時を越えた想い
「分からない」
同じ教室の同じ席で、私……翁沙はつぶやいていた。
この3日あまりで何とか慣れはしたが、それと納得するしないは別の話だった。
「なんで私、こんなところにいるんだろ」
3日前、私はここで同じことをつぶやいていた気ががする。
言ったことは大して変わらない。
が、今、私が悩んでいることとは天地の開きがある。
私は今、不条理というやつのどん底にいた。
3日前に目が覚めると、私はいつものベッドの中にいた。夢かうつつか分からない、あの花吹雪と雨の中で、死んだような気がしていたのだ。
でも、どうもそうではないようだった。
息も苦しくない。腐ったニシンに当たって息も絶え絶えだったのが、嘘のようだ。
確かに、こう考えた気がする。
……こんな結末で終わりたくない。
その思いが神にでも通じたのかと思うと、その奇跡に祈りたくなった。
こんなの、私じゃない。
でも、確かに私は知っている。
3日前に私が最期を迎えたストラッドフォード・アポン・エイヴォンはそもそも、商業で栄えただけでなく、教会の町でもあったことを。
だが、聞こえてきた鐘の音は、教会のものじゃない。
ゴ~ン……。
窓を開けてみようとして気が付いた。
カーテンが違う気がした。
普通の窓ガラスが、高価に感じられる。その外の光景は……。
「まあ、3日で慣れたんだけど」
私の口が、私の言葉で、こんなことを言っている。
今の私にとって、この日本は、見知らぬアジアの異国だった
自分の身体なのに、まだ慣れない気がする。
なにしろ、52歳で死んだはずの男が、16歳の娘の身体で生きているのだから。
今の私は、ウィリアム・シェイクスピアだった。
その記憶と思考が、一気に私の頭の中で駆け巡る。
こんな状況は、自分の作品にもある。
まず、『間違いの喜劇』。
生き別れとなった双子の兄弟と、双子の召使の物語だ。
いきなり知らないところに連れてこられて、本人として扱われる戸惑いで笑いを取ったものだ。
それから、『十二夜』。
生き別れとなった双子の兄を、妹が男装して探し求める物語だ。
諸事情あって、女を舞台に上げるわけにはいかないので、声変わり前の少年に「男装した少女」を演じさせるというややこしいことをしなければならなかったのだが……。
ベッドのある部屋を出る前にも、ここまで考えることはできた。あとは、その場で見えてきたことをやり遂げるだけだ。
今、私は女装した男として、全く知らない環境を生き抜こうとしている。
「人生は舞台、全ての男女は役者……といったところかな」
かつての自分が言ったことを、今の自分が実行するとは思ってもみなかった。
ああ、ややこしい。
「いきなり現れた両親との関わりでしょ、いきなり制服を着て通うことになった学校でしょ、それから、ありがたいことに見ず知らずらしい級友たち……」
独り言も、年頃の少女らしくなった……というか、もともと私の言葉だ。
だが、この人生がひとときのものであるにせよ、いつまでも続くものであるにせよ、できることなら、余計な人や物事と関わらないで済ませるのが、ウィリアム・シェイクスピアとしては無難というものだろう。
でも。
私は困る!
何よ、あのじじい!
返してよ! 私の身体……じゃなくて、この爺さんに、元の身体を!
といっても、このウィリアム・シェイクスピア、そうは思ってないらしい。
それどころか、気になって仕方がないものがある。
……ワイワイワッショイ ワイウエヲ 植木屋井戸替えお祭りだ
演劇部の発声練習だった。
今までは聞き流していたのが、今は面白く感じられる。
「なるほどね……『ワ』で頭韻を踏んでおいて、語頭の母音だけを『ウ』に切り替えるのね」
シェイクスピアにしても、転生というか生まれ変わりというのか乗り移りというか、この娘の身体で蘇ったからか、このアジアらしい異国の言葉がちゃんと分かるらしい。
一方で、あまり勉強ができる方じゃない私も、この爺さんの考えている小難しいことはちゃんと理解できるのだった。
「声張り上げて詩を読み上げる……お芝居の稽古かな」
その読みは当たったらしく、別の詩が聞こえてくる。
……それは正気の沙汰ではない物語、怒りの響きに満ち満ちて、ほとんど何物でもない。
かつて書いた『マクベス』の一節だ。
思わず知らず、私の身体は声の聞こえる場所を探し求めて歩き出した。
今の私は、シェイクスピアが演じる「オキナ イサゴ」なのだ。
この爺さん、そのために3日間も死に物狂いで、私の周りのあらゆることを調べつくしてきたのだった。
ここは、アジアの端の日本という国。
今は、自分が死んでから、大雑把に数えて500年近く経った後の時代だということ。
テレビにスマホにインターネット、まるで『マクベス』で描いた荒野の魔女が見せる幻のようなものがあふれている。
だが、そんな時代に、このアジアの小さな国で、自分の作品が演じられているのが聞けるとは……。作者としては、実際に見てみたくもなるのも無理はない。
やがてたどり着いたのは、この学校の体育館だった。
ギリシアの神殿に似せられた正面玄関から入ると、目の前には球技に興じる若者たちの姿が見える。
その向こうには、高い所に舞台がしつらえられている。そこに見えるのは、芝居の稽古をしているらしい若者たちだ。
さっきは『マクベス』だったが、立ち位置を見る限りでは別の芝居のようだった。
女が1人去り、密談をしていたらしい2人の男が舞台の端で身をすくめる。舞台中央に1人残された女を挟んだ反対側に、もう1人の逞しい男が現れる。
その場面には、心当たりがあった。
「ハムレット……」
球技に興じる若者たちの喚声はすさまじかったが、その場面の台詞は何とか聞き取れた。
かつて書いた悲劇『ハムレット』だった。
場面は第3幕第1場、エルシノア城の一室。
最初に去った女は、デンマークの王子ハムレットの母、ガートルードだ。
《あなたの美しさと優しさで、ハムレットの荒れた心が静まりますように》
ハムレットの恋人オフィーリアに告げる元の台詞は、もっと長い。随分と意訳されたものだ。
隠れた男のひとりは、奸臣ポローニアスだった。
娘のオフィーリアと、ハムレットの叔父である国王クローディアスに告げる。
《オフィーリアはここへ。陛下はこちらで隠れてご覧を》
そこで娘に説いて聞かせるのは、この台詞だ。クローディアスの台詞を引き出し、次の場面を動かす大事な伏線である。
《さあ、この本を。世間では真面目なフリをして、悪魔の顔を隠すものだ》
本を読み始めるオフィーリアを前に、クローディアスは観客に向かって内心を語る。
《だが、どんな美しい言葉で飾ろうと、俺のやったことの醜さを隠せはしない》
王子ハムレットの父を殺し、王位と母を奪った良心の呵責に苦しむクローディアスは、ポローニアスに促されて縮こまる。
《ほら、ハムレット様が!》
たとえ500年近い時間が流れているとはいえ、手塩にかけた作品が目の前でズダズダにされているのは、見るに堪えないものがあるだろう。
そこで現れたハムレットが何を言うか耳を澄ましていると、舞台の隅に座り込んで芝居を見ていた若者が、ふとこちらを見た。
部長らしい。
シェイクスピアからしてみれば、劇団の座長であろうというところだ。
そこで、この劇の作者は思った。
……もし、この若者がこちらに気付いたとしたら、どうすればいい?