シェイクスピアと共に、翁沙として
リハーサルが終わると、外はもう薄暗くなっていた。
私が空を見上げているのは、夏の日がイングランドよりも早く沈むからだ。
シェイクスピアが書いた『真夏の世の夢』の世界は、日本人の感覚ではたぶん、分かりにくい。
夜とはいっても薄明るいのが続くので、現実と幻想の境目もはっきりしないのだ。
それは、イングランドが日本よりも緯度がはるかに高いことによる。
白夜とはいかなくても北極に近いので、なかなか太陽が沈まないのだ。
大会を明日にひかえて、どの学校の演劇部員も急いで帰っていく。
並木さんはというと、会場を出るところで私に声をかけようとしていたようだった。
でも結局は、追い抜きざまに睨んでいった五十鈴の後をすごすごとついていく羽目になってしまった。
「さて……」
会場の前でひとりになった私の口で、帰ろうとするシェイクスピアがつぶやいたときだった。
どこからか、あのバイオリンの粘りつくような音が聞こえてきた。
「残念だが、そこまでだ」
それは、時の老人の声だった。
シェイクスピアが現代の日本にいられるのは、ここまでらしい。
つまり、時間切れだと言いたいのだ。
「何勝手に決めてんの!」
そこで口を挟んだ私自身が、驚いた。
あれ?
私、自分の口で喋ってる。
すると、シェイクスピアは……?
明らかに日本のものではない、白い闇の中で振り向いた者がある。
それは、ストラットフォード・アポン・エイボンの自室で死を待っているはずの、52歳のおっさんだった。
「まだ、私の無念は晴れてはいないぞ」
それが、本物のシェイクスピアだった。
私はその傍らに立って、相槌を打つ。
「そうよ。もうちょっとだけ!」
黒い影となって立つ時の老人は、私たちに向かって言った。
「欲の深い奴らだな。もう充分ではないのかね」
何がどうなってるのかよく分からないけど、今、私は私の行動を自由にできるらしい。
それなら、言いたいことを言ってやろう。
「話の分かんない爺さんね」
相手は影だから見えやしないけど、たぶん、目を剥いただろうとは思った。
シェイクスピアは、もっときっぱりと言い切る。
「一度関わった芝居を放り出すようなことはできん」
よく言った、シェイクスピア52歳!
私たちが口々に逆らうと、影はシェイクスピアに向かって答えた。
「よくあることではないかな」
無視かよ、私は。
でも、シェイクスピアも影の言うことを無視した。
「悪いが、そっちに戻る気はない」
それはそれでいい気味だけど……ちょっと!
そりゃないんじゃない?
おかしなことに、今度は影のほうが私の味方になった。
「文字通り、往生際の悪いことよ」
そうそう。
なに諦めの悪いこと言ってんの文豪!
シェイクスピアが500年前のストラッドフォード・アポン・エイボンに戻ってくれないと困る。
今、そこで腐ったニシンに当たってに死にかかってるのは、私なのだ。
それなのに、シェイクスピアは人ごとのように悠々と答える。
「人は生まれる時も場所も選べん。せめて死ぬ時と場所くらいは選ばせてもらおうか」
自分の問題だと分かってるとしたら、もっと性質が悪い。
それ、ワガママ!
爺さんのワガママ!
さらに、その話には影の方も乗ってきた。
「別にこのまま生かしてやってもよい。ただし……」
要らないって! そんな条件。
死にかかってるの、シェイクスピアかもしれないけど、今は私なんだから!
それは、影にも分かっているみたいだった。
「向こうでお前の身体が死ぬということは、どういうことか分かるな」
すごく遠回しな聞き方だった。
まどろっこしすぎ……「時の老人」。
それ、私が身代わりになるってことじゃない!
シェイクスピアもシェイクスピアで、持って回った言い方をした。
「そう急かさんでもよいではないか。このまま生きながらえたいとも思わん」
ああ、よかった。
腐ったニシン、じゃなくて、腐っても鯛だ。
そこまでひどい人じゃないらしい、シェイクスピアも。
だが、そこは「時の老人」だ。
話を敢えて長引かせにかかる。
「そうかな? 本当にそう思っているか?」
黙って聞いてるつもりだったけど、さすがに私もツッコんだ。
「横からそういう口挟まないでくれるかな?」
もちろん、シェイクスピアは私の言うことなど聞いていはしない。
それでいて、聞かなくても分かっている相手の言い分を、わざわざ口にさせようとする。
「何が言いたい?」
ようやく、影はそこで取り引きを申し出た。
「シェイクスピアは今日、ストラットフォード・アポン・エイボンで死ぬ」
つまり、それは私のことだ。
今日はそろそろ終わるけど、500年前の時間はどんなふうに流れてるか分からない。
もしかすると、まだ時間はあるかもしれなかった。
でも、シェイクスピアは縁起でもないことを言う。
「すべては走馬灯の夢と消えるわけだな」
カッコいいこと言ったつもりかもしれないけどね、何の解決にもなってない。
死ぬの、私なんだから。
その当事者は放っておいて、影はさっさと話を進める。
「そうでもない。死ぬべきものが死ぬべき時に死ぬ、その節理が守られれば、あとは私の知ったことではない」
言うことが、ますます凶悪になってきた。
「時の老人」っていうより、魂を売らせようとする悪魔だ。
たいへんなことを、たいしたことないかのような言い方で和らげていく。
他人を売ったほうは売った方で、心は痛まないというわけだ。
シェイクスピアは、どうするだろう?
返事は、思いのほか早かった。
「そんな取引には応じられん」
「よく言った、文豪!」
思わず叫んだ私に、シェイクスピアは不敵に笑ってみせた……ような気がする。
誘いをきっぱり断られた「時の老人」は、いささか気を悪くしたようだった。
体面を取り繕うかのように、重々しい口調で告げた。
「ならばその命、もらい受けよう」
つまり、シェイクスピアが死ぬということだ。
すると、私は現代に戻ってきて、全ては元通りになる。
当然と言えば当然の結末だけど、私は止めに入らないわけにはいかなかった。
「ちょっと!」
それは、困る。
まるで、私が命惜しさにシェイクスピアを犠牲にしたみたいなことになる。
そうなると、今度は私が悪者じゃない!
だが、シェイクスピアは事もなげに言ってのけた。
「構わんが、他のものはくれてやらんぞ」
何? そのもったいぶった屁理屈。
どこかで聞いたような気がするけど。
その答えを出してくれたのは、「時の老人」だった。
影の中から、苦笑交じりの声が聞こえる。
「はて、お前の『ヴェニスの商人』でもあるまいに」
借金のカタに胸の肉は切り取ってもいいが、血は一滴も流すなというアレだ。
じゃあ、この場合は何だろう。
粘りつくようなバイオリンの音にもにた声で、影が尋ねる。
「命と共に持っていけぬものとは?」
そのとき、私の頭に閃いたものがあった。
「翁沙として、シェイクスピアと共に心を震わせた、あの舞台だ。
エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』。
100人斬りのシラノがつまらないことで瀕死の重傷を負いながらも、愛するロクサーヌの腕の中で口にした、最後の台詞だ。
私とシェイクスピアは、示し合わせたかのようなタイミングで、同時に言い放った。
「この私の、心意気よ!」




