演出がぶち上げる新たなプラン
私が体育館の外へ出ると、2つの校舎をつなぐ渡り廊下を行ったり来たりしている、五十鈴の姿はすぐに見つかった。
だが、なかなか捕まえることはできなかった。後者は4階建てで、渡り廊下は2階と3階にある。だが、私が2階に行っても3階に行っても、五十鈴に会うことはできなかった。
それでいて、1階に下りて辺りを見渡してみると、五十鈴はまだ渡り廊下の上にいる。
早い話が、私が2階に行けば3階に上がり、3階に上がれば2階に下りていただけでのことである。
誰もいない3階で、私……というかシェイクスピアは、渡り廊下のフェンスから、下に向かって呼びかけた。
「センパイ、そこ動かないでください、時間のムダなんで!」
「一言多いのよ、あなたは!」
返事があった辺りに下りていってみると、五十鈴はフェンスから身を乗り出していた。今にも飛び降りそうに見える。
これにはシェイクスピアも慌てた。
「ちょっと、やめてください!」
私の身体で飛びつくと、五十鈴はイスズは暴れた。
「離してよ!」
腕を振りほどこうとする力は意外に強い。
いや、私の身体が、五十鈴を抑えるには小さすぎるのだ。これでは、いかにシェイクスピア本人が52歳の男だとしても、本来の腕力は出せない。
取りすがるのが精一杯だった。
「早まらないでください!」
「その手、離しなさいよ!」
金切り声が上がるが、私としてもシェイクスピアとしても、聞くわけにはいかない。
「離しません!」
余計に力を込めると、柔らかい感触と共に悲鳴が上がった。
「変態!」
「え……?」
気が付いてみると、背中から回した手が五十鈴の豊かな胸を鷲掴みにしている。
シェイクスピアも、心ならずも働いた女性への狼藉にさすがに取り乱したが、そこは文豪の理性が働いた。
「ああ、これは失礼失礼」
一歩退いて、何事もなかったかのようにその場を取り繕う。踵を揃えて背筋を伸ばし、礼儀正しさと冷静さを装ってみせる。
「ふざけてんの?」
五十鈴はスズはまだ怒りが収まらないのか、ついと背中を向けて、再びフェンスにもたれた。
シェイクスピアは自分が女性の姿をしていることを思い出したのか、とっさにその隣に並ぶ。
「はい、ふざけてます」
五十鈴はズはそれ以上、何も言わなかった。同じ姿勢で開き直られて、責める言葉もなくなったらしい。
人間というのはそういうものだと、シェイクスピアは17世紀のイギリスで学び知っていたのだろう。
フェンスの端からは、なんとか顔を出すことができた。五十鈴が眺めているものを共に見ようとする。
「何見てるんですか?」
「あれ」
五十鈴が指差す先では、相模と1年生の舞台装置スタッフがグラウンドのトラックを走っている。
「暑くないんですかね」
「暑いに決まってるじゃない」
そこで五十鈴はズは、深いため息をついた。
私の口からシェイクスピアの素直な感想がつい、口を突いて出た。
「らしくありませんね、センパイ」
余計なことを言ったものだが、これはすんなりと通った。
「私はいつもこんなもんよ」
五十鈴の力ないつぶやきを、シェイクスピアは好ましく感じたらしい。
「全員キャストって、面白いと思いますよ」
「ありがとう」
社交辞令にも聞こえる返事だったが、シェイクスピアの方は、別にお愛想を言ったわけではない。
調理学校の「シラノ」を見たときは、心が熱くなったようだ。500年前にやりたかったのは、こういうのだったらしい。
本当はこの世のどこにもない、理屈抜きの愛と正義。
それを、舞台の上で100人斬りなどいうメチャクチャを通して、臆面もなくやってみせてくれたのだ。
かつて、「成り上がりのカラス」と呼ばれたシェイクスピアがそうだったように。
「シェイクスピア以前の劇って、どんなんだったか知ってますか?」
本人が尋ねてみると、五十鈴からは期待通りの答えが返ってきた。
「1つの事件が1つの場所で、一昼夜以内に解決する……いわゆる三一の法則」
すかさずシェイクスピアは答える。
「それを敢えて破って書きたいもの書いたシェイクスピアって、すごいと思うんです」
他人事のように言ってみせるが、実際、自分で凄いと思っているのだから照れることもない。
だが、五十鈴はそうでもなかった。
「そんな勇気もないんだなあ、私は」
そう言いながら見つめているのは、グラウンドの真ん中でヘバってしまった、舞台装置スタッフである。
「あいつら納得させられなかったんだもん」
「シェイクスピアだってそうだったんですよ、きっと」
実際、500年前のイングランドだって、稽古場は演出と役者を前にして激論を交わす修羅場だったのだろう。
だが、そんなことを五十鈴がズが知っているはずもない。
「見てきたような気休め言わないで」
せっかく外した急所を突いてしまったらしい。さすがに言葉を失ったシェイクスピアに、五十鈴ははまくしたてた。
「調子乗り過ぎじゃないの、あなた? 稽古中に制服着てるし、その割には部室で脱いじゃったりして、そりゃ、そこでオタオタしてた男子連中も、それ勘違いしてぶちのめした私たち女子も悪いんだけど、ちょっとは部員の自覚持ってよ。だいたい慎吾も甘いのよ、体操服でいいからちゃんと着替えろって言えばいいのに何か照れちゃって……」
そこで口ごもったのは、思わぬところで思わぬ名前を口にしてしまったからだろう。
シェイクスピアは肩をすくめて囁く。
「| unaccommodated 《着飾れない》man is no more but such a poor bare, forked animal as thou art. 」
シェイクスピアが言いたいのは、カッコつけて見栄張って当たり前、ということだ。
でも、五十鈴はまだしどろもどろだ。
「別に、慎吾の……部長の……並木のことなんか」
そこで、シェイクスピアは五十鈴自身の口から出た言葉を、ここぞとばかりに言い放った。
「部内恋愛禁止……じゃなかった?」
しばしの沈黙の後、五十鈴は何事もなかったかのようにグラウンドへ向かって叫んだ。
「相模! 舞台監督! 話があるの!」
グラウンドに寝転がった背の高い男子生徒が立ち上がって手を振った。
「降りてこい!」
そう叫び返すのを、五十鈴はまた大声で突っぱねる。
「暑いから嫌!」
「しょうがねえな!」
歩き出す相模にぞろぞろ付き従う男子生徒たちを見下ろしながら、五十鈴はくすっと笑った。
「そうだったのかもしれない、シェイクスピアも……そんな気がして、ね」
「でしょう?」
たとえ理屈で打ち消しても、言葉はイメージを醸し出さずにはいない。その言葉の力を、シェイクスピアは自分の手がけた戯曲で、よく知っていたらしい。
「それが、観客と共有する幻影なの」
五十鈴を連れ戻した私だけでなく、相模たちを連れて戻った五十鈴もまた、ステージでの歓迎を受けた。そこで深々と頭を下げた五十鈴が開口一番、全員を座らせて垂れた講釈の締めくくりが、これである。
役者の言葉と身体を通して生まれたイメージを、観客と共にすること。そのために取る方法が、部員全員をキャストとして舞台を埋め尽くすことだった。
「シーボルト学園で見たのは、これだったの。舞台にいる役者の存在感が、私たちの心の中のイメージを呼び起こしていたのよ」
だが、五十鈴と分かり合えたかに見えた相模はまだ、納得していなかった。
「じゃあ、衣装とか装置は意味がないのか?」
「本物じゃないっていう点で、意味があるわ」
間髪入れずに切り返されて、背の高い舞台監督は目を白黒させる。
そこで、私……シェイクスピアは立ち上がって、部員全員を見渡して告げた。
「本物じゃないから、信じる意味があるの」
おおっ、と歓声が上がったが、別に、説得力があったからじゃないだろう。なんかすごいこと言ってる、程度のことだ。だから、シェイクスピアは更に言葉を継ぐ。
「本物だったら、信じなくていいじゃない」
そのくらいは言う必要があった。
比嘉と苗木が、体操着姿の美波に頭を小突かれている。学校指定の半袖と短い下履きから晒した手足に見とれていたらしい。
そんな細かいゴタゴタには目もくれず、相模は気を取り直したように食い下がった。
「でも、全部、部室にあるから使えない……開けてもらえるまで」
それに答えを出したのは、演出の五十鈴だった。
「だから、装置は使わないの。必要最小限の小道具と衣装でイリュージョンを作る」
「それじゃイリュージョンぶち壊しだよ」
相模の反論に、全員が唸った。それは、私から見てもシェイクスピアから見ても一理あった。女子高生生としての生活を送ってみて、それが存外に忙しいことは身体で分かっている。
そこで部長の並木さんが、いちばん肝心なことを確認した。
「納得できなきゃ、キャストやらないっていうことか?」
ステージの上が静まり返る。バスケ部員の喚声と、ボールの音だけが響き渡った。
相模は舞台装置担当全員と目を合わせてから、おもむろに答えた。
「やるからには、納得したい」
ステージ上の歓声が、体育館を満たした。バスケ部員やバドミントン部員が練習の手を止めて、演劇部員たちに視線を向ける。
五十鈴だけが唸り続けていた。だが、演出は決して迷ってはいけない。シェイクスピアは『ハムレット』の作者としてひとつの演出プランを持っていたが、それを口にするわけにはいかなかった。
立ち上げてみせるのは、五十鈴の仕事だ。
代わりに口ずさんだのは、『十二夜』のクライマックスにある道化の歌だった。
|With hey, ho……《そんでヘイ、ホウ》
|For the rain it 《雨はいつだって》|raineth every day.《降ってるさ》
その意味は、五十鈴にだけは伝わったらしい。
「じゃあ、ぶち壊しましょう」
「え……?」
部員一同が、並木さんまでもが呆気にとられて目を見張った。五十鈴はイスズは暑いステージの上ながら、涼しい顔で言い放った。
「ぶち壊せるってことは、いったん生まれてるわけでしょ? イリュージョンは」




