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緑の目をした獣

 稽古ができなくなったのは、シェイクスピアも面白くないらしい。

 無理もない。500年前に死んだはずが目覚めてみたら小娘の姿で、しかも、勝手も分からぬアジアの果てで暮らさなくてはならないのだから。

 唯一、心が安らぐのは、最初から勝手が分かっている稽古場だけだ。他所にも学校があると分かった以上、そこの稽古場を使わない手はない。

 でも、5月の連休に入ってしまっては、そうもいかない。

「さて、どうするか……」

 顧問を通さないと他校へは行けない。でも、ああ啖呵を切ってしまっては、顔も合わせられない。

 さらに、座長の並木さんも演出の五十鈴も顧問が苦手らしい。

 そんなわけで、シェイクスピアは私の姿で職員室前を素通りすることになった。

 ところが。

 そこで、声をかける者があった。

「もし、落ちましたよ」

 振り向くと、私と同じ目の高さに、鼻筋の通った少年が微笑んでいた。

 確か、レイアーティーズ役にしては小柄な笠置という奴だった。

 はい、と言われて差し出した手に載せたのは、薄く小さな金属製の栞だった。

 緑の目をした、可愛らしい怪物の姿をかたどったものだ。

 とりあえず、シェイクスピアは私の声で断ろうとする。

「いや、私は……」

 身に覚えのないものだった。私としても、貰う理由がない。

 でも、笠置はさっさと3年の教室へと、階段を上っていってしまった。

 私の身体が、身震いした。

 シェイクスピアも、思わず引いたらしい。

「十二夜……? まさか」

 それは、自分で書いたものだった。

 廊下の天井を仰いで、ため息と共に長々とつぶやく。

「深窓の令嬢オリヴィアが、男装の美少女ヴァイオラを見たその場で恋に落ち、彼女が忘れてもいない指輪を押し付ける……」


 そして、長い休みの最終日。

 県立陵高校演劇部は、私立照星高校の門をくぐることとなった。

 ここを紹介した顧問によれば、「星」という字を持つ私学はたいていカソリック系らしい。

 シェイクスピアは、それをたいそう面白がった。

 でも、笠置のそばで微笑しているのには、他の理由がある。

「ねえ、翁さん」

いさごでいいよ」

 賢そうな美少年を横目で見やる。

 後ろでは、並木さんと五十鈴が並んで歩いていた。

「残念だったわね、沙を笠置に横取りされて」

 五十鈴が皮肉を言うと、並木さんはぶすっと返す。

「部内恋愛禁止って言わないのか」

 シェイクスピアは、私の顔で振り向いてみせた。

「おかまいなく」

 本当に、その必要はなかった。

 どうやら、私……というかシェイクスピアは、笠置にひと目惚れされたらしいのだ。

 それ自体は悪い気はしないけど、笠置がどういう男かは、もう分かっている。

 野心と、劣等感の塊。 

 あとは、勝手知ったる男の心だ。

 逃げ回らないで自分から近づいて、手玉に取るのはシェイクスピアにとっては造作もなかった。

 ぶつくさ言う並木さんの声が聞こえる。

「成績良くてセリフ入れるの速いだけで、何でえこひいきするかな、顧問も」

 笠置は沙の口車に乗り、顧問に名門校の見学を申し出たのであった。

 シェイクスピアは私の声で、微かにつぶやく。

「It is the green-eyed monster which doth mock…… The meat it feeds on」

 ほとんど同時に、笠置が答えた。

「そいつは緑色の目をした獣で、与えらえた肉を……」

 五十鈴がそれを、冷ややかに遮った。

「弄ぶ……シェイクスピアの時代の、古い英語ね。『オセロー』の台詞よ。悪役イアーゴーの」

 それを聞いた笠置は不機嫌に、足を速めた。


 随所に聖母子像が掲げられた廊下を、制服姿の女子が急ぎ足でやってくる。

「はじめまして……照星高校の部長演劇部長、早坂はやさか詩乃しのです」

 そう言いながら、私たちの前に急ブレーキで立ち止まる。

「すみません、こんな休日に……実はウチ、平日は練習できないんです」

 上品なブレザーにスカートをつけた、照星高校の部長が折り目正しく頭を下げた。

「え……」

 呻いたのは、陵高校部長の並木さんだった。

「だって……去年はたしか全国大会に」

「ええ」

 こともなげに頷く上品な女子部長は、体育館へと背中を向けて歩き出した。

「こちらへどうぞ。急がせてすみません、2時間しかもらえなかったんで」

 遠ざかっていくその姿を見つめながら、笠置は乾いた笑い声を立てた。

「さすが……進学校」

 まるきりイアーゴーだ、とシェイクスピアは私の声でつぶやいたが、それは誰にも聞こえなかったようだ。

 

 体育館の中は、照星高校と陵高校の演劇部員しかいない。

 2時間しかないと言いながら、合同で行った基礎訓練と発声練習には30分を費やした。

 体操服の袖から覗く白い肌に汗の玉をいっぱいに浮かべた照星高校の部長、早坂さんは悔しそうに息をつく。

「こんなんじゃあ、全然足りないんですけどね」

 そう言うなり、それまでとは打って変わった厳しい声で鋭く指示を飛ばす。

「それじゃ、稽古始めます!」

 お願いします、と応じる声には、男子にも女子にも、限られた時間しか与えられない者の切羽詰まった響きがあった。

 舞台監督の指示で、演出とキャスト、スタッフが持ち場に付く。これこそまさに、舞台監督ステージ・マネージャーと呼ぶべき姿である。

 五十鈴も同じことを考えたのか、舞台監督の相模を小突いていた。

 演出が稽古の開始を告げる。

「ソフォクレス『オイディプス』、最初のシーンから始めます!」

「な……」

 シェイクスピアが、素っ頓狂な声を挙げて呻く。

 並木さんと笠置さんが、左右から私に顔を向けた。

イサゴ?」

 笠置は名前で呼ぶ。

オキナさん?」

 並木部長は姓をさんづけで呼ぶ。

 私を挟んだ男子ふたりが、気まずそうに顔を背けあう。

 因みに並木さんの目の前には、眉を寄せた五十鈴がいた。

 ぶすっとしてつぶやく。

「去年の文化祭でやったでしょ? 何びっくりしてんの」 


 シェイクスピアは私の目で、食い入るようにステージ上の稽古を見つめていた。

 降りしきる雨の音の中、古代ギリシャのテーバイ王、オイディプスが民草に語りかける。

「おお、テーバイよ、我が民よ……」

 才覚にあふれ、自信に満ちた王の姿がそこにある。

 今、彼はテーバイを未曽有の天変地異から救うことを約束した。

 かつて魔獣スフィンクスのかけた謎を解き、亡き先王の妻を娶って世継ぎも生した偉大な王に、恐れるものは何もないからだ。

 父を殺し、母との間に子を生した極悪人を探し出し、処刑することなど造作もないはずである。

 だが、彼は知らない。

 この災害をもたらした神の怒りが、両親を殺すまいと国を出た自分に向けられたものであることを。

 人間は、所詮、人間である。騙されやすく、欲望に弱く、それでいて自分は万能であると思っている。

 シェイクスピアが、微かにつぶやいた。


 …… ギリシア古典劇には、芝居を作る者が常に変えるべき、人間の原点がある。


 それは、かつて「成り上がりのカラス」と呼ばれたシェイクスピアも、同じことだったろう。

 たぶん、笠置も五十鈴も、そして並木さんも。

 

 自分の才覚で自分の罪を暴いたオイディプスが、自らの両眼を抉ってテーバイを去る。

 まだ衣装も装置もない。あるのは役者の身体だけだ。強いて言えばハコウマ(箱馬)と呼ばれる小さな木の箱を石や岩、椅子や階段に見立て、少しばかりの効果音を加えたくらいだろう。

 それなのに、体育館の中には古代ギリシアの風が吹き渡っているような気がした。さすがにコロス(群唱)までは再現できなかったようだが、これで充分だという気がした。

 部長の早坂さんが、体育館いっぱいに響き渡る声で告げる。

「撤収!」

 照星高校の部員たちが、一斉に片づけを始める。


 座長の見送りを受けながら体育館を出たところで、並木さんが笠置に尋ねた。

「どうだ? 納得できたか?」

「何が?」

 努めて平然としていようとする笠置は、妙に滑稽だった。

 シェイクスピアがつい噴き出したのも、そのせいだろう。

 五十鈴も、冷ややかな声でからかった。

「ほら、沙に笑われてるよ」

 笠置からのまなざしは、いかにも悔しそうだったけど、シェイクスピアは放っておくことにしたらしい。

 オイディプスは己の才覚と権力に溺れて破滅した。

 オセローは、嫉妬で自分を見失って、道を踏み外した。

 この、小柄なレイアーティーズが学ぶべきことは、そこだと言いたいんだろう。

 でも、笠置はやはり強がった。

「進学校だな……俺たちが去年、1か月かけた長いセリフがもう入ってるんだから」

 その目は緑色にギラついている。

 そういう問題じゃない。

 笠置から顔を背けたままのシェイクスピアも、たぶん、そう思っていることだろう。

 でも、それを口にする前に、並木さんが間髪入れずに言い返した。

「違うな」

 笠置は目を怒らせた。

「どこが?」

 五十鈴が言葉を継ぐ。

「ない時間を、芝居のために無駄なく使っているの。それだけ」

 味方になってほしいと哀願するかのような目で見るカサギが気色悪い。

 シェイクスピアは私の声で、冷ややかにこう告げてくれた。

Love's (愛は)not Time's(時の道化) fool.(ではない)

 芝居を愛する心を、自らの詩にかこつけて歌ったんだろう。

 でも、恋人をたしなめたように聞こえなくもない。

 並木さんはどうだったか知らないが、笠置を見る目がやっぱり緑色に燃えていたような気がする。

 そういえば、五十鈴がこっちを見つめてくる目も、そう見えなくもなかった。 

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