世界の蝶番が外れるとき
そこで、部長の並木がアリーナに声をかけた。
「ねえ、どうだった?」
アリーナからは黄色い歓声が上がった。
「笑った!」
白いボールを手にして、白い脚を剥き出しにした女子たちだ。
随分と顔が広いらしい。
まあ、ぱっと見ではスッとした感じの、鼻筋の通った男子だから、モテるのも不思議はない。
演出の五十鈴をちらっと見てみると、面白くなさそうな顔でそっぽを向いていた。
部長の並木は、演出の五十鈴と私(と、シェイクスピア)に向き直ってピースサインをしてみせる。
「だってさ!」
編み髪の演出は舞台上の高い高い天井を仰ぐと、長身の舞台監督に、集合を告げるよう力ない声で頼んだ。
ステージ上で座員が円を描いて座ると、部長から声がかかった。
「ああ、よろしければ」
シェイクスピアは、パイプ椅子にどっかりと腰かける。
「私はこれで」
床に直座りするのは、まだ慣れていないからだ。
クローディアス役とポローニアス役がちょいとすくめた背中を、オフィーリア役の娘がどやしつける。
ふたりまとめて床に転がった先には、500年前から来た50代のオジサンが開いた足があった。
……ちょっと!
部長の並木は、あさっての方向に向かって頼んだ。
「すみませんけど、立つか、直に座るかしてください」
シェイクスピア享年52歳が立ち上がったのを見ると、ようやく気付いたらしい。
座っているのを見下ろされてムッときたのか、編み髪の五十鈴は目を伏せたまま話を続けた。
「ここ、笑うシーンじゃないし」
文字通りに高見の見物を決め込んでいる、私……というか、シェイクスピアがその元凶だ。
一座の視線を浴びて、『ハムレット』の作者自身も考えこんでしまう。
そこへ、部長が問いかけた。
「どう思う? 自分でやってみて」
吊し上げの危機を免れたシェイクスピアは言葉を選び選び、私の声と身体で、なるべく誠実に考えを述べた。
「正直、笑わせるつもりはなかったの。ただ、ハムレットの気持ちは分かってるつもりだった。復讐に燃えて、狂気を装う。バレちゃいけないから、憂鬱なフリをしなくちゃいけない。だから、ちょっとずつ、足の下ろし方を考えながら歩いたの」
すかさず五十鈴が、冷ややかに水を差した。
「それ、失笑っていうんじゃない?」
「笑いの区別もつかないのに、よく役者の芝居が云々できるわね」
部長の並木がすかさず口を挟んだ。
「この笑いって、ものすごく素直な反応じゃないかな……フリで笑いが取れるんなら、フリがバレなければいいわけだし、バレたらバレたで、それが観客の笑いを招けば、それでいいんじゃないかと思う」
演出の五十鈴は、その必死のフォローを切って捨てる。
「演技ってさ、確かに観客にウソを吐くことだけど、吐いたら吐いたで吐きとおさなくちゃ。バレちゃだめでしょ」
部長はあっさり土下座をついた。
「ごめんなさい」
そこで椅子の上のシェイクスピアは余計なことをした。
制服を着た私の姿で、私の足と腕を組んで部長を見下ろしながら、冷ややかな言葉を楽しげに投げつけたのだ。
「全く、利口なバカってあなたのことね」
その場をおどけて切り抜けた部長への好意で言ったのだが、五十鈴はそれを好意とは取らない。
静かに立ち上がると、正面から私を睨み据えた。
「勝手に口挟んで勝手に芝居にケチつけて、それで笑われたら開き直って人をバカ呼ばわり? あなたいったいどこの何様? だいたい今何時だと思ってんの、時間のないとこでやりくりしてこうやって練習してんのに、こっちだって都合ってもんがあるのよ、地区大会なんかね、まだだまだだと思ってるとすぐ来るの! 部外者の気まぐれや冗談に付き合ってるヒマなんかないんだからね!」
その目には、涙が滲んでいる。
熱かったジャージ姿の部員たちの空気が急激に冷めた。
その視線は、私への非難の眼差しに変わっている。
さすがに部長も慌てて立ち上がった。
「五十鈴!」
名前で呼び捨てにされた演出は、キッと睨み返す。
「何よ……私が悪いって言うの?」
「そうじゃないよ」
部長の言う通り、誰も悪くない。
シェイクスピアも思っていた。
このステージの上で、誰かが悪者になるなんてことは絶対にないし、あってはいけないと。
そういうわけで、私は後ろから、のんびりとからかうことになった。
「愚かな知恵者もいるけどね」
五十鈴の身体が震えはじめる。
今度は部長も、怒って振り向いた。
「君も……!」
それから先は、言葉にならない。
五十鈴も耐えていることは、背中で分かった。
でも、シェイクスピアは私の顔で、満足そうに微笑んだ。
「それよ」
「え……?」
呆然としたのは、部長だけではなかった。
部員たちが戸惑っている。
五十鈴の息遣いが違う。
私の姿をしたシェイクスピアが、真顔で言った。
「それが、ハムレットの怒り」
ハムレット役の男子は目を白黒させている。でも、今の相手は部長だ。
「本当は全部吐き出して楽になりたいのに、いろんなしがらみがあって、それができない。抑えに抑えて取った手段が、狂気のフリ。だから、観客にはバレて当然なの。騙されてるのは、舞台の上の人間だけ」
それはハムレットのことを語っているようで、部長のことでもあるようだった。
シェイクスピアは私の顔で、静かに微笑む。
「ある意味、ハムレットは人生という大きな舞台で道化芝居をしていたようなもの。利口なバカって、そういうこと」
舞台の緊張が緩むのが、肌で分かった。
五十鈴の荒い息も、いつの間にか治まっている。やがて部長の隣に進み出ると、息をひそめて告げた。
「確かに、愚かな知恵者ですよね……見事にひっかけられたんですから」
手間暇かけて演出プランをひっくり返された割には、やけに冷静だった。
それは部長がギクッとしたくらいだったが、五十鈴は演出として、極めて冷静に舞台監督へと向き直った。
「稽古時間、ありますか?」
その確認は、部長へとリレーされる。
「いいですよね?」
外部の意見に屈するのは、演出としては忌々しいことだったろう。気の強い五十鈴ならなおさらだ。
でも、それだけに、プランを変更した決断はたいしたものだった。
部長も、それに同意せざるを得ない。
「あ、ああ……」
曖昧な了承の返事を受けた演出の五十鈴は豊かな胸を威勢よく張って、新たなプランを周知する。
「まず、ハムレットは怒りを表に出すことなく、憂鬱の病を装います。本来は情熱的なハムレットは、ひたすら狂気のフリをします。だからハムレット!」
はい、の返事と共に、五十鈴はにやりと笑って私を眺める。
まだ、何か文句があるのだろうか。
私は焦ったけど、シェイクスピアは落ち着いたものだた。
言いたいように言わせておくつもりらしい。
五十鈴は、ハムレット役の男子に向き直ると、鋭く指示を出した。
「……足は、無理やりなくらいに前へ出すこと!」
役者のやることは、最初と何一つ変わってはいない。舞台監督の指示の下、部員たちはそれぞれの配置に付いている。
部長を上手、私を下手へ追いやっておいて、五十鈴は自信たっぷりに言った。
「まあ、見てなさいって」
センターに座り込んだ演出の一言は、唖然としている部長の慎吾と、憤然とした眼差しを向ける制服少女のどちらに向けられたものか、はっきりとは分からなかった。
《ここに残るか? 雲を霞と消え去るか? それが問題だ》
足の運びに合わせて、ひとつ、またひとつと荒い息に任せて吐き出す言葉は、荒れ狂う心を抑えようとあがく熱血漢の苛立ちがあった。
《人生の辛さに耐えもしよう。死ねば、帰ってきた者などいないあの国があるのだ》
それは、ハムレットの本音だ。だが、それを知られてはならない。自分に言い聞かせ、納得させる芝居をするには、敢えて力んでみせることも必要だ。
《ああ、我々は臆病者、考えることは立派でも、その決意はいつだって口ばかり》
ハムレット役の座員はやたら手を振りかざして大騒ぎする。
ダメな芝居だが、狂気のフリが無性に笑えてきた。
《しっ……待て、オフィーリアだ》
ここでハムレットは、正気に返る。このときハムレットは既に、復讐のために大切なものを1つ投げ捨てる覚悟を決めているからだ。
やがて、この世で最も大切な人が遠慮がちに微笑んだ。
《ごきげんよう、ハムレット様》
恋よりも復讐を取ったハムレットの心を、オフィーリアが知ることはない。
ハムレットは、その悲劇に至る運命の一言を、低い声で言い放った。
《尼寺へ行け!》
展開が速すぎる、とシェイクスピアは感じていたようだ。
はったと睨み据える先には、あの五十鈴がいる。挑発的な微笑と共に振れた編み髪は、こう言っているように見えた。
……何かご不満でも?
そこには、500年前に生まれた傑作をバッサリ切ってみせるに足る、絶対の自信があった。
やがてハムレットは、居住まいを正す。
《結婚したければ、どうぞ、愚か者と》
稽古の終わりに、舞台上の座員たちは再び集まって、挨拶を交わした。
部長が厳かな声で告げる。
「撤収!」
舞台にモップをかけたり明かりを消したりと走りまわる部員たちの間を、シェイクスピアはあくまでも一人の少女として去っていく。
これから、どうしようか。
もう一度、ウィリアム・シェイクスピアをやるか、それとも、別の生き方をするか。
なかなか結論の出ないところで立ち往生していると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
「ありがとうございます、お疲れさま」
振り向くと、慇懃無礼な演出の五十鈴だった。
「ひとつ聞きたいんだけど……どうして、ハムレットは嘘をついてるって断言できるの? 父を殺されたんだから、憂鬱な気持ちは本当かもしれないのに」
シェイクスピアも、作者としては答えないわけにはいかなかったようだ。
「死ねば帰ってくる者などいないあの国がある、って訳してあったけど……エルシノア城の場面は覚えてる?」
「あ……」
それで察しがついたらしい。
「だから、帰ってきた父の幽霊に語らせなければならなかったの」
「つまり、ハムレットはウソだと分かってて言ってる……」
やられた、という顔をして天井を仰いだ五十鈴は、楽しげに笑った。
「じゃあ、もうひとつ……あなた、本当に女の子?」
「え……?」
見抜かれていた? まさか。
こんな目立つことをしでかしてしまったのは、やはり舞台の魔力だろうか。
勝ち誇ったように、イスズが両手で肩を叩く。
「大丈夫、みんなそうだから」
この娘も、本当は男? いや、そんなはずはない。豊かな胸が、柔らかそうな生地のシャツを突き上げている。
「一緒にお芝居、やらない?」
「……うん」
砕けた言葉で誘われて、頷いてしまったのは何故だろうかと考えている間もなく、周りから喝采が巻き起こった。
「やった!」
「部員ゲット!」
いつの間にかイスズとのやりとりは、取り囲む座員たちに聞かれていたようだった。そこから歩み寄った座長のナミキが、畏まった顔で尋ねる。
「では、お名前をどうぞ」
「翁……沙」
晴れて部員となったところで、沙……いや、私の身体を使っているシェイクスピアはいきなり、五十鈴を遠慮なく挑発した。
「ハムレットの台詞……《雲を霞と消え去る》って喩え、ハムレットが死んで消えることへの喩えには使えないんじゃない?」
今度はイスズが会心の笑みを浮かべた。
「そう、本当は《逃げ去る》が正しいのよ。ハムレットは敢えて《逃げるように死ぬ》って言ってるわけね」
やられた。
だが、イスズはちょっと考えて、人差し指を立ててみせる。
「でも……ハムレットが熱い男なら、《死ぬのは逃げるのと同じだ》でもいいか」
くるりと背を向けると、ステージから去る座員の群れを追いかける。
「ハムレット! ハムレット! 相談があるんだけど!」
その後ろ姿を見つめる私の口で、シェイクスピアはつぶやく。
「500年前。グローブ座での私か」
……人に聞かれてないだろうか。
やっぱり、困ったオッサンだった。