始まりの前、終わりの後で女子高生と瀕死の文豪は邂逅する
気が付くと、私はぼんやりした光の中にいた。
「ここは?」
目を凝らすと、その向こうには、さっき見えたヨーロッパの家並みがある。
バイオリンの粘りつくような音が、どこからか答えた。
「これからお前が、別の人生を暮らす場所だ」
その声の聞こえた方を見上げると、さっきよりも更に高い所から、あの老人が見下ろしていた。
足は物干しざおのように細くて長く、背も焚火の煙にも似て、妙に高い。
鈍い光の向こうには、長い長い髭を持つ、老人の顔が見える。
ただし、薄暗い影になっていて、目鼻だちはよく分からなかった。
「あなた、誰?」
尋ねてみると、別の方向から別の声が答えた。
「あれは、時だよ。時の老人」
振り向くと、そこにいたのは、どこかで見たようなオッサンだった。
でも、誰かは思い出せない。
襟の高い服を着た、ボブカットの額の禿げあがった、ちょっと澄ました感じの変なオッサンだ。
今度は、老人のほうが答えた。
「お前と同じ名前を持つ者だ」
私は思わず、悲鳴に近い声を上げた。
「このオッサンが?」
翁沙なんて名前だっていうんだろうか。
ダメ、絶対ダメ。
気色悪い気色悪い気色悪い!
その一方で、オッサンはというと落ち着いたものだった。
「東洋では、こんな娘さんにもウィリアムという名をつけるのか? それとも、スカートをはいていても男なのか?」
すると、時の老人と呼ばれた影が混ぜっ返す。
「スコットランドの男どもはスカートを履いていよう」
オッサンは、楽し気に笑った。
「そういえば、そうだったな。さすがは私の手になるもの」
年の寄った男ふたりだけで、何やらくだらない話で盛り上がっている。
私はそこで、話に割って入った。
「ちょっと! 聞いてるの、私なんだけど!」
すると、時の老人とかいう爺さんは言った。
私ではなく、このオッサンに。
「この娘、ウィリアムでもウィリアミーナでもない。オキナイサゴという」
確かに無視はしてないけど、やっていいことと悪いことがある。
しかも、いたいけな女子高校生に。
許してはおけなかった。
「ちょっと! 勝手に人の名前教えないでよ! こんなオッサンに!」
するとオッサンは、私にひざまずいた。
胸に手を当てて、恭しくというか仰々しくというか、頭を下げる。
「失礼をば致しました、ご令嬢。私の創り出したものが、勝手にご無礼をいたしました」
今度は、爺さんがムキになる。
「おぬしが作り出したのではない。もともといたものを見つけ出して、ペンの力で形を与えただけではないか」
すると、オッサンも負けてはいなかった。
悠然と立ち上がって言い返す。
「ペンが言葉で描き出すものは、皆、そうだ。では尋ねるが、天地創造の前に神はいなかったのか?」
時の老人は、何をいまさらといった口調で答えた。
「おぬしがカトリックであろうとプロテスタントであろうと、光あれという神の言葉で世界が始まったのを知らんわけではあるまい?」
オッサンはオッサンで、勝ち誇ったように答えた。
「つまり、天地創造の始まりとなった光は、言葉になる前に神の御心の中にあったのだ。ならば、神はもともとあった光に、言葉という形を与えたに過ぎないのか?」
私にはもう、ついていけない。
文字通りの神学論争だった。
心ならずも、私は声を荒らげるしかなかった。
「そこまで! 無視しないでよ、私を!」
オッサンは、目を丸くして口を閉ざした。
でも、時の老人は、まだ黙らない。
「では、この男の名前も勝手に教えよう。シェイクスピアという」
どこかで聞いたような。
インターネットだったか、国語の副教材だったかで見た肖像画が、目の前の禿げたオッサンの姿と重なった。
私は思わず声を上げる。
「あ……。」
勝手に紹介されて機嫌を損ねていたらしいオッサンは、そこで再び胸に手を当てた。
禿げ頭のてっぺんを、恭しく私に向ける。
「ウィリアム・シェイクスピアと申します、ご令嬢」
「ど……どうも」
ご令嬢と言われても、どうしていいか分からない。
とりあえず、制服のスカートの端をつまんで爪先をちょいと立てた。
そこで初めて、太ももがちらっと見えたかと思って気になった。
でも、オッサン……じゃなくてシェイクスピアは、そこから目を背けている。
結構、面白い人だと思ったところで、時の老人が邪魔に入る。
「お互い何者か分かったところで、同じ望みをかなえてやるとしようか」
同じ望み?
シェイクスピアも怪訝そうな顔をする。
時の老人は、呆れたように言った。
「天地創造以来の、神が定めた節理を曲げるのに嬉しそうではないな。無念だと言ったではないか」
そんな言葉、使ったこともない。
私とシェイクスピアは、顔を見合わせた。
そんなこと言ったの? という具合に。
時の老人は、もったいぶった言い方で、物忘れの激しい無責任な私たちをたしなめる。
「500年の時を隔てて、同じ望みを口にしたではないか」
シェイクスピアの方を向いて言う。
「さきほど言うたな。私の人生が、こんな結末に、と」
禿げ頭が、素直に頷いた。
今度は、追及の矛先が私に向かう。
「言うたな。なんでこんなとこ入っちゃったんだろ、と」
そういえば、そんな気がする。
私が答えないでいるのを同意とみなしたのか、時の老人は話を続ける。
「だから、望みをかなえてやろうというのだ。お前たちの身体を入れ替えてな」
そこでうろたえたのは、シェイクスピアだった。
「待て、いかん、この身はともかく、このご令嬢は……」
時の老人はというと、それが愉快だったらしい。
知らん顔して、言い放った。
「そこまで言うなら、その娘の心だけは元の身体に置いてやろう。ひとつの身体で、その時が来るのを待つがいい」
私は私で、慌てた。
「ちょっと! 何が何だか分かんない。だいたい、名前が同じだっていうのも……」
どうでもいいことを気にしたおかげで、肝心なことが聞けなかった。
時の老人の声が遠ざかっていく。
「心配せずとも、放り出したりはせん。もうひとり、おぬしらと同じ思いを抱えた者の身体を借りて、見守ってはおるからな……」
目の前が明るくなる。
元の教室が戻ってくる。
でも、私の身体はもう、私の自由にはならなかった。