五十鈴の賭け
「みんな、揃ったか!」
「お~!」
並木さんの中途半端な点呼に、部員たちが半ばヤケクソ気味で応じる。
五十鈴はどこか、もの哀しげだった。
この2週間、いろんなことがあったのだ。
先週までは中間考査、その前は勉強のために部活は休み。
それが終わっても、相変わらず稽古の許可を出さない顧問が、思い出したかのように週末になってから寄こしたのが、この蒲生原高校自主公演の案内だった。
休日、勝手に見に行く段には一切関知しない、ということらしい。だが、会場は市街地郊外のキャンプ場近くにある、交通アクセスのやたら不便なところだ。わざわざ往復1000円近いバス代を払ってまでやってくる部員なんか、たかが知れている。
……そう思っていたが、意外に来た。
中間考査で赤点を取って、まだ補充授業が解除されていない奈々枝と須藤まで来ている。しゃかりきになって動員をかけた並木の努力が実ったわけだ。
因みに私は、余裕で突破できた。
もっとも、シェイクスピアのことだから英語は簡単にできると思ってたけど、時代が違うと言葉も違うみたいだった。でも、好奇心の強いこのオッサンは、新しい時代の言葉を他の科目と同じように猛勉強したのだった。
だが、相模をはじめとした装置スタッフは、来ていなかった。
並木さんが私のそばに歩み寄る。
「仕方ないよね、できる見通しがないんじゃ」
「部長がそんなこと言ってどうするんですか」
もちろん、そう答えるのは私じゃなくてシェイクスピアだ。
そこへ、五十鈴が身体ごと割り込んでくる。
「気にしてやることないわ、勝手に出ていった連中のことなんか」
出番のない装置スタッフたちは、しびれを切らして臍を曲げてしまったのだった。
会場ホールの自動ドアのそばに掲げられた看板を見て、美浪が呻いた。
「シラノ・ド・ベルジュラック……」
つい4か月ほど前に予餞会で上演した、エドモン・ロスタンの名作だ。演出したのは五十鈴だが、気にするまいと思っていても、つい、構えてしまう。
蒲生原高校は、調理師養成学校でありながら、何度も全国大会で優勝した経験のある実力校なのだ。
席に着くと、緞帳のない狭い舞台には、最初からイントレを使った舞台装置が仕込んである。
やがて、上演が始まった。
シラノはパリでその名を知らぬ者のない剣豪で詩人で、そして長い鼻の持ち主である。
気に食わない役者は舞台から叩き出し、友人を待ち伏せから守るためなら、100人斬りの大立ち回りも厭わない。
幼馴染のロクサーヌに想いを寄せているが、彼女が美男子クリスチャンに口下手とも知らずに恋していると知ると、彼に暗がりから声を当ててやったりもする。
クリスチャンを戦で死なせてしまった後は、修道院に入ったロクサーヌを10年以上も見舞うが、つまらない恨みを買って嵌められた罠で致命傷を負う。
その最期は、ロクサーヌの腕の中で自慢の羽根帽子を胸に抱いた、安らかなものであった。
高い足場を駆け巡っての100人斬りは圧巻だった。陵高校の予餞会でロクサーヌを演じた美浪などは、横目で見ると悔しそうに苦笑いをしていた。
そこで、困ったことが起こった。
感動したシェイクスピアの興奮が、度を越してしまったのだった。
「私、シラノに会ってきます!」
言うなり、楽屋を探して、会場ホールから駆け出してしまったのである。
楽屋は原則として、関係者以外立入禁止なのに。
ここでトラブルなど起こした日には、冗談抜きで大会に出られなくなる恐れがある。
私が止められるものなら、止めたかったが、ひとつの身体をふたつの心で使っている身では、どうにもならない。
代わりに、舞台裏への扉の前で立ちはだかったのは五十鈴だった。
「沙! 待ちなさい」
「……先回り? どうやって?」
ツッコんだのは私じゃなくて、好奇心の強いシェイクスピアだ。
「花道からの抜け道があるのよ」
確かに、上演中にキャストを出入りさせるのには必要だろう。
納得はしたものの、シェイクスピアは口を尖らせて言う。
「何でダメなんですか?」
五十鈴は、文字通りの上から目線でたしなめた。
「いい? 芝居が終わった後の楽屋って、どうなってるか知ってる?」
「人と荷物がものすごく行ったり来たりして、邪魔になります。危ないです」
その辺りは、500年前のグローブ座も変わらないらしい。
私を無知な1年生と侮っていたらしい五十鈴は、完全に調子が狂ったようだった。
「だったら……」
続く言葉を探しているうちに、シェイクスピアはしゃあしゃあと言ってのける。
「その辺は分かってますし、うまくやります」
「そういう問題じゃなくってね……」
その先を口にする必要はなかった。扉が開いて、蒲生原高校の部員が顔を出したからである。
「今から部長、そっち行きますんで」
現れたのは、厨房よりも店内で接客している方が向いているのではないかと思うほどの美少年だった。
たぶん、これが恋敵の美青年、クリスチャンだろうと思ったけど、そうじゃない。
美女ロクサーヌを篭絡しようと目論む、破廉恥漢のド・ギッシュ伯爵だった。
舞台での役柄とは真逆の、穏やかな口調で挨拶する。
「すみません、これから学校帰って、夜まで練習なんです」
シェイクスピアが、私の声で息を呑んだ。
「これから……夜まで?」
「休日を有効に使いたいんです。平日は朝練と、学校が閉まるまでの1時間しかないので」
それで、これだけのことができるのが信じられなかった。
実力差を思い知らされたのか、五十鈴の口元が悔しそうに歪む。
代わりに、好奇心を剥き出しにした沙が尋ねた。
「どんな風に稽古してるんですか?」
優美なド・ギッシュ伯爵は、こともなげに答える。
「全員が役者修行を積んでる、それだけのことです。ところで……」
にっこりと微笑んでみせると、痛いところを突いてきた。
「スタッフの方は、いらしてないんですね」
もちろん、悪気はない。
でも黙ったままだった五十鈴も、さすがに豊かな胸の奥を抉られたようだった。
「どうして……」
「顔に、そう書いてあるんです……なんてね」
そう言うなり楽屋に戻ろうとした蒲生原高校の部長は、突然、艶然としたまなざしと共に振り向いた。
「そうだ……上演日のお昼は、僕らの手打ちソバなんてどうです?」
もちろん、こっちは好意によるものだ。
でも、五十鈴の心の中にはどす黒い感情が渦巻いていることだろう。
もっとも、シェイクスピアは気にもしない。
うつむいた五十鈴の顔を見上げて、怪訝そうにつぶやく。
「ソバ……?」
確かに、500年前のイギリスに手打ちソバはなかっただろう。
次の日。
昼休みに顧問から呼ばれた並木さんは、放課後には大ニュースを携えてステージ上に現れた。
「今日から稽古だ!」
部員たちから歓声が上がるが、部長の一言で、そのめでたさも中くらいのものとなった。
「ただし、部室は開かない」
何だよ、とステージに寝転がったのは相模と装置担当の1年生である。並木さんも全体の士気が下がるのは避けたかったのだろう、五十鈴に尋ねた。
「……何で?」
「こ……心当たりなんか」
明らかに、何かある。
それは、シェイクスピアも感づいていたらしい。
私の目で見つめる先には、壁の向こうの職員室がある。
たぶん、顧問と何かひと悶着あったのだ。
座っている者も寝ている者にも見つめられた五十鈴は、居住まいを正して、ステージ上の部員たちを見渡す。
誰もが張り詰めた表情で、返事を待っていた。
「提案があるの」
その言葉には、覚悟というよりも、諦めが感じられた。




