おっとり癒し系お姉さんの怒り
視線をそらす男子たちの顔をそれぞれ眺めながら、私はようやくのことでスカートの裾を直すことができた。
シェイクスピアが女子部員としての立ち居振る舞いを忘れてしまったのには、それなりにわけがある。
頭の中で、アイデアが刹那の閃光を放ったのだ。
「面白いんじゃないかな、それ」
舞台装置なし、照明も使えない。
この一座を困らせている現在の状況は、かえって沙の好奇心をかきたてたようだった。
「明かりは何もないの?」
不機嫌そうな顔をした陽花里が、きっぱりと言い切った。
「ありません」
だが、なかなか名前を思い出せない舞台監督が、横から口を挟んだ。
「いや、ある」
「どこに?」
目を輝かせた五十鈴と、顔は笑っているのに眦を怒らせた陽花里が、同時に舞台監督へと詰め寄った。
女子ふたり迫られて背の高い男が後ずさるところに、部長の並木さんが追い打ちをかけた。
「どこだ、相模!」
舞台監督はサガミとかいうのだと思い出したところで、怯えるその口からは、聞き慣れない言葉が漏れた。
「ボーダーライト」
シェイクスピアは私の口調で、すぐさま聞き返す。
「何の境目?」
そこで「ああ」と手を叩いた五十鈴が、手を水平に振った。
「横一直線の照明だから」
だが、陽花里は舞台監督のアイデアを許さなかった。やんわりと告げる。
「でも、それ、作業灯ですよ? 基本的に、ステージの上で作業するための明かりなんです、ボーダーライトは。ステージの隅から隅まで照らすための、何の面白みもない、ベターっとした平たい光なんですよ、分かりますか?」
声は穏やかだが、その分、怒りは蓋がされている。
他の部員も、たぶん同じだ。
並木さんが部長として手を叩いたのも、そういうわけだろう。
「はい、そこまで!」
それでも、議論の邪魔をされた相模と陽花里に、キッと睨まれてうろたえた。
「だから、さ、ね、舞台監督は、さ、絶対に作業灯で芝居したいって言ってるんじゃなくてさ……」
陽花里はきっぱりと言った。
「手短にお願いします」
並木さんは、努めて控えめに告げた。
「だったら、調光室に、上がってください」
部長の一言に、陽花里は呻いたものの、渋々と頷いた。それでも、黙ったままではいない。
「装置なしで……照明使うメリットは何ですか?」
シェイクスピアにも、その理屈は分かったようだった。
ヒカリは、照明をその場の雰囲気作りだけに使われたくないのだ。
500年前には灯体もレンズもなかったが、舞台に携わる職人魂は変わらなかった。そんな時代に、この『ハムレット』を書いたシェイクスピアとしては、この気持ちに応えないではいられないらしい。
「昔は、大変だったの。あんな機械、なかったから」
「どうしてたの?」
相模が身を乗り出したのは、舞台監督として当然の反応だったろう。五十鈴も、豊かな胸の前で腕を組んで、じっと見つめてくる。
シェイクスピアは、私の口を借りて語った。
「たとえば、月夜の場面になったら舞台の後ろで、長い棒の先に付けた大きな月を思いっきり持ち上げたりしてたの。それでも、観客はその場面が月夜だって信じたのよ」
昔の稽古のことを思い出していたのだろう、その様子が見えるようだった。
でも、陽花里は納得しなかった。
「それは、そういう方法しかなかったからです。今は、照明があって当たり前ってことになってます」
「そうかな」
口を挟んだのは、並木さんだった。
「逆に言えば、書き割りの月が出る劇なんだってことを観客が納得してれば、それでいいんじゃないか?」
私がそこで黙り込んだのは、シェイクスピアが妙に納得したからだ。
うーん、とヒカリも考え込む。自分が言ったことだけに、反論の余地がないらしい。それでも唸るしかないのは、自分の扱う照明機材の出番がないのが納得できないからだろう。
そこで現実的なことを口にしたのが、舞台監督の相模だった。
「でも、部室が使えないから、書き割りも作れない」
結局、問題はそこに戻ってくる。
そこで陽花里は、根本的なことを口にした。
「だから、装置が舞台にないってことのメリットは何ですか?」
そう言うなり、立ち上がってステージを出ていこうとする。
「今日は帰ります。キャストも来ないみたいですし」
私の口があっても、シェイクスピアは何も言えなかった。確かにキャストが来ないでは、この先の稽古ができるかどうかも覚束ない。
稽古をするしないを取り仕切るのが部長なんだろうけど、並木さんも無言だった。
稽古の段取りをする舞台監督も、何も言えない。演出も黙っている。
これではもう、今日は解散するしかない。
でも、五十鈴は何も考えていないわけではなかったようだった。
「人が最初に仮面をつけたとき、そこには舞台装置があったかな?」
陽花里の足が止まった。冷ややかな言葉が漏れる。
「何ですか? じゃあ、お面付けて大会やろうっていうんですか?」
「それが舞台装置の代わりになるんならね」
五十鈴の言葉には並木さんも相模もぽかんとしていたが、シェイクスピアには何となく分かってきたらしい。
それを確かめてみるかのように尋ねた。
「仮面ひとつでも、観客は納得するってこと?」
五十鈴は頷いたが、ヒカリは首を横に振った。
「そんなの、ごまかしじゃないですか?」
ごまかしじゃない、とイスズは静かにたしなめた。
「仮面ひとつで、そこにいない人がいることになる。舞台装置も同じ。本当は、そこにはないものなの。だったら、それをあることにすること自体が、ごまかしってことにならない?」
舞台監督のサガミが考え込んだのは、自分の仕事の意義に思いを巡らせているからだろう。
沙の身体を、ゾクっとするものが駆け抜けた。ひとつの答えに向かって、その場にいる者全てが考えを巡らせている、この感覚。
それを引き取ったかのように、座長のナミキが重い口を開いた。
「ないものはないって、正直に見せようよ」
ヒカリは納得しなかった。
「でも、劇にならなくちゃ意味がないんじゃありませんか?」
五十鈴は開き直るかのような堂々とした態度で切り返した。
「それを劇にするのが演出なのよ、任せて」
振り向きもしないで、陽花里は尋ねる。
「どうやって?」
五十鈴は一瞬、言葉に詰まった。無理もなかった。それは、これから考えることだ。
でも、ここは一言でも答えてみせないと、陽花里に言い負かされたことになる。
シェイクスピアには、その答えがあるようだった。
「まず、楽しもうよ。舞台装置なしで、何ができるか」
私の身体で立ち上がると、ゾクゾクする感じが伝わってくる。
作者としても、それは大いに興味のあることだっただろう。
台詞とト書きだけで、どれだけのことを描き得るか、500年前に書いたものが、どれだけの力を持っているのか、身をもって知ることができる。
考え込んでいた相模が、顔を上げた。
「早い話、イチから段取り直しってことだな」
それが自分の仕事だと悟ったかのように、晴れやかな顔をしている。
こだわりの中に取り残された陽花里は、そこに立ち尽くしたまま考え込んでいたが、急にあぐらをかいて座り込んだ。
「それ、照明も楽しんでいいってことですか?」
五十鈴が複雑な笑いを浮かべて言った。
「そうなんだけど……」
男子たちは、そっぽを向いている。
最大限に譲歩したつもりらしいヒカリが、おろおろしながら部員たちを見渡した。
「何か……文句あるんですか?」
目が合ったところで、シェイクスピアも慌てて目をそらした。
身体は女子だから通っているが、男としてはまずいことを、ついやってしまっていたのだ。
口ごもりながら、つぶやく。
「スカート……」
さっき私がやったように、陽花里も慌てて裾を押さえた。
間一髪で、クローディアスとポローニアスが舞台へ駆け込んでくる。
「すみませ~ん、部室でたとこで、いきなりまさかの居残り食らっちゃって……」
陽花里はいつものように、それを迎えた。
「もう、いけませんよ、みんな待ってたんですから……」
すると、優しいお姉さんの一言を待っていたかのように、キャストたちが「ごめんなさ~い」と口々に言いながらやってきた。
あとは、音響効果の奈々枝を待つばかりだ。
五十鈴は、その姿が現れるべき舞台袖をじっと見つめている。
とりあえず動き出した部活に、ほっとしているようだった。
そこで、高校生にしては幼い声が耳をつんざく。
「あ~、ごめ~ん、放送部に行ってたの~!」
ばたばたと奈々枝がステージに駆け込んでくる。
「とりあえず、SEだけ、SDカードに落としてもらってたんだ」
「ありがとう、奈々枝ちゃん!」
なぜか、思わず小柄な身体を抱きしめた五十鈴の声は二部合唱でハモる。
そこで私の目に映ったのは、いつの間にか戻ってきていたオフィーリア役の美浪が、クローディアス役の比嘉とポローニアス役の苗木を小突き回しているところだった。
この男ども、どさくさに紛れて同じことをしようとしたところを、返り討ちに遭ったらしい。
私もシェイクスピアも呆れていると、奈々枝が五十鈴の胸元で呻いていた。
「五十鈴ちゃん、苦しい……」
豊かな胸の間には、小さな頭が息もできないほどに埋められていた。