28:呵責にも似た思い
ルシアの想いが流れ込んでくるように、ディオンに甘い気配が届くようになった。邪悪を通して伝えられる感情の行方。自分に向けられた恐れや憎悪はいつのまにか失われていた。クルドとアルヴィのおかげなのだろう。想い出を取り戻せるはずもないのに、ルシアは再び自分に心を向けた。
時にはくすぐったくなるような甘さを伴って、ルシアの心の機微が伝わって来る。
疑いようのない恋情。
もう邪悪に影響が及ぶことを恐れる必要もない。
破滅が訪れる前にそうであったように、ディオンはルシアの心を手に入れた。
かすかな希望が少しだけ光を増す。
邪悪を受け入れ、覚悟を決めた日。
零からのはじまりになる。わかっていてディオンは望んだ。
天界での日々、輝いていた昔日。過去の残像は自分の胸にだけ残れば良い。
ルシアは必ずまた自分に心を傾ける。
なぜそう思ったのか。なぜそれを信じられたのかはわからない。
確かな証は何もなかったが、ルシアはディオンの予想を裏切らず辿りついた
遣わされた蛇の罠で憎悪を刻まれても、彼女は自分を信じる道を選び、失う前と同じように心を向けてくれる。
そして、再び同じ希望を見つめてくれる。
人界の再興。
ディオンは傍らで眠るルシアの髪を梳くように、指先で触れる。天界の輝きを纏っているかのような金髪。緩く癖をもつ長い髪が、彼女の背中を覆うように広がり、寝台へと流れている。華奢な肩と、なめらかな白い肌。
彼女が創生を継承する前から、数えきれないほど肌を重ね、想いを通わせてきた。
ディオンは彼女の髪を梳く手を止めた。黒く伸びる爪。寝台の上に広がる、おぞましい色に染められた頭髪。金の装飾で隠した、邪悪を飼う右眼。
明らかに失われた輝き。身を犯す魔性がディオンの姿を蝕む。
輝くように美しいルシアに触れることに罪悪を覚えるが、愛しいという思いを示すことにためらいはなかった。彼女が受け入れ、自分を求めるのであれば迷うこともない。
ディオンは醜悪な爪が彼女の肌を傷つけないように、そっと彼女の背中に手を添わせ、肩に繋がる線をなぞった。見る事が叶わなくなった美しい翼。
自分と同じ六枚羽の有翼を与えたのは、いつだったのか。弾けるような光を受けて、まるで世界を抱くように翼を広げ、優雅に羽ばたく姿の美しさは今も鮮明に刻まれている。
天界でも稀有な姿。六枚の翼を許されるのは、破滅と創生に選ばれた者だけだった。
「ーー……」
眠るルシアの美しい顔を見つめながら、ディオンは呵責にも似た、言いようのない感情に支配される。
何がはじまりだったのだろう。
レイアがトールを愛したことだったのか、あるいはルシアが創生の女神となったことだったのか。
それとも、自分がーー。
考えても答えは出ない。わかっていても、ディオンは過去をなぞらずにはいられなかった。
世界の秩序。
あまりにも傲慢な導き。
神が人を愛したことが許されない罪となって、全てを狂わせてしまったとでも言うのか。一方的に下される破滅と創生。
本来であればヴァンスの行いが正しく、自分が狂っているのかもしれない。
大いなる世界の掟に背いているのは、どちらなのか。
わかっていても、諦めることは出来ない。
トールと語り合った理想。美しい大地。人界の者が放つ輝きを忘れることなど出来はしない。
神の嫉妬。訪れた破滅。
結局、最悪の事態を招いた。
レイアを失ったルシアの衝撃は、創生の絶望となってさらなる悲劇を生んだ。
臨界を越えた悲嘆がもたらしたもの。
「おまえの絶望は、私が引き受ける。……だから」
ディオンは身を屈めて、横たわるルシアの白い背に口づける。
(ーー思い出さなくていい)
心を痛めるだけの記憶など失われてしまった方が良い。
過去に縋って取り戻せるものなど何もない。後戻りはできない。
今にも消えてしまいそうな小さな光が残されている。全てを失った訳ではない。この道の先には希望がある。
そう信じている。
「ルシア」
白い肌に唇を寄せて、ディオンは祈るように目を閉じた。
身に邪悪を飼おうとも、これ以上大いなる世界の秩序に従うことは出来ない。




