自分への執着は今に始まったことではなかったが、ディオンには煩わしい。
「世界は眩い火を失った。おまえに私に関わっている余裕などあるのか。一刻も早く天界に戻ることが懸命だ」
「言われなくてもーー」
吐き捨てるように告げて彼は踵を返す。苛立たしげに翼を広げると、そのまま新たな光に照らされて飛び去った。
厄介なことになりそうだったが、自分の犯した成り行きを思えば仕方がない。結局のところ、ヴァンスには自分を断罪する事などできないのだ。兄として弟の性根は知り尽くしている。
生き残ってしまっても、追い詰められるような危機感は微塵もない。
飛び去った影を見送り、ふうっと肩の力を抜いた。
同時に、そっと自分の手にルシアの手が重なる。
「ディオン様」
もう一度ルシアに目を向けると、彼女は戸惑いながら打ち明ける。
「私は初めてディオン様に泣いて縋りました」
ルシアの潤んだ碧眼から涙が溢れて光った。ディオンはようやく口にする。
「ーーおまえは、人界の再興を果たさなかったのか。創生の力を、私を取り戻すために使った」
ルシアはぐっと唇を噛み締めて、涙を拭うと迷わず頷く。
「泣いて縋ったのですから、ディオン様に嫌われる覚悟はできています」
「ルシア……」
「古き者が知恵を貸して下さいました。ですが、ディオン様のお叱りを受けようとも、私は後悔していません。そもそも先に約束を破ったのはディオン様です」
「それはーー」
「ずっと傍にいると仰っていたのに、ひどい仕打ちです」
アルヴィとクルドが「そうです!」と、加勢するように彼女の背後で同調した声をあげた。
強い輝きを持った眼で、ルシアが語る。
「ディオン様。人界の再興を果たさなかったことは申し訳ないと思います。ですが、私は何も失わないと思ったのです。ディオン様を取り戻しても、破滅を下された時のように全てを失うことはないとーー。だって、アルヴィもクルドも、そして最果ての人々も、自らの力で取り戻す力を持っています。いつかきっと、自分たちの手で肥沃な大地を手に入れる。もちろん時間はかかります。でも、焦土を耕し、種をまき、彼ら自身の手で、少しずつ肥沃な大地を取り戻すことはできます。最果てでディオン様が導いてきたことが、いつかきっと実を結ぶ。私はその未来を信じています」
それに、とルシアは続ける。
「過ぎた神の庇護は、ただの傲慢です。ーー圧倒的な力が人界を左右する。それは、とても傲慢なことではないですか? ディオン様が抗った眩い火のように……」
「傲慢、か……」
そうかもしれないと、ディオンは頷いてみせた。
力ある者の傲慢さ。自分の中にもあったのだ、忌避すべき心が。
「おまえらしいな」
「え?」
「私が愛した女神は変わらない」
「ーーでは、あの、お怒りではないのですか?」
怖気付いたように問いかけるルシアに、ディオンは自然と笑みが浮かぶ。
「おまえの答えが正しかったと思う。ーーありがとう、ルシア」
素直に自分の過ちを認めると、彼女の宝石のような碧眼がみるみる潤んだ。溢れ出した涙を隠すように、彼女が顔を背ける。
「ルシア」
「ーーはい」
顔を隠す彼女を引き寄せて、こちらを向かせた。美しい眼から溢れる涙が、幾筋も透明な線を描いて流れる。再び彼女の姿を見つめられる幸運を噛みしめる。
「おまえになら、泣いて縋られても愛しいと思える」
「え?」
「だが、残念ながら私は見逃した」
「見ておられないのなら、良かったです」
「良くない」
「ですが、私はもう二度と縋ったりません!」
「ーー残念だな」
大袈裟に吐息をついてみせると、ルシアがじっと伺うような顔をしている。
「泣いて縋っても、本当に私のことを嫌いにならないですか? 煩わしいと思ったりしませんか?」
「思わない」
拭いきれないルシアの涙が、結晶のように光って零れ落ちる。
「ディオン様。ーーこれからも私の傍にいてください、ずっと」
思っていた通り、ただ愛しいだけの訴えだった。
「ああ、今度こそ約束する」
「ディオン様!」
ルシアが細い腕を伸ばして再び縋り付いてきた。彼女の体に腕を回して、温もりを確かめるように、しっかりと受け止める。
「約束ですよ! もう隠し事はなしですよ」
念をおすルシアのいじらしさに、ディオンは笑った。




