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思いがけない絶対の危機

「う~ん……」

 地区大会1週間前を迎えた日曜日、シェイクスピアはヒアリングと呼ばれる舞台監督会議の場で私の頭を抱えていた。

 会場となったのは、蒲生原高校だ。

 到着したときは、初めて見る調理学校の物珍しさに建物の中を見渡したものだった。

 敷地はそんなに広くない。最初に通されたのは2階建ての体育館の下の階で、そこにはあの照星高校の部員たちもいた。陵高校の部員たちが彼らと再会を喜び合いながら移動したのは、隣の大きな建物だった。

 4階まで上がるまで、どの階にも、教室と調理場らしい部屋がいくつも並んでいるのが見えた。大会に参加する学校の部員は、照明や音響効果、舞台装置といったそれぞれの仕事と会場スタッフ別の仕事に分かれて、それぞれの階に散っていった。

 私は、その中で受付を担当するスタッフの部屋にいた。会場で配るらしい四折本くらいの冊子の表紙を開いては、他の劇団の上演案内などを何枚も挟んでいくのが仕事である。

 呻く声が聞こえたのか、照星高校の部長が顔を覗き込んできた。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ……」

 答える私、つまりシェイクスピアは、上の空である。ついこの間から、気になって仕方がないことがあるのだった。

 顧問の姿である。


 まず、顔をまともに見たことがない。背中を向けていたり、うつむいていたり、たまに正面を向いても逆光で見えなかったりと、間の悪いことおびただしい。

 覚えているのは、あのバイオリンの音のような粘り気のある声だけだった。

「あの、もう終わりましたよ」

 上品な声で、再び我に返る。気が付かないうちに、手がありもしない冊子の山を探して、空中をふわふわ漂っていた。

 部屋中に笑い声がどっと響いたが、そこに悪意は全く感じられなかった。そこには、滑稽なことを見聞きしては素直に、正直に笑う、普通の人間の普通の声があった。

 それが52歳のシェイクスピアにはこの上なく好ましく思われたらしい。だが、照れ臭いというのも人間として当たり前の感情だろう。ここはごまかすことなく退散するのが、最も自然な行動であった。

 なにぶん、今は16歳そこそこの娘の姿なのだから。

「う~ん……確かに見たんだけど」

 長い廊下を歩きながら一人きりでつぶやいても、この姿でいるうちにクセになった少女の物言いが、つい勝手に私の口を突いて出るらしい。

「十二夜……十二夜なのよ」 

 シェイクスピアは顧問の姿が、初めて『十二夜』を上演したときに登場させた時の老人に似ているのが気になって仕方がないのだった。

「でも、舞台の上じゃなくて、別のどこか」

 それが思い出せないでいるうちに、ずらっと並べられた椅子で、部員たちが待機している大きな教室に出た。

 

 椅子に並んで座った陽花里と五十鈴がイスズが、頭を抱え込んでいた。その傍では、並木さんが天井を仰いで立ち尽くしている。

「どうしたんですか?」

「照明プランで、ダメが……出ちゃって」

 陽花里がリが溜息をついたところで、五十鈴がイスズがそれまで抑え込んでいたらしい苛立ちを露わにした。

「何でいきなりそういうこと言うかな……ヒアリング当日になって」

 その怒りの波動は、とても私の姿をしたシェイクスピアの手に負えるものではなかった。肌でそれを感じて、並木さんに目を遣る。

 うめき声と共に答えが返ってきた。

「舞台袖のボーダーライトさ……袖からの操作はやめてくれって」

「何で?」

 並木さんと五十鈴と陽花里が3人してかわるがわる、私もシェイクスピアも聞いたことのない専門用語を交えた、長い長い話を始める。

「だからね、プリセットフェーダーが……」

「コンピューターのメモリが……」

「ムービングライトが……」

 沙が理解したことを総合してみると、こういうことだった。

 会場は会場で、袖からの照明操作を予定していたらしい。上演校がそれを別の照明に使うと、予め設定しておいた操作ができなくなるというのだ。

「じゃあ、調光室で操作すれば……」

 単純な理屈だったが、陽花里はなぜか渋った。そこで五十鈴が割って入る。

「ほら、演出としては全員キャストってことで……」

 だが、並木さんはミキは首をかしげた。

「照明は、仕方ないんじゃないか? キャストやらなくても」

「いや、陽花里の気持ち考えたらね、せっかく……」

 その陽花里も、まあ、とうなずいた。

「やっぱり、稽古したし、もう3年だし……」

「それは分かるけど……」

 説得の言葉を失う並木にさんに、シェイクスピアもこの時代にこの年齢に達した若者が抱える事情を思い出したようだった。

 卒業。

 彼らにとっては、ひとつの人生の終わりが来るのだ。

 芝居には、必ず終わりがあるように。

 その最大の山場が、この夏の演劇大会なのだ。

 だが、その芝居も、客席から見えなければ意味がない。シェイクスピアの時代にはまだ、南向きの舞台で、太陽の光を浴びながらの上演ができた。だが、照明設備が整ったこの時代では、逆にそれが命取りになるというわけだ。

 陽花里は哀しげに微笑んだ。

「まあ……しょうがないかなあ……」

 いきりたったのは五十鈴である。

「ダメよ! ここまでやってきたんだから! なんとか知恵絞ろうよ!」

「でも……」

 困った顔をする陽花里に、並木さんも同調した。

「いや、陽花里が調光室入るって言ってるんだし……」

 だが、五十鈴は一歩も引くことなく、力説する。

「この芝居、1人欠けただけでも成立しないの! たとえセリフがなくたって!」

 その勢いに押されて、並木さんや陽花里はヒカリはおろか、シェイクスピアも私として頷かないではいられなかった。

 確かに、観客が台詞から思い描くイリュージョンを破壊するには、舞台を隅から隅まで一様に照らす作業灯に勝るものはない。そうでなければ、太陽の光のもとでやるしかないだろう。

 つまり……。

「打つ手はないということだ」

 誰が言ってるのかは知らないが、その通りだ。五十鈴が折れない限り、劇場の中では……。

「誰?」

 バイオリンの粘りつくような音にも似た声に、シェイクスピアはつい辺りを見渡した。私の頭の中にも浮かんだのは、あの「時の老人」である。

 灰色の衣をまとった、長い髭の、背の高い姿を探していると、五十鈴も並木さんも陽花里も、それにつられてキョロキョロしはじめる。

 だが、その眼はやがて、ある一点に向かって見上げられた。今度はシェイクスピアが向けた、私のまなざしの先を追う。

 そこにいたのは……。

「何やってる? ヒアリング終わったら帰れ」

 顧問だった。

 天井の明かりで、顔はやはり逆光になって見えない。だが、見下ろす眼に温かみのかけらもないのは、何となく感じられる。

 並木さんが、言葉を選び選び、事情を説明する。

「ですから、その、演出の希望としては全員キャストで……」

 なぜか五十鈴が、気まずそうに顧問から眼をそらす。それを見た陽花里が、意を決したように口を開いた。

「あの、なんとか袖での照明操作を……」

 返事は即答だった。

「ルールに則ってやりきるように」


 顧問は会議があるとかで、その場を立ち去った。沙たちは揃って、椅子にだらしなく座り込む。

 真っ先に情けない声を出したのは陽花里だった。

「も~、せっかくやる気になったのに~! 最初で最後のキャスト~!」

「しょうがないだろ、諦めろ」

 なだめる並木さんも半ば、投げやりになっていた。五十鈴はというと気まずそうな顔で、まだ目を背けている。

 演出がこだわらなければ済むことなのだが、沙はどうしてもそれを言い出すことができなかった。

 別に、五十鈴に気兼ねしたからではない。その気持ちと『ハムレット』の上演とのどちらを取るかと問われれば、シェイクスピアは作者としても役者としても、ためらうことなく自分の作品を舞台に上げるほうを選んだだろう。

 だが、今はそんなことを考える余裕もなかった。

 私もシェイクスピアも、身体が自分のものではないような気がしていたのだ。

 ぼんやりと気が遠くなって、どこか別の世界が見える。それは幼い頃を過ごした、ストラッドフォード・アポン・エイヴォンの街並みかとも思われた。

 冷たく光る川のほとり、教会、三角屋根の商家……。

 いや、シェイクスピアはニシンに当たって死ぬ瞬間にも、こんな光景を見たような気がした。 

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