11:魔王との再会
魔王がやって来る。ルシアにとって恐ろしく得体の知れない地底の王が。
自分から望んでおきながら、ルシアは身の竦む思いが拭えない。
どうしようもなく怖いのだ。
ディオンとの謁見には宮殿の中庭に場が設けられた。魔王の宮殿の調度から大きな布を持ち出し、中庭の一角に敷かれている。ルシアはそこに座してディオンが現れるのを待っていた。
クルドが干した果実や干し肉を盛った皿を並べている。考えてみれば食事刻ではあったが、ルシアには会食として楽しむような余裕はない。
「ルシア様、顔色がすぐれませんが大丈夫ですか?」
「ーーはい。少し緊張しているだけです」
逃げ出したくなるような衝動をこらえて、ルシアは無理やり微笑む。意識して笑おうと努めると、表情は動く。組み合わせていた手を緩めて、再び少し力を入れた。思い通りに動く我が身を確かめて、少しだけ平常心を取り戻した。
魔王との再会を望むと、クルドを通じてなぜか天界の証を返された。どういう意図があるのかは分からないが、手にしていると心強い。今ももちろん持参している。ルシアは両手でしっかりと天界の証をたしかめた。
(……大丈夫)
ふうっと深く息をする。その時ばたばたと中庭に続く通路をやってくる気配を感じた。ギクリとして顔をあげると、予想外の光景が視界に入ってくる。元気よく駆けてくる人影。一瞬クルドかと思ったが、彼女は傍らに控えている。癖のある金髪と碧眼。近づいてくると、クルドよりも幼い少年である事が見て取れた。
「ルシア様! クルド!」
まだ変声期を迎えていないのだろう澄んだ声。クルドよりも癖の強い金髪は綿毛のようで、黄味が深い。人懐こい少年だが、ルシアの記憶には何の面影もない。
「アルヴィ! 魔王の宮殿でその態度は何ですか?」
背後から叱責するクルドの声を聞きながら、ルシアは新たに視界に入った黒い影に心がひやりと強張る。すぐ近くで聞こえるクルドの声が遠ざかり、駆け寄ってきた少年の気配も遠ざかる。
くっきりと意識が捉えているのは、中庭の向こう側に現れた魔王の姿だけになった。
襞のある黒衣の深さに、金の装飾が輝く。身の丈近くある癖のない黒髪に、わずかに色を感じた。
深い紫を宿した髪色。天界の神でもなく、人でもない、魔族に相応しい濃紫。やはり魔物の王なのだと本能が訴える。遠目にもこの上もない美貌であることがわかるのに、全てが忌まわしさで上書きされてしまう。恐ろしい気配を宿したものが、近づいてくるのだ。
わずかに取り戻した平常心が失われていく。
小刻みに震えだした手を、ルシアは指先の血が止まりそうな力を込めて組み合わせた。
動悸が激しくなる。
「ルシア様?」
中庭を囲むように作られた通路。石畳の道をなぞるように、ディオンがこちらを目指して歩いてくる。魔王の邪悪な気配に囚われていた思考が、クルドの声でハッと引き戻された。
「あ、クルド」
「大丈夫ですか? ディオン様がおいでになりました。それから、こちらはアルヴィと申します。私の弟ですが……」
視界にディオンの姿を捉えていたが、ルシアの元にたどり着くにはまだ少し距離がある。ディオンの気配から意識をそらせないまま、ルシアは内心の動揺を悟られないようにアルヴィに目を向けた。
「ごきげんよう、ルシア様。僕のこともわかりませんか?」
クルドの弟であるなら、同じように魔王の描いた筋書きを信じているのだろう。
「……ごめんなさい。思い出せません」
「そうですか」
しゅんとアルヴィが頭を垂れた。少年の仕草は無邪気で微笑ましいが、ルシアは迫って来る気配に神経が張りつめていた。もう一度深く呼吸をする。
「ディオン様」
近づきつつある魔王に気付いて、少年が何の戸惑いもなく駆け寄った。ルシアはひやりとしたが、ディオンは浅くほほ笑みを返している。ノルンを切り捨てたのが嘘のように穏やかな振る舞いだった。
ルシアは別人ではないかと目を凝らすが、漲る気配には覚えがある。
呆然と見守っている間にも、少年アルヴィと歩調を合わせながらディオンが歩んでくる。
「あれほど私を恐れていたのに、いったいどういう心境の変化なのか」
目の前で声をかけられて、ルシアは時が動き出したかのように我に返った。すぐにその場に平伏する。
「ディオン様、おいでいただきありがとうございます」
「ーー殊勝だな。だが窮屈だ。私はおまえに服従を求めたりはしない」
ルシアが恐る恐る顔をあげると、ディオンがその場に腰を下ろした。自分を気遣っているのか、少し離れた位置にゆったりと陣取っている。
恐ろしい右眼は、美しい金細工の装飾で隠されていた。ディオンが指先で模様をなぞるように触れている。限りなく黒に近い紫髪と赤い瞳が魔的だが、やはり際立った美貌の持ち主だった。ルシアは自分の立ち位置がわからないまま、そっと視線を下げる。手の中にある天界の証を握る手に自然と力がこもった。
「天界の証は、忘れず持っているようだな」
「――はい。返していただき、ありがとうございます」
「恐ろしいのならそれで身を守るが良い。魔獣を遠ざけるように、私にも有効だ」
ディオンはたやすく自身の弱点を暴露するが、本当かどうかはわからない。天界の証を避けるのであれば、やはり彼は正真正銘の魔族ではないのか。
時折綻びを見せる筋書きに、ルシアも翻弄されていた。
傍らからクルドが麦酒の入った器と、干し肉や茹でた肉、果実などを盛った器を差し出してくる。ルシアが適当に受け取っていると、アルヴィが「ご馳走ですね」と嬉々として食事を始めていた。
たしかに茹でた肉はルシアの口にも滅多に入らない。麦酒も同じだった。パンもいつもよりも柔らかい。
はしゃぐアルヴィの様子から、今日用意されたものが、彼にとっても特別な食事であることが分かる。
アルヴィの相手をしながら、ディオンも麦酒を口にしていた。
魔族の食嗜好が、人と等しいことは充分にあり得る。
ルシアは地底について、はじめて考えを巡らせる。
魔王の丘を見る限りでは曇天と霧に包まれているが、地底にも大地と同じ環境が育まれているのだろうか。ディオンが示すように、魔族の営みも人に近いのかもしれない。
「それで? どういう用件で私を呼んだ?」




