46:死者の泉(ヘルゲル)
意識に雑音が多くなっていた。視野の狭窄を覚えるほど、人々の断末魔の声が世界を圧迫させる。ルシアがそばにいる時は、彼女の心が反映されるためか、幾分それらは遠ざかるが、だんだんと耐えがたい力を伴って身の内を苛い始めていた。
破滅の一撃に焼かれた人々の、恐怖と怨嗟、憎悪。ルシアの悲嘆が契機となって形を与えられた凶悪な力。真っ黒な渦を巻いてディオンの意識を遮ろうとする。
角を顕現させ、加護を施したところで気休めにもならない。
ルシアの前で正気を保っていることも限界だった。
「創生を信じているのか」
傍に古き者の気配を感じる。かつて神に選ばれ、全てを失った男。落ち着いた声だった。
真っ黒な巨木に掲げられた首。地上からは黒い影にしか見えない。どんな顔をしているのかは、わからなかった。
ディオンが覚悟を決めた日から、古き者に助けられたことは数え切れない。今も誰も立ち入ることのできない死者の泉に匿ってくれている。
夕闇に覆われたかのような空の下に広がる荒野と広大な湖。
夜の海のように暗く、穏やかな湖面は何も映さない。暗黒だった。闇には霧だけが白っぽく流れている。まるで潮の満ち欠けのように、霧の濃度が変化する。
不思議と恐ろしさはなく、寂寥感と心の緩む穏やかさに包まれていた。
どこまでも静謐な世界。
霧の立ち上る泉の底には、古き者が愛した邪悪が眠っている。
自身の絶望が生み出した邪悪をその身に封じた古の女神。古き者は未来永劫、ただ見守り続けるのだろうか。この何もない世界で。
ディオンが身動きすると、あたりに血が飛沫く。
抑えきれない邪悪が、身をつきやぶり輪郭を変える。血が流れても痛みは鈍化していた。
今となっては雑音の方が耐えがたい。
「もうお前の身体が持たないのではないか」
古き者の声は雑音にも負けぬ強さがあった。波紋を描くように心に響く。ディオンは沈黙で答えた。この有様では言葉よりも雄弁に伝わっているだろう。全てを秘匿するという約束を破ったことを責めたい気もするが、ルシアに巣くった予感は心の準備にもなると考えを改めた。
「お前の女神は、もう力を取り戻しているようだが――」
滅びた天界の残滓に心を残し、彷徨うだけの古き者。
力を失い、知識だけを携えた存在。今も彼の意図は掴みきれないが、悪意は感じない。
彼が何を望んでいるのか定かではないが、おかげで目的を果たす希望を捨てずにすんだ。
「お前の施した戒めを解けば、美しい翼を広げるだろう。――迷っているのか」
的確に言い当てられて、ディオンは沈黙を続けるしかなかった。
(ーー私は心配なのです)
凶悪な喧騒の中にあっても、思い出すルシアの声は愛しい。
希望への道を迷っているわけではない。だた、彼女の想いを裏切ることが苦しい。
(ディオン様)
自分を見つけた時の、はじけるような笑顔を思い出す。胸が締め付けられる。
できるだけ長く感じていたいのだ。
愛した女神の温もりを。
この手で触れられるひと時を惜しんでしまう。
「……未練か。だが、もう限界だろう」
古き者の声は残酷だった。
もう嘘を貫くだけの力が残されていないのだ。決断を下すべき時は過ぎている。
「魔王の丘の加護は解いた」
「!」
「女神が力を取り戻すまでの約束だったはずだ」
古き者は笑っている。彼を恨む気持ちはなかった。踏み出せずにいた自分の背中を押してくれているのだとわかる。
「お前が動かずとも、女神を見つけた天界が動く」
ディオンは雑音の中でも鮮やかに蘇る愛しい面影を振り払う。ゆっくりと最後の力を振り絞った。
意識を保つように張り詰め、輪郭を歪ませる衝撃に耐える。
「ーーッ」
ひととき邪悪を抑えこむことに成功すると、枝葉を伸ばすように広がりきっていた輪郭を整えた。ルシアの愛してくれた姿に。
ディオンは毅然と姿勢を正す。
「……古き者。なぜ、私を助け導いてくれた?」
今まで聞けずにいたことだった。巨木を見上げて小さな影を見つめる。
「だたの気まぐれだと言いたいところだが、私にも興味がある」
「興味?」
「我らは、眩い火に抗うことが許されるのかと」
ディオンは息を呑んだ。古き者には全てを見透かされている。
破滅の運命を知った時から胸にくすぶり続けた問い、ーーその答えを。
破滅と創生を繰り返す、大いなる世界の秩序。
「結末は誰にもわからない」
古き者の声は穏やかだった。責めることも嘆くこともない。
「ーー感謝する、古き者」
深く頭を下げたディオンに返答はなかった。答えの代わりだろうか。ディオンはすぐに浮遊感に襲われる。古き者は何も言わず、ただ死者の泉から魔王の丘へと送ってくれた。




