41:知らない罪
外庭が霧に覆われ、まるで宮殿が遠ざかってしまったような錯覚がした。いつもの色彩が淡く不明瞭に映る。少し先の景色が霞んでいるが、まるで魔王の丘ではない場所のようで、ルシアには新鮮だった。
石造りの長椅子に掛けることはせず、ルシアはヨルムンドに身体を寄せていた。霧が深いせいか少し肌寒い。
魔獣の毛皮は心地よく、肌に伝わる体温に安堵する。
うっとりとヨルムンドに身を寄せながらも、ルシアはもう何度目かもわからないため息をついた。
ディオンの姿がない日は、取り留めのない思考に歯止めが効かない。
身に飼う邪悪の手綱を締めるために、彼は双角に加護を宿した金細工を纏わせている。
その説明を疑ってはいないが、ルシアの憂慮は残り火のように心の底で揺れていた。
どうしても大丈夫だと気持ちを緩めることができない。
以前ほど訪れが遠くなることもなく、最近はルシアの不安が募らない程度には姿を見せてくれるようになった。双角に施した加護が働いているのか、あれ以来ディオンが姿を変えることもない。
傍にいる時も不安を煽られるような様子は微塵もなかった。
けれど、憂慮の灯は燻っている。完全には消えてくれない。
(邪悪の影響が……)
そのことを思うと、細く冷たい針がひやりと心に刺さる。ルシアは自ら不安を煽るだけだと思いなおし、無理矢理別のことに意識を向けた。
(ーー私は、いつになったら最果てを見られるのかしら)
そんな日も遠くないとディオンは言うが、ルシアにはうまく想像ができない。人界と似た環境であるというが、アルヴィやクルドによると破滅の前の人界には遠く及ばないようだ。人々の営みは旧時代に戻らざるを得ず、未知の領域も多いため、行き来できる範囲も限られているらしい。
焼かれた人界の大地が蘇れば彼らの負担は軽くなるのだろうか。再興への果てしない道が少しは短くなるのかもしれない。
(おまえは必ず人界を再興させる。創生の女神として)
ディオンが語ったことの意味が、ルシアの内で少しずつ形になりつつあった。自分が女神として彼の傍に在ったことを受け入れると、何もできない非力さに疑問が芽生える。女神としての力はたしかにある。自身の傷を治したように、天界の加護をもって少しは開放できる。けれど圧倒的な神々の印象には馴染まない。あまりにも微弱だった。
(ーー今は力が満ちるのを待っているようなものだ)
ディオンは多くを語らないが、彼の描く筋道はときおり漏らす言葉が示唆している。
あの時は気づかなかったが、ディオンはルシアの力が戻る時を待っているのだ。何が引き金になるのかまるで分らないが、ディオンには明確な標が見えている。
創生の女神。
人界の焼かれた大地を新しく蘇らせる力。きっとディオンの希望はそういう事なのだろう。応えるだけの力があるのなら光栄なことだが、今のルシアにははっきりと思い描けない。
散り散りになった破片を集め、ようやくとらえた形。全てが心もとない憶測に過ぎなかった。
(ディオン様に、きちんとお話を聞くべきなのかもしれない)
たしかにディオンはこれまでの経緯を語らない。けれど、本当は自分にも問いただす勇気がないのだ。何を語られるのか、知りたいようで知りたくない。ディオンの強く愛しい面影だけを抱いて、破滅によって起きた試練から目を背けていたい。
ディオンが語らないことを言い訳にしている。
(もう何も知らないでは、すまされない)
あれほどに荒ぶる邪悪を身に封じる決意。その理由、経緯。
今も尾を引くようなディオンの絶叫が耳に残っている。忘れられない。刻まれた悲鳴がルシアの不安を燻らせる。
辺りに満ちた霧はゆるやかに流れていて、見え隠れする外庭の光景を変化させた。
「今日はとても霧が深い……」
思えばノルンと逃亡をはかった時も同じくらい霧が深かった。槍を手にした異形の者から姿を隠してくれるほどに見通しが悪かったのだ。
(ーー霧が深い日は……)
ルシアは弾かれたように思い出す。咄嗟に立ち上がると、ヨルムンドが驚いたように伏せていた顔をあげた。
「ヨルムンド、私はノルンの墓標へいってみます」
居てもたってもいられずルシアは駆けだした。もしかすると恐ろしい異形の兵を見てしまうかもしれない。少しの恐れが胸に過ったが、霧の深い日は古き者との再会を果たす絶好の機会でもあるのだ。
小走りになるルシアの背後を、ヨルムンドがゆっくりとついてくる。
以前蜃気楼のような人影を見た時、古き者は真実を語ろうかと言った。ディオンには信じるなと言われたが、魔王の丘の主であった古き者が何を知り、何を語るのかには興味がある。
霧にかすむ外庭を進み、ルシアはノルンの墓標にたどり着く。変わらずに聳える大蛇の石像。傍らの石板には昨日添えた色鮮やかな花が、変わることなく咲いていた。
ルシアは墓標の前に佇み、じっと辺りに目を凝らす。
「古き者……」
ルシアは呼びかけてみるが、辺りはしんと静寂を守っている。何かが現れる気配はない。石板の傍らに腰かけて、寄り添うヨルムンドとしばらく様子を窺ってみるが、周辺には何の音沙汰もなかった。
「そう簡単に会えるはずないわね」
ルシアが諦めかけた時、ヨルムンドの大きな耳がピンと立ち、魚のヒレのような皮膜が広がった。何かを聞き分ける時の仕草だが、ヨルムンドを呼べるのは独りしかいない。
「もしかして、ディオン様がおいでになるの?」
ルシアが期待を込めて立ち上がる頃には、ヨルムンドは一目散に駆け出し姿が霧に紛れていた。ルシアのことは気にも留めず、その場を立ち去ってしまう。
ディオンに呼ばれた時はいつでもそうだった。
「ヨルムンドったらーー」
置き去りにされても憎めない。もし自分がヨルムンドなら、きっと同じように駆けつけてしまう。
「魔獣は可愛いか?」
「ーーっ!」
中庭まで戻ろうと考えていたルシアはぎくりと動きを止めた。咄嗟に墓標を振り返ると、大蛇の像に手を突くようにもたれかかる人影があった。
「あなたは? いったいどうやってここに?」
金髪に碧眼を持つ背の高い人影。まるで天界の神のような美しい容姿。ルシアと目が合うと、優し気に微笑む。
「おや? わからないか? そう警戒するな。おまえが呼んだのだろう」
「私が?」
「古き者、と」
「え?」
古き者。たしかに呼んだが以前に見た姿とは異なっている。完全に別の者だった。これがディオンの言う古き者の悪戯なのだろうか。




