13:邪悪――ガルドル
ディオンは気を失っているのか、微動だにしない。彼の周りで幾羽かの犠牲になった魔鳥が横たわっている。紫の大きな羽根も、重なるように無数に落ちていた。
ルシアはまだ恐怖に支配されていた。すぐにでも塔へと引きあげたいが、体に力が入らない。そっとクルドがルシアの頬に触れた。クルドの手に握られている小さな布が血に染まるのを見て、はじめて自分の顔が切り裂かれていることに気付く。
ディオンの長い爪は、容赦なくルシアを傷つけた。
「大丈夫ですか? ルシア様。どうして、こんなにひどい事をーー」
クルドの綺麗な碧眼が潤んでいる。魔王の凶行を目の当たりにして、さすがに彼女も衝撃を受けたようだ。
ルシアがようやく頬の痛みを自覚した時、倒れたディオンに駆け寄ったアルヴィが「ひっ!」と短く悲鳴をあげた。少年はそのままルシアの手当てをしているクルドを呼んだ。
「クルド! これを見て! ディオン様の眼が!」
アルヴィの顔色が蒼白になっている。無理もないとルシアは思う。まだディオンの凶行の余韻は拭えないが、ルシアは手当てを続けるクルドの手を遮って、微笑んで見せた。
「私は大丈夫です。あなたの弟が怯えています」
クルドを震えている弟の元へと促す。
ディオンの放つ恐ろしい気配の源。アルヴィは見たのだろう。アレを目の辺りにして恐れない方がおかしい。クルドは戸惑いながらも、すぐに弟の傍へと歩いていった。伸びた背筋は毅然としていて、何かを恐れる様子はない。クルドもディオンの右眼について、何も知らないのだろうか。
倒れているディオンの顔を見て、クルドが小さく悲鳴をあげる。勢いでその場に座り込むように重心を崩した。へたりこんだクルドの顔色も蒼ざめている。アルヴィがすがりつくようにクルドに寄り添った。
小動物のように震えている姉弟を見て、ルシアは自分が恐れている場合ではないと思いなおす。この恐ろしさを乗り越えて魔王に寄り添わなければ、未来はない。
ルシアの勇気を後押しするように、傍らで佇んでいた魔鳥がぎゃあと泣いた。そのまま長く細い足でディオンの方へと歩き出す。
まるでついてこいと言いたげな様子だった。
幸い倒れているディオンに動きはない。
数度大きく呼吸をしてから、ルシアはしっかりと立ち上がった。頭だけをこちらに向けて、大きな一つ目でルシアを見ていた魔鳥が、再びぎゃあと鳴いた。
ルシアは覚悟を決めてディオンの元へ歩み寄る。
気を失って倒れている長身の人影。長い髪が辺りに広がり、絵に描いたような容姿が横たわっている。
どうしても顔を見ることが出来ず、ルシアは視界にディオンの顔が入らないように彼の傍に膝をついた。
「ルシア様! それは邪悪です!」
クルドがガタガタと震えたまま叫ぶ。
「ーー知っています」
「え?」
「はじめてお会いした時に見ました」
「き、危険ではないのですか? それは狂気を司るものではーー」
クルドの声を遮るように、魔鳥がぎゃあと鳴いた。そのまま鋭い嘴でディオンの顔をつつく。何事もないと示そうとしているようだった。ルシアは手に冷たい汗を握りながら、恐る恐るディオンの顔を見た。
美しい顔に不似合いな右眼。むりやり埋め込まれたかのような醜い存在。眼窩に蓋をするように薄くはった皮膜の中で、おぞましいものが蠢いて視える。時折ディオンの身の内で生きていると言いたげに、ぐにゃりと皮膜の形を変形させた。
覚悟をしていても、どっと重い恐怖に身が犯される。その場から走り去りたい衝動は堪えたが、ルシアはたまらず顔を背けた。
邪悪――ガルドル。
ディオンに出会うまで、ルシアは見たことなどなかった。きっとクルドもアルヴィも同じだろう。けれど、一目見れば誰もが理解する。見る者の本能に訴える、圧倒的な恐怖。狂気を司り、厄災を生む魔獣。大いなる世界の邪神とも言われている。
誇張された存在だと思っていたが、正しかったのだ。目の当たりにすると、それだけで身が竦む。
緊張を解けずにいると、トッと傍らで小さな足音がした。
ディオンの右眼を隠していた金の装飾を、魔鳥がいつのまにか咥えている。長い嘴で、そっと右眼を隠すように置いた。
すうっと、その場に満ちていた恐ろしい気配が収斂する。
魔鳥がルシアを見て、ぎゃあと鳴いた。
「まさか、この金の飾りにも天界の加護が働いているのですか?」
天界の神々は、金に力を託すことが多い。ルシアの内にふと蘇った感覚だった。自分の手にある天界の証と、ディオンの顔を飾る金細工を交互に眺めながら、ルシアは心にひっかかりを感じた。それが何を意味するのか掴めないまま、そっとディオンに触れる。
依然としてルシアの内にある魔王への恐れは根深い。けれど、右眼と共に邪悪が閉じられたせいか、身の竦むような恐れは希薄になっていた。
彼の頭を抱えるようにして、ルシアは美しい意匠の金細工を付けなおした。
右眼が隠れると、クルドとアルヴィも恐る恐る傍へと寄って来る。




