10:最果て(ユグドラシル)
最果ての空をムギンが飛翔してくる。美しい翼がディオンの視界に影を作った。ばさりと羽音をさせてディオンの腕に止まる。ヨルムンドと同じく地底の魔獣である。雛の時から餌付けをはじめ、飼いならすことに成功した。一つ目の怪鳥で、美しい紫の体毛は威嚇すると針のように相手を刺すが、警戒させなければ何の脅威にもならない。
ムギンは小さな鳥のように首を傾け、ディオンを見た。鋭い嘴の先から落とされた、丸められた獣皮。
クルドからの報告だった。
嫌な予感を抱きながら目を通すと、意外な内容だった。
(ルシアが私に会いたいだと?)
思い出すだけで右眼が疼く情景が脳裏を占める。怯え切った仕草の中に見える、これ以上はない憎悪。今はレイアに擬態しているが、双神と言えど性質は明らかに異なっていた。ルシア自身はレイアよりも気が強く、勝気さの目立つ女神である。
絶望で心を閉ざしても、ルシアの本性は失われてはいないのだろう。レイアへの憧憬を映しているが、ルシアとしての心も根強くあるのだ。
「ディオン様、クルドからですか?」
腕からムギンを放ち、ディオンは現れたアルヴィを見た。
「ああ、ルシアが私と会う事を望んでいると」
「え!? じゃあ、ディオン様のことを思い出したのですか?」
嬉しそうにアルヴィが声を弾ませる。ディオンは横に首を降る。
闊達な少年の手にある木の器に干し肉が盛られていた。もうそんな時刻かと、ディオンは空を仰いだ。
地底の最果ては、大いなる世界のほんの一部に過ぎない
大いなる世界。
段違いに層になった土地で形作られているという。上層に位置するのが空、中層が大地、下層が地底となっているが、どの層にも足場となる土地が存在し、頂上にあるとされる眩い火は連なる世界の全てに光と温もりを届けた。
地底は影となる場所が多いが、ディオンが手に入れた最果ては大地の環境とよく似ている。
破滅から救い出した人々が再興をはかるには良い土地だった。
日々の営みは少しずつ安定し始めている。ディオン自身、最果ての光景に失われた人界を重ねていた。
木をくみ上げ、干した草を敷き詰めた屋根。背の低い住居が集落のように連なっている。失われる前の人界とは比べものにならない質素で簡素な生活だが、生き残った者たちは日々を懸命に生きていた。
人々と共に救い出せたわずかな家畜の繁殖と共に、地底の魔獣で家畜にできそうな種を調べたりもしている。
全てが、古き者の導きによるところが大きい。そのために強いられた契約は過酷ではあるが、最果てを手に入れた事を思えば瑣末な事だった。
魔獣であるヨルムンドとの出会いがなければ、先の魔王である古き者の心は動かせなかった。ディオンが改めて幸運をかみしめていると、大きな影が動く。
「ヨルムンド」
獲物をくわえたヨルムンドが、ディオンの傍らで尾を振っている。どうやらディオンと一緒に食事をするという意思表示のようだ。巨体と凶悪な見た目からは想像もつかない愛嬌に、アルヴィが笑った。
「僕たちも食事にしましょう」
「ああ、そうだな」
ディオンとアルヴィは手短な大木の影に入った。露出した根に腰掛けて食事をはじめる。ヨルムンドも地底の森で捉えた獲物に食いつき始めた。
「ルシア様にお会いにはならないのですか?」
アルヴィが干し肉をかじりながらディオンを見る。アルヴィはクルドの弟で、人界の王トールと降嫁した女神レイアの息子だった。トールの語った理想は、幼いアルヴィにも刻まれている。最果てではすでに王家の肩書きも意味を失っているが、再興が果たされるにつれて、いずれアルヴィの存在が意味を持ち始める。
彼らが世界を取り戻すまで手助けができれば良いというのが、トールと世界の理想を語り合ったディオンの希望だった。
トールと良く似た濁りのない碧眼が、年相応の好奇心を漂わせている。
「ルシアに会うには、いろいろと問題があるな」
「なぜですか? 会ってお話をしていた方が心も通うのではないですか? もうディオン様がつきっきりで面倒を見なくても、最果てでの生活は安定してきています。少しはご自身のために時間を割いてください。僕たちにとっても、ルシア様は大切な女神です」
アルヴィの言う通りだった。ディオンは知らずに金の装飾で隠した右眼に手を当てていた。自分を憎むルシアの前で、正気を保てるのかどうか自信が持てない。
「眼は、まだ良くならないのですか?」
アルヴィの危惧をにじませた声に、ディオンはハッと右眼から手を離す。
「――いや、少しずつ回復している」
右眼の真実は、誰にも明かしてはいない。古き者との契約で右眼を失い、さらに与えられた試練。身の内に放たれた狂気に苛まれているが、自分が耐えれば全てが円滑に回る。
燻りうごめく狂気を悟られないよう、ディオンは細心の注意を払っていた。大概のことでは動じないが、ルシアが関わってくると話は変わる。
彼女の態度に心が乱れるようなことがあれば、最悪の事態を招く。
(……天界の加護か)
ルシアが蛇と魔王の丘を出ようとした時に手にしていた証。忌々しいヴァンスの力だが、利用するのも悪くない。
魔を退ける輝く証。地底の魔獣に有効であるように、今の自分にも有効だろう。ディオンは大きく息を吐き出した。
「会ってみるのも、いいかもしれない」
小さな呟きを聞き逃さなかったのか、アルヴィがコクコクとあどけなく頷いた。
ディオンは指笛を鳴らす。ヨルムンドがピクリと大きな耳を動かしてから、ディオンを見た。彼に触れて顔を撫でながら、再びやってきたムギンを腕に止める。
「悪いが伝えてくれないか」
ディオンはギャアギャアと鳴くムギンに、クルドへの返答を託した。




