苦難の始まり
演出の五十鈴が部長の並木さんに、そっと寄り添って囁く。
「見られたかな?」
「たぶん」
そこでシェイクスピアが私の口で、勝手に横から割り込んだ。
「誰ですか?」
そこへ遅れてやってきたのは、ハムレット役の男子だった。1人だけ女子の制裁を免れた幸運が仇となり、他の男子から袋叩きにされる。
「お前は! お前は! お前は!」
「だってレイアーティーズだって来ないじゃないですか、塾とか何とか言って!」
空しい言い訳が天井の高い部室に響き渡る中、部長の並木は言い渡した。
「稽古場、急ぐぞ。うちの独裁者にガタガタ言われないように」
並木さんの指図は速かった。
舞台監督を顧問への釈明に走らせると、例のステージですぐに稽古を始めた。
ハムレットへの失恋と、父の殺害によって狂気に冒されたオフィーリアが、再び人前に姿を現す場面だった。
《みんな、あの人を連れていった、棺に蓋もかぶせないで
ヘイ・ノン・ノンニー、ノンニー、ヘイ・ノンニー
お墓では雨がいっぱい涙を流してた
ごきげんよう、愛しい人!》
本来なら、それを口にすべきオフィーリアの兄、双剣の美丈夫レイアーティーズが愛と哀しみと怒りに震えるところだ。だが、舞台監督がそのセリフを読む前に、演出の五十鈴が手を叩いて芝居を止めた。
「オフィーリア、何で歌ってるんだっけ?」
五十鈴の問いは単純だったが、オフィーリア役を務める更井美浪の答えも一言だけだった。
「発狂したから」
「狂気が感じられないのよ」
はっきりと言われて、美浪は不機嫌に切り返した。
「そこまで行ったことないから」
「それは言い訳ね」
五十鈴が口にした演出としての厳しい返事に、いつしか稽古場の空気までもが凍りついた。
その場の一同は部長も舞台監督も、太鼓持ちの二人も、残らず女2人の対決の行方を見守る。
だが、私は黙っていなかった。
「彼女には、オフィーリアであってほしいな」
作者シェイクスピアとしては、ごく自然な思いであっただろう。
自らの戯曲に描いた人物を、生かしてほしい。役者の言葉と身体を通して、生身の人間に変えてほしい。
それは、演出への願いでもあった。
「私にはムリってことかな」
五十鈴が自嘲気味につぶやくと、美浪が立ち上がる。
「怒ってるのに、笑ってみせてる……人間って、悲しいときには歌うんだね」
その姿はもう、へそを曲げた木の強い役者ではなかった。
悲しみに耐えて歌ってみせるオフィーリアが、そこにいた。
《あの人はもう帰ってこないのかしら?》
《もう帰ってこないのかしら?》
《ええ、そうよ、死んだの》
《汝が死の床へ行くべし》
《あの人はもう帰らないのだから》
シェイクスピアが、私と共に息を殺してその様子を見つめていた。
作者自身でありながら、自らが描いた人物を目の当たりにして、その悲しみが胸を締め付けているかのようだった。
稽古が終わって解散を告げた部長は、おどけたような顔つきで私に歩み寄った。
「うまいもんだな」
オフィーリアへの一言のことだ。
私としては嬉しかったけど、シェイクスピアはそうでもなかったらしい。
そこは、52歳のオッサンだ。
「これくらい当然」
偉そうに答えると、五十鈴がイライラと歩み寄ってきた。
「部内恋愛禁止なんだけど」
そう見えたんなら、ざまあみろだ。でも、私の身体を使っているのは沙……52歳のシェイクスピアなのだった。
部長との恋愛フラグは、たぶん、ない。
その部長はというと、五十鈴に向き直って一気にまくしたてる。
「だからさあ、部活ちゃんとやってるとこ見せないと困るんだって、あの顧問に!」
「気にしない、気にしない」
そう言いながらスポットライトを撫で繰り回しているのは、照明担当の陽花里だった。
私を呼ぶなり、照明機材の説明を始める。
「ええとね、こっちのレンズが凸で、こっちがフレネル」
陽花里は、2つの灯体を並べてみせる。
「こっちのレンズ、真ん中が膨らんでるでしょ? これが凸。光の輪の端っこ……はエッジがはっきりしてるから、床の一部分に当てるのに便利ね」
「ギザギザになってるのがフレネル?」
「光が舞台の床にまっすぐ当たるの。その代わり、エッジはぼんやりするけどねだから、全体を照らす『地明かり』に使うの……」
陽花里は、ふうわりと立ち上がる。いい感じに照明が当たったときに床から反射した光そのもののように。
「え~とね、あの辺にシーリングライトを吊るの」
陽花里が舞台の袖から指差してみせるのは、体育館の天井だった。目の前で練習しているバドミントン部の白いシャトルが、ときどき高々と上がってくる。
「フロントサイドスポットライト、通称FSは、あっち」
体育館の壁の上には、ギャラリーとなっている細い通路が見える。
「あの高さに足場を組んで、スポットライトを斜めから当てるの」
今度は、舞台の上手と下手の袖を指す。
「で、あの辺とこの辺から当てるのが、ステージサイドスポットライト。通称SS」
続いて舞台の天井と床を同時に指差した。
「レンズのないパーライトは、上手と下手の天井から、それぞれ下手と上手に当てるの。通称、ブチガイ。床に小さいスポットライト置くこともある。通称コロガシ」
講釈は延々と続いたが、それぞれの箇所に使う照明機材を想像すると、頭が痛くなる。
もっとも、陽花里はそんなことは気にも留めない。
「も~、設営が大変。シーリングは横一文字の棒に固定して、体育館の梁からロープで吊らなくちゃいけないし」
そこで沙は、アリーナにいるバドミントン部や、その向こうにいるバレーボール部を見渡した。
「あの人たちは? 危ないと思うんですけど」
そこで私が我に返ったのは、部長がぼやいたからだ。
「だから、顧問の調整いるだろ、こんどの稽古。照明合わせの日は、体育館を使う全ての部活動が練習できないことになる。各部の顧問に頭を下げて回るのは、演劇部顧問の仕事」
困った顔をしてみせても、陽花里は動じなかった。ほんわかと笑ってみせるばかりである。
「じゃあ、お願いしといてね、照明仕込みのプラン、立てとくから」
顔と物言いと仕草はおっとりとしているが、どうしてどうしてこの娘、照明に関してはなかなかに強引だった。
そこへ、背の高い舞台監督が袖から駆け込んできた。
「大変だ! 部室が使用禁止になった!」
「顧問は?」
顔を強張らせる部長に、舞台監督が息を切らせて報告する。
「もう早退してた。他の先生が、部室から私物を運び出せって」
部長はすぐさま、部員たちを部室へと向かわせた。
でも、その後ろからは、こんな声をかける。
「ステージが使えないわけじゃない。芝居をしちゃいけないわけじゃない」
そこで部長がいきなり、私に語りかけた。
「どうする?」
そう言いながらステージに座り込む。
何の話だか分からない。
「どうするって?」
沙も、同じ言葉を繰り返した。
しばらく手足を曲げたり伸ばしたりしてから、部長は言いにくそうに答えた。
「無理に……続けなくてもいいんだよ?」
そう言われると、私も急には判断がつかない。
だいたい、この身体が自由にならない。
「見える? 無理してるように」
沙が代わりに、あっさりと答えたのが悔しかった。
ひっきりなしに動いていた部長の身体が、ぴたりと止まった。沙を、じっと見つめ返してくる。
「……何?」
まなざしの真剣さに、沙も思わず後ずさったようだった。
部長は、大真面目に答える。
「……見えない」
沙は、ひと言の返事もできないようだった。
シェイクスピアが、18歳そこそこの少年に感じたものがある。
52歳の男を通してなかったら、それが何なのか、たぶん、私には分かったと思う。
部長は恥ずかしげに笑うと、アリーナで練習するバドミントン部員たちを眺め渡した。
「難しい人でね……あんまり、僕たちが稽古するの好きじゃないみたいでさ。何かというと理屈をつけて部活を休みにしては帰っちゃうんだ」
「勝手にやれば?」
素朴な疑問をぶつけると、戻ってきた五十鈴が苛立たし気に答えた。
「そんなことができればとっくにやってる……顧問の許可なく稽古やったら、上演もできなくなるの!」
「何で?」
分からないでもない理屈だったけど、沙はまだ釈然としないようだった。
500年前のオッサンとは、その辺の常識と感性が違うらしい。
部長が力なく答えた。
「ここが学校で、僕らがやってるのは部活だから」
つまり、学校ではパトロンの許しがないと一座は芝居が打てないということだ。
「部活でなければ、学校をパトロンにしなくてもいいわけでしょ?」
確かに、その通りだ。
でも、五十鈴はきっぱりと答えた。
「学校の外じゃ、芝居打つ金も場所もないの」
500年前にシェイクスピアとして、グローブ座で経営の一端を担っていた沙は、それでようやく納得した。
「で、顧問、何だって?」
五十鈴の詰問に、部長は力ない声で、これも言いにくそうに答えた。
「部室の使い方がよくないって」
小首を傾げた五十鈴だったが、すぐにハッと口を開けた。
「アレか……」
「乱闘騒ぎ」
五十鈴をじろりと見上げる眼差しは、沙の目にも恨みがましく見えた。
確か、あのとき、五十鈴に腕を極められて悲鳴を上げていたのは部長だったはずだ。
「だってあれは……」
そう言う五十鈴の言葉が続かなかったのは、そのやましさがあるからだろう。
その隙を突くように、部長がそのときの非難を蒸し返した。
「誤解だって言ったろ」
半裸の沙……というか私を、やはり半裸の男子生徒が取り囲んでたら通らない理屈だ。
でも、五十鈴は食い下がった。
「でも、怪我もなかったし、何も壊れてないし」
「目撃者多数……面倒ごとが嫌いだからな、あの顧問は」
部長のため息を最後まで聞かないで、沙は立ち上がった。
「部室行ってきます」
それは、嘘だった。
ダメ元で駆けていったのは、学校の門だった。
その角を、乱闘後の部室で見かけた、あの影が曲がるところだった。
「ええと……センセイ!」
沙に呼び止められても、あのバイオリンに似た、粘りつくような声は一言しか答えなかった。
「決定通り」
「待ってください!」
その声を追ってみたも、顧問の姿はもう、どこにも見えない。
ただ、その印象だけは私の記憶にも残っていた。
背の高い老人の影……。
沙も、何か思い出したようだった。
「似ている……『時』の化身に。『十二夜』に登場させた、カンテラを下げた「時」の化身に……」
そのつぶやきは、どちらかというと災難を祓う呪文に近かった。