プラマイゼロの幸と不幸
五十鈴にしても、難解なプランだということは分かっていた。
並木さんも、稽古のたびに心配そうに尋ねてくる。
「こんなんで……いいのか?」
その度に、五十鈴は断言する。
「これでいいの」
たぶん、気に食わないのは、その度に並木さんが傍らの私を見下ろすことだ。シェイクスピアはというと、無言で満面の笑顔を返す。それは結局、私だから、まるで、並木さんと恋人同士のように見えたことだろう。
「部内恋愛禁止だからね」
これで何度目かというくらいに釘を刺すと、シェイクスピアは五十鈴に真剣なまなざしを向けるのだった。
私……というかシェイクスピアであるところの翁沙には演出プランの意味することが伝わっているからだ。
今日も五十鈴のダメ出しが飛ぶが、嬉々としてついてくるのは私だけということになる。
「そこ! 波になるの遅い!」
「はい!」
デンマーク領内を行進するノルウェー王フォーティンブラスが、国を追われたハムレットと遭遇するシーンの後だった。
「そこ、もう1回!」
フォーティンブラスが去っても、行進は止まらない。歩行のパントマイムが延々と続いている。
ハムレット役の和泉はローゼンクランツとギルデンスターンを先にやり、復讐を決断できなかった自分とノルウェー王を引き比べて、己を鼓舞する。
《我が思いは血で染めてこそ、そうでなければ、何にも値しない》
そこには逞しい身体を持つハムレットがいた。だが、それでは納得できない五十鈴は手を叩いて芝居を止めた。
「OK! イメージ、十分伝わったわ、そのセリフで。あとは、別の芝居を工夫しながら演じてみて」
和泉の演技で、デンマークの平原は消えてなくなる。残ったのは、舞台上で起こっている出来事だけだ。
五十鈴は手を叩いた。
「OK! こうすれば面白かったね、新歓でも」
和泉が怪訝な顔をする。ブレヒト『三文オペラ』では、町を騒がせる悪党「短剣のマキス」を演じていたのだ。
「あなたを退治するために、みんな頑張ったでしょ?」
「俺じゃなくてマキス」
苦笑いする和泉に、やーい悪党と野次が飛ぶ。それをたしなめるように、五十鈴は説明した。
「その努力も連帯も、王様の恩赦で全てムダになった」
恩赦を告げる白馬の使者を演じた美浪が、ガッツポーズを取ってみせる。五十鈴も同じポーズを返して、本題に入った。
「新歓では観客みんな唖然としてたけど、あれはイリュージョンが消えて劇が終わったから」
そこで、比嘉と苗木がおずおずと手を挙げる。美浪が頷いてみせると、どちらともなく割台詞を口にした。
「つまり?」
「最初からイリュージョンを消しておけば?」
イスズは2人の質問に一言で答えた。
「世の中これでいいのかっていうテーマについて、観客はずっと考えたはずよ」
実を言うと、他に、この状況を正当化する方法はなかった。
部室は使えない。中にあるものも使えない。それなのに、大会は迫ってくる。
特に中間考査での惨敗の記憶が新しい今年度は、期末考査を前にして日程が詰まっていた。
スタッフからの転向組の稽古が熾烈を極めるのも仕方がない。
「はい! じゃあ、行進が波になるシーンから!」
手を叩くと、パントマイムの歩行は一瞬にして、全身を浮き沈みさせる波のマイムに変わる。
だが、稽古が進む間にも着々と進行していたことがあった。
並木さんが毎回、部員に呼びかけていることがある。
「はい、じゃあ、保護者のハンコもらってきたね!」
始まりと終わりに確認すると、ぽつ、ぽつと提出されるものがある。
ソバアレルギーに関する調査だった。
五十鈴は露骨に眉をひそめる。
「また大袈裟な……」
「しょうがないだろ、顧問が気にしてるんだから」
蒲生原高校の顧問からソバを振る舞うという連絡が入って、顧問は慌てた。並木さんを呼びつけて、勝手な約束をするなとの小言付きで、保護者に対するアレルギー調査の用紙を部員に配らせたのだ。
一同うんざりしているが、シェイクスピアはだけは私の身体で、初めてソバを口にしたせいか、やけにはしゃいでいる。
それも含めて、試験前の部活動停止期間までには、全ての準備が完了していた。
シェイクスピアは調子に乗って、こんなことを言い出した。
「ここまで来たら、部室開けてくれって言ってもいいんじゃないですか?」
五十鈴はドキっとしながらも、冷たく切り返す。
「ダメ」
何故だか分からないけど、そんなことで怒らなくても、と思うくらいムキになっていた。
試験前には、最初の通し稽古に入ることができた。
「はい、波のシーンから!」
五十鈴が手を叩いて私たちを波に変えると、舞台上は洋上の甲板となる。原作では描かれない、海賊との戦いが始まるのだ。
とりあえず、硬く巻いた新聞紙でチャンバラをやることになっている。なぜなら、ハムレットがそれを開けば、クローディアスからイングランド王に当てた手紙を発見することになるからだ。
「はい! エルシノア城!」
波が直立すると、その柱の間をクローディアスとレイアーティーズが歩き回って、ハムレット暗殺の密談を交わす。
そこへ伝えられるのは、オフィーリアの入水自殺である。
「はい! 墓地!」
柱たちは思い思いの姿勢でその場に座り、墓石となる。
その前を墓掘りとハムレットが行ったり来たりしているうちに、オフィーリアの葬儀が執り行われる。そこで復讐に燃えるレイアーティーズとの諍いが始まるが、いったんは引き分けられる。
「はい! 再びエルシノア城!」
墓石が再び立ち上がって柱となれば、そこはハムレットとホレイショーの密談の場である。
狂気を装ってきたハムレットは、親友に胸の内を語って決闘に臨む。
「はい! 決闘の間!」
柱は観客となって歓声を上げ、ハムレットとレイアーティーズの死闘が始まる。
錯誤と陰謀の果てに主要人物が全て死ぬと、観客たちは何事もなかったかのようにフォーティンブラスを迎える。
「はい、幕が下ります。1、2、3、4……」
大会の会場では、緞帳が完全に降りるまで14秒かかることになっている。
でも、そのときにはもう、私はいない。
「もう、いいんじゃありませんか? 部室開けてくれても」
長い議論の末、顧問は結論を保留した。
職員室から出てくると、そこには並木さんと五十鈴がいた。
シェイクスピアは私の顔を背けて、しっかり芝居をする。
「あの……えっと」
言い訳する間も与えず、並木さんが低い声で叱った。
「何で黙ってた」
「止められると思ったから……」
ちらっと横目で眺めると、並木さんの顔が、怒りで一瞬だけ歪む。だが、口から出た言葉は穏やかだった。
「ひとりで背負うな、沙」
そう言う並木さんの隣で、五十鈴はいたたまれない様子だった。何か、大きな隠し事をしているのは私だけでなく、シェイクスピアにもすぐに分かったらしい。
冷ややかに答えてみせる。
「じゃあ、先輩たち、何やったんですか? 顧問動かすために」
並木さんは押し黙った。口を真一文字に結んだその顔を見ながら、五十鈴も何一つ答えることができなかった。
私は、体操服の背中を向けて廊下を歩いていく。
「今日はもう、帰ります。明日から試験期間ですんで」
感情を抑えた声で言い捨てはしたが、シェイクスピアはちゃんと、後ろのふたりを気にしている。
曲がり角を過ぎると、廊下を駆け出す音が聞こえた。
「おい、五十鈴!」
並木さんに呼び止められて、足音が止まった。逃げるわけにもいかないのだろう。
少なくとも、今日だけは。
「そうですよね、そっとしといたほうがいいですよね」
答える五十鈴の声は、苦しそうだった。
並木さんもが、優しくなだめる。
「落ち着けよ」
私もシェイクスピアも、共に「翁沙」として、廊下の角からそっと眺める。
追い越していく並木さんの背中を見ながら、五十鈴はとぼとぼと歩きだしていた。




