そして幕が上がる
大会3日目の朝を迎えた。
時間は午前8時。全ての部員……つまり、この『ハムレット』の役者たちは、張りつめた面持ちで並木さんを見つめていた。
「とうとう、この時がやってきました」
いつになく重々しい声で、並木さんが告げる。
「思えば、いきなり部室が使えなくなって……」
バイオリンの粘りつくような音に似た声が、その言葉を遮った。
「長い話はいい」
顧問に都合の悪い話は打ち切られ、話題はその日のスケジュールに移った。
シェイクスピアにとってはありがたい話だったろう。52歳の男が私として16歳の少女を演じるには、それなりの集中力が求められる。今はとても、そんな状態ではなかった。
意識が、どこか遠い彼方へ飛んでいきそうだったのだ。
私にも、500年前のストラッドフォード・アポン・エイヴォンの水路が見える。シェイクスピアが最後に見たのは死の直前だったはすだ。
腐ったニシンに当たって死んだ、あのときの……。
その代わりに今、私は今、500年前のイングランドで、シェイクスピアの書斎のベッドに横たわっている。
そのつながりで、何となく、こうなった原因にも思い当たる。
昨夜、蒲生野高校で振る舞われた「ニシンソバ」を無理に食べたのがいけなかったのだ。
まともに考えたら、あの魚がニシンだと気付いた時点で、食べるのをやめなければならなかった。
だが、それがどうしてもできなかったのは、この時代、というより、この国に転生してしまったせいだろう。
どうもみんな、本当の気持ちを口にしないで無理ばかりしているのだ。陽花里や奈々枝、相模や笠置はともかく、五十鈴や並木さん、そして顧問とつきあっているうちに、その影響を受けてしまったらしい。
和やかな(これも500年前のイギリスにはなかった感覚だが)雰囲気を傷つけるまいと、危険を感じながらもついつい、ニシンを無理に食べてしまったらしい。
あの後、アラスの野で銃弾に倒れたシラノのように両膝をついたが、ふざけていると思われただけで済んだ。
シラノは鉄砲玉くらいでは死ななかったが、詩で恨みを買った相手の陰謀で窓から材木を落とされ、頭を砕かれて死んでしまう。
シェイクスピア自身はどうなるのか、分からない。夕べから、身体に異状はない。ただただ、意識だけが遠くへ飛んでいくのだ。
500年前の、故郷へ。
「おい、沙」
いつの間にか、並木さんは私を「オキナ」ではなく、「イサゴ」と呼ぶようになっている。
どさくさ紛れに、と思ったとき、そこが調光室だということに気がついた。
目の前には、大きな机があって、幾筋もの切れ目が3段に渡って並んでいる。それにはすべてツマミがついているが、そのどれにも触ってはならないと陽花里が言っていた。
モニターの画面を見れば、舞台監督の相模が、下手の袖へと下がっていくのが見える。舞台の中央では、陽花里が舞台の床と天井をかわるがわる見上げていた。
「やることなんか、何にもないのにな」
耳に当てた「インカム」とかいうものから、舞台袖の「インカム」使っているらしいを並木さんの苦笑が聞こえてくる。見栄もしないのに、肩をすくめて応じることしかできない。
そこで、タイムキーパーの生徒が叫んだ。
「開演5分前です」
「はい!」
並木さんの声に合わせて、シェイクスピアも返事をする。私もなぜか、こんなことをするのも最後なのだという気がした。
さらに、並木さんはぼそぼそと囁く。
「これ終わっても、ちょくちょく来るよ」
「待ってます」
シェイクスピアはそう言ったが、待っているのは誰だろう。たぶん、そのときは、シェイクスピアじゃなくて私……翁沙がそこにいるのだろう。
そのときは、どうしたらいいんだろう。
五十鈴さんとの関係を、私が整理しなくてはならなくなる。
まあ、そのときはそのときだろうと覚悟を決める。
そこへ陽花里が戻ってきて、インカムからほにゃあとした声で告げた。
「準備完了だよ」
下手袖からコールがかかる。
「上演1分前アナウンス流します!」
「はい!」
最後の舞台が近づいてくる。客席に向かって、着席が案内される。
「まもなく、陵高校の上演です……」
1ベルと呼ばれるブザーが鳴る。2ベルが鳴れば、開演だ。
だが、よりにもよってその前に、再び意識が遠のいた。ただ、今までと違うのは、蘇ってくる光景である。
ニシンに当たって死ぬ瞬間、シェイクスピアは考えたのだ。引退した先のストラッドフォード・アポン・エイヴォンの水路に煌く朝日を見ながら……。
もう一度だけ。
そのとき、見えたものがあったのは、多分、私が見ていたものは。
真っ白な桜の花が、冬の吹雪のように舞い散る中で歩く、制服姿の若者たち。東洋の瓦屋根。
ステージで稽古に励む、役者たち……。
「思い出したか」
どこからか聞こえる声と共に、目の前が、真っ暗になる。客席の照明が落ちたのだろうか……いや、それはない。それは2ベルが鳴ったら、会場のスタッフがやることになっている。
「そう邪険にするな、自分で生み出しておきながら」
目の前に現れたのは、背の高い老人だった。長い衣をまとった、髭の長い老人である。その手には火の入ったランタンがあるのに、辺りは全然明るくない。
そもそも、調光室の天井は低いのだ。この老人の頭がつっかえないわけがない。
「ここは……どこだ?」
あの、真夏の夜の夢の中じゃない。
シェイクスピアが尋ねると、かつて『十二夜』で登場させた「時」の老人は、ふてくされたように言った。
「そんな口を利いてもいいのか? ここはワシの場所だぞ」
「そのお前は私の創造物だと、自分で言ったではないか」
シェイクスピアは切り返してやったが、老人も負けてはいない。
「だから、ここを支配する力も与えられておる。創造した本人にな」
「で、どこだ?」
負けを認めるしかなかったが、卑屈になる理由はない。老人も、根負けしたように答えた。
「どこでもない。始まりの前、終わりの後だ」
「それはまさに、舞台そのものではないか」
そう言うと、老人は楽しげに笑った。
「そう来るか! なるほど、そうかもしれん……だが」
真面目な顔で、まっすぐに見据えてくる。
「そこは、夢ともいうのだ」
「同じことだ、現実ではないのだから」
まるで劇中の道化のような問答だ、と私もシェイクスピアも思った。だが、老人はすこぶる真剣である。
「だが、夢の中に生きる者には、現実ともいえよう」
「どういうことだ?」
シェイクスピア自身でもわけが分からなくなっていた。老人はそれを察したのだろう、自ら答えを告げた。
「現実には死んだのに、もう一度と望むのは、夢を見たいということだ。その望みを叶えてやったのだから、夢の国の住人になったということだろう。してみれば、その夢ではないこの場所は、現実ということになる」
「つまり、私は死ぬということか?」
老人は頷いた。
人生とは、間の悪いものである。いや、間の悪いのが人生というべきか。
シェイクスピアは掌を返したように、「時」の老人に冀った。
「少しでいい、時間をくれないだろうか」
「もうやったろう」
すげなく言い切る老人に、なりふり構わず取りすがる。
まるで『十二夜』で描いた嫌味な男、最後の最後で袋叩きにされるマルヴォーリオのように。
「私だけの問題ではないのだ、これは。私を待っている人たちがいる」
「誰を待っていると?」
老人は意地悪く聞き返す。
「私だ!」
「だから誰だ? ウィリアム・シェイクスピアか?」
日本で沙翁と呼ばれる男は一瞬だけ答えに詰まったが、はっきりと答えた。
「いや、翁沙」
それはまさに、半年ばかり演じてきた私の口調だったが、「時」の老人は含み笑いで応じるばかりだった。
「まあ、見ているがいい」
その一言で、シェイクスピアは調光室の椅子の上に崩れる自分を感じていた。
2ベルが鳴り、開演がアナウンスされる。
「これより、陵高校による、ウィリアム・シェイクスピア原作、菅野五十鈴脚色、『ハムレット』を上演いたします」
土壇場で倒れた沙を、顧問の姿を取った「時」の老人は冷ややかに見下ろしている……。




