44:古き者の話
「ーーただの昔話だ」
立ち込める霧が形を変えながら、古き者とルシアの間を流れていく。
石を切り出して作られた長椅子から、古き者がゆっくりと立ち上がった。足音もなくルシアの方へ歩み寄って来る。
「おまえが愛する者の話ではない」
手を差し出すこともなく、古き者はルシアを見下ろしている。流れる霧が彼の美しい顔を隠す。どんな表情をしているのかわからない。
「我々は繰り返す、哀しいほどにーー。しかし、同じ末路を辿るかどうかは誰にも、神ーーいや、眩い火にもわからないだろう」
古き者の表情を隠す霧が流れ去ると、彼は微笑んでいた。
「おまえの愛した破滅と我は違う。おまえの破滅は人界の美しさに気付き、魔獣にも心を砕く。自身の目で確かめ、柔軟に世界の形をたどる」
美しい碧眼に自嘲するような色が浮かんだ。答えたくないと言いながら、古き者は全てを語ったに等しい。
「我とは違う。我は眩い火に与えられるまま、あらがうことをしなかった。意図に従い、それが世界と女を守ると信じていたが、間違えたのだ。何が足りなかったのか。今なら分かるが……、我は世界を失い女に憎まれた」
立ち上がれないルシアの傍らから、ゆっくりと古き者が歩み出す。
「おまえの破滅は、もしかすると柔軟な目を持つがゆえに間違えるのかもしれない」
辺りに深い霧が満ちて流れ去ると、もうどこにも古き者の姿はなかった。大蛇の石像だけが聳え立っている。辺りに立ち込める霧が目隠しをする。
「しかし、おまえは変わらず愛している」
目を凝らすが辺りに人影は見えない。誰もいなくなった。誰もいないのに声だけが聞こえる。言霊のように古き者の言葉だけが響いた。
ーー愛しているのならば、違う道がある……
違う道。たしかに古き者のように全てを失う結末にはならないかもしれない。
天界は滅ぶこともなく、人界を再興できる希望が残されている。
けれど、その道の先にディオンはいるのだろうか。
たとえ世界が再興されても、彼を失うのなら意味がない。
「ディオン様……」
失ってしまうかもしれないという不安が止めようもなく滲み出す。強烈な恐れに胸が苛まれ、身体が震えた。
ディオンが邪悪を飼う理由は、もう明らかだった。
自分の犯した厄災をその身をもって抑えたのだ。
「私のせいでーー」
創生の女神が放った、かつての天界を滅ぼす程の力。
邪悪。
ルシアの脳裏で、宮殿の屋上から聞こえた悲痛な絶叫が蘇る。尾を引くような悲鳴。
無事でいられるはずがない。
彼が正気を保っていることが奇跡のように思えた。
途轍もない膨大な負担が、やがてディオンを犠牲にしてしまうのではないのか。
自分と人界を守るためなら、彼は迷わずにその道を選び取る。
「ーー、っ!」
ルシアは項垂れ、強く地面に爪をたてた。呵責に耐え切れず、爪が剥がれる勢いで地面をかきむしる。どうしようもない衝動に駆られ、土を握りしめたまま何度も地を叩いた。
「ルシア!」
激情の限り土をかきむしり、地を叩いていた手を掴まれる。ルシアは視界に入った長い爪を見て顔をあげた。ひどい顔をしている自覚があったが、取り繕うような恥じらいは見失っている。涙と土で汚れた顔を向けると、ディオンの姿があった。初めて見た時のように、彼は右眼を隠す金細工を抑えていた。
痛みをこらえているのか、心なしか表情に苦痛が滲んでいる。
「いったいどうしたんだ。何があった?」
再び彼に焦がれていることを認めた日、ルシアの心が手に取るようにわかるとディオンは言った。今もこの衝撃が伝わっているのだ。
邪悪の影響を思い、ルシアはますます心が潰れそうになる。
隠しようもなく自分の心が紐づいている。
邪悪に影響をもたらす自分の弱い心。それが何を意味するのか。
「ディオン様、私のせいで……。どうしたらーー」
「ルシア? とにかく落ち着け。このままではーーっ」
彼が右眼を押さえて低く呻く。ルシアははっと身じろいだ。心を埋め尽くす不安や絶望は、ディオンに影響を及ぼしてしまう。脳裏には邪悪が彼の身を侵す光景がよみがえっていた。
「っ……」
動けなくなったルシアの顔を、べろりと柔らかな衝撃が襲う。ヨルムンドの慣れた気配に気づくと、大きな舌がべろべろと続けざまにルシアの顔を舐めた。息もつけないほど舐め続けられ、ルシアの焦燥が戸惑いで上書きされる。張り詰めた心が緩むと、見計らったようにヨルムンドが吠えた。凶悪な形をした瞳が、じっとルシアを見つめている。ヨルムンドの唾液で顔がべとべとになっていたが、ルシアは取り乱していた心を持ちなおす。
「ありがとう、ヨルムンド」
腕を伸ばして首筋を撫でると、ぐうっとヨルムンドが唸る。ルシアは大きく深呼吸をしてから改めてディオンを仰いだ。右眼を隠す金細工を抑えたまま、彼は労わるようにルシアを見つめている。
「大丈夫か? どうしたんだ」
「ーーお見苦しいところを見せて申し訳ありません。もう大丈夫です」
不安に駆られる心を引き締め、最悪の結末を見つめることをやめた。違う道筋を描けるはずだと、これからの希望へと意識を向ける。
「私はディオン様にお聞きしたいことがあります」
もうこれ以上、自分の弱さがディオンを苛むことを望まない。必ず違う道の先にある希望を掴み取って見せる。ルシアは美しい碧眼に力を込めた。




