36:訪れない魔王
弓を形作る曲線のように吊り上がった目じり。大きな赤い眼は凶悪な印象をもたらすが、ルシアはすぐにヨルムンドへの恐れを失った。
ディオンに紹介されてから、ヨルムンドはまるで魔王の丘を棲み処に定めたように、日々を宮殿の敷地内で過ごすようになった。時折姿が見えない時があるが、おそらく地底の森で餌となる獲物を狩り、食事を摂っているのだろう。
ヨルムンドは一度だけ獲物をルシアの前に持ち帰ったことがあった。魔獣にとっては当たり前の光景だが、ルシアは捕らえられた獲物の無残な姿に悲鳴をあげてしまったのだ。それ以来ヨルムンドがルシアの前に獲物を持ち帰ったことはない。
利口な魔獣だった。
ディオンの姿がなくとも、ルシアに噛みついたり、爪で引き裂いたりする凶暴な気配は微塵もない。ディオンには寂しがるヨルムンドの相手をしてほしいと言われたが、しばらくヨルムンドと過ごしているうちに、ルシアは魔獣の方が自分を気遣って傍にいてくれるのだと感じるようになった。
言葉を理解しているのか、話しかけるルシアの声に耳を傾けてくれる。
ディオンよりも華奢なルシアへの力加減も覚えたのか、巨体を寄せてくるときも力に押されて戸惑うことがなくなっていた。
凶悪な形をした大きな眼も、今は可愛いとしか思えない。穏やかで人懐こいヨルムンド。ルシアが庭に出ている時は、寄り添うように身近に現れる。
ヨルムンドの気配を感じていたくて、ルシアも塔に閉じこもることはなく庭で過ごすことが多くなった。
地底の魔獣は人に懐く。きっとヨルムンドだけではないのだろう。
思えばディオンが邪悪に囚われた時に現れた一つ目の怪鳥もそうだった。ひどく彼に懐いていた。あの頃はディオンの素性を理解していなかったが、今なら驚くべき事だったのだとわかる。
「今日もディオン様はいらっしゃらないかしら」
外庭にある石で作られた椅子にかけて、ルシアは傍らのヨルムンドの顎を撫でる。
ディオンは最果てと魔王の丘を行き来する手段として、ヨルムンドを利用することが多かった。ヨルムンドの食事刻はきまっているので、それ以外に姿が見えない時はディオンに呼ばれて迎えに行っていることもあったが、近頃はそのような様子もない。
「あなたの主は、今日もあなたを呼び寄せることはないのかしら」
ルシアは椅子から立ち上がり、ヨルムンドの体に身を寄せる。
「あなたには、ここからでもディオン様の声が聞こえるの?」
ヨルムンドの聴覚がどのように発達しているのかわからないが、遠くに在ってもディオンの呼びかけに応えていたのは間違いない。ディオンが何らかの力を使っていることも考えられるが、ルシアにはうらやましく思える。
「私にもお声が聞けたら良いのに」
クルドには語れない弱音も、ヨルムンドには打ち明けられる。
ディオンと想いを通わせてから、日々が過ぎるにつれて、少しずつ彼の訪れが遠くなっていた。はじめは気のせいかと思っていたが、今では事実として受け止めている。アルヴィが独りで訪れる事が増えていた。だからと言ってディオンは最果てで多忙に過ごしているわけでもない。アルヴィも彼の姿を見失っていることが多く、当初はルシアの元を訪れているのだと思っていたようだ。事実を知ると困惑していた。
ルシアは静かに自分に寄り添ってくれる巨体にますます身を寄せた。
ヨルムンドがルシアに懐くことを望んだのも、いずれ足が遠のく事への布石だったのかもしれない。
(もうどのくらいお声を聞いていないかしら)
声も聴けず、姿も見られない毎日。いつまで続くのだろうか。
魔王の丘に現れない人影。
けれど。
ディオンは魔王の丘ではないどこかに出向いている。
「もしかしてーー」
何度も口に出しそうになった言葉を、ルシアは再び飲み込んだ。ヨルムンドにも語りたくない醜い気持ちだった。
(やはり、他に愛しい人が……)
考えられないことはないが、ただの妄想に過ぎない。そんな不確かなものに嫉妬する自分の浅はかさにも嫌気がさす。
(会いたいーー)
発作のように、ディオンへの想いで胸が張り裂けそうになる。ルシアが声もなく涙をこぼすと、ヨルムンドがべろりと大きな舌で顔を舐める。ヨルムンドの仕草に泣き笑いしながら、ルシアは美しい毛並みを輝かせるたてがみに縋りついた。
「ヨルムンド、私はディオン様にお会いしたいです」
言葉にすると、余計に想いが募る。
「でも、私からは会いに行けない」
ヨルムンドの赤い瞳が細くなる。労わるような仕草に見えた。
「どうして魔王の丘においでにならないのでしょうね」
とりとめのない事を話しかけていると、じっとルシアの声に耳を傾けていたヨルムンドの大きな耳が動いた。かすかな音を捉えようとしているのか、半透明に透けた魚のヒレのような形がピンと張っている。何かを聞き分けたのか素早く巨体が立ち上がった。
ルシアはもしかしてディオンに呼ばれたのかではないかと期待したが、ヨルムンドはルシアに向かって大きな口を開く。
あっと思う間もなく腰の辺りを咥えられ、ヨルムンドの背に向けて放り出される。咄嗟に手に触れた毛並みを掴むと、ヨルムンドはすでに走り始めていた。
ルシアは振り落とされないように背中に縋りつきながら、少しずつヨルムンドの毛並みをたどって首筋に手が届くように前へと這い進んだ。深い色合いの銀髪に覆われた鬣に腕を回すと、ようやく体勢が安定する。
「ヨルムンド、どこへ行くのですか?」




