21:古き者の声
朝露を思わせるような湿った空気の中で、ルシアはたたずんでいた。人の気配が絶えたかのような無人の庭。風もなく、しんと静謐な世界。
霧にかすんだ魔王の宮殿の外庭だった。はじめは恐れと嫌悪ばかりだった地底での光景を、今は美しいとさへ感じていた。清々しいとは言えない曇り空を見慣れてしまったのだろうか。
晴天を望むことは出来ないが、しっとりと霧に包まれた敷地内には植物が生い茂って、石柱に絡みつき、名も知らない花が咲いている。
無作為に茂る植物で気が付かなかったが、外庭には石造りの小さな建物や、両側を柱に飾られた小道などもあった。どれもが植物に覆われ、荒れた庭園にも見えるが、近づいてみると足場は悪くない。風化して苔むした古城のような、もの悲しく美しい趣を宿している。
ルシアはすうっと深く呼吸をしてから、ゆっくりと歩き出した。
見るだけで胸の痛む大蛇の石像。
彼女は独りきりでノルンの墓標を訪れていた。
磨き抜かれたかのように冴え冴えとした様子で、石像は地中から身を躍らせ天を目指すように立っていた。近づいてそっと手を置く。
何の温もりもなく、ひやりと冷たい。
「あれはーー?」
前にクルドに案内された時には気づかなかったが、石像から少し離れた片隅に石板が置かれている。目にも鮮やかな花が一輪だけ飾られていた。ルシアが歩み寄って石板を見ると、ノルンの名が刻まれている。名の下には「解き放たれた魂に安息を」とあった。
ノルンの死を悼んでいるのはルシアだけではないという、クルドの言葉を思い出す。
この一輪の花は、きっとクルドが手向けたのだろう。
以前訪れた時には、彼女のそんな感傷には気づかなかった。ノルンの汚名を語る残酷さよりも、ひたすらディオンの正義を伝えたかったのだろうか。
「違う、魔王が正義だなんてありえない」
ルシアは真っ向から否定する。魔王の虚構に揺れる心を安定させるために、ノルンの墓標を訪れたのだ。彼女を失った絶望は色あせないのだと、確かめたかった。
「ノルン。私はあなたを殺めた魔王を許さない」
身を屈めて石板の名をなぞる。鮮やかな一輪の花が、ルシアの想いとは裏腹に心を揺らすのを感じた。
「だけど、何が本当のことなのでしょうか。あなたがいれば、教えてもらえるのに……」
弱音を吐くと、答えるように空気が震えるのを感じた。
ーーその問いに、答えようか?
「え?」
ーー我が真実を語ろうか?
聞き逃しそうな声。辺りに人影はない。まるで直接心に響いてくるように伝わる言葉。ルシアは辺りへ視線を投げた。
ーーほぅ。この声が届くか、美しき女神。
「だ、誰ですか?」
ーー案ずるな、我はここにはない。
ルシアは固唾をのんで警戒する。立ち上がって周辺の気配を確かめながら、万が一の逃げ道を模索していた。石像の傍らに蜃気楼のような心もとない影が揺れている。少しずつ明瞭になるが、目を凝らしてみても、霧の儚さに溶け込むように姿が透けていた。
「ーーっ!」
思わず悲鳴を吞み込む。
実体ではないと理解できても、見た目の恐ろしさは払拭できない。以前に見た異形の兵に似ているが、圧倒的な迫力が漲っていた。
人というよりは獣のような形相で、側頭部には両側から円を描くようにねじれた角が生えている。
ーー視えるのか。
「あ、……あなたは何者ですか?」
ーー我は古き者。ここは我が守る丘。
「古き者。……あなたが……?」
俄かには信じられない。早鐘のように打つ動悸を感じながら、ルシアは何とか落ち着こうと両手で胸を押さえた。
「ルシア様!」
現実に引き戻すような激しさでクルドの声が響いた。彼女はまっすぐにルシアの前まで走って来る。
「お一人で出歩かないでください! 探し回りましたよ!」
古き者の影がそこにあるのに、クルドは気に留めている様子もない。まるで見えていないようだった。古き者の異形の顔が歪んだ。嗤ったのか、苦痛を感じたのか、どのような感情を形作った表情だったのかが、ルシアにはわからない。
ーー邪魔がはいったようだ。
脳裏に低く声が響いた。
ただでさえ霧に紛れそうな影が、すうっと失われる。後には何事もなかったかのように、変わらず石像が聳えているだけだった。
「ルシア様? どうかされたのですか?」
「あ、な、何でもありません」
動揺を堪えて、ルシアは視界に入った鮮やかな花を指さした。
「あの花は、クルドが手向けた花でしょうか」
咄嗟に話を逸らす。なぜか古き者のことを悟られてはいけない気がした。ルシア自身も今の出来事を信じられないでいる。幻覚、あるいは迷う心が見せた白昼夢だろうか。本当にあったことなのかどうかも怪しい。心の整理が追い付いていなかった。
「以前訪れた時は、あの石板に気付きませんでした」
「あれはルシア様やアルヴィの気持ちを汲んで、ディオン様が作ったものです。以前こちらにご案内した時は、まだありませんでした」




