オセローの教え
次の日。
五十鈴は、ステージ上で円陣を組んで座った部員たちに、当面の演出プランを告げた。
装置なし。小道具・衣装は自宅から持ち運べる範囲内に留める。
照明・効果では公演前日のリハーサルで可能なことしかできない。
逆に言えば、20分しかないリハーサルで音量と音質、音の方向に至るまでの最終調整をしなくてはならない。
しかも、先王の幽霊が現れる古城から宮殿の中、荒野に船の上、墓場、決闘場と、場面転換が目まぐるしいのだ。
部員たちがうんざりするのは無理もない。
でも、そこで立ち上がったのは私……翁沙だった。
「できるところをやってみましょう」
もちろん、それを口にしたのは私の身体を使っているシェイクスピアだ。
五十鈴は、私の主張で事が動き始めるのが面白くないらしい。
でも、部長の並木さんが一も二もなく賛成してくれて、舞台監督の相模も乗り気になっては、感情的に拒むわけにもいかない。
「じゃあ、エルシノア城のシーンから」
ぱん、と手を叩くと、最初のシーンが始まった。
ひそひそと話し込んでいたマーセラスとホレイショーが、何かに気付く。
幽霊役が2人の後ろをゆっくりと歩きはじめると、マーセラスがうろたえ気味に客席を指差した。
《落ち着こう。無駄話はよせ。あれが……また出た、話しかけろ、学者だろうに》
ホレイショーは恐怖を振り払おうとでもするかのように、乱暴な口を利く。
《何者だ、亡き先王の戦装束で夜の静寂を掻き乱すとは! 天にかけて答えよ!》
その間に、幽霊は反対側の袖に去ってしまう。
マーセラスは呆然とつぶやく。
《行ってしまった……返事もしないぞ》
そう言っている間に、幽霊はまた登場する。
ホレイショーが吼えた。
《何か伝えたいことがあるなら言ってみろ!》
そこで雄鶏の声が高らかに響き渡る。
「こけ~こ~!」
見ている部員が大爆笑する中、私だけがきょろきょろする。
何がおかしいのか、シェイクスピアにだって分かりはしない。
しばらくして、やっと分かった。
奈々枝が、口の先に手を両手を当てている。
どうやら、某猫八的に声帯模写が特技らしい。。
そこで五十鈴が手を叩いて尋ねた。
「舞監! 何秒?」
舞台監督が、ストップウォッチを見ながら答える。
「30秒!」
どうやら、このシーンにかかる時間を測っているらしい。
五十鈴は言い切った。
「これから効果音はもっと増えます。最後のマーセラスとホレイショーの台詞から合わせましょう」
その場の全員が返事をする。
「はい!」
つられて声をだしていたシェイクスピアを、五十鈴が見つめる。
五十鈴は沙を見つめた。
「ありがとう」
「え……あ、いえ……」
私がおろおろしたのは、芝居だった。
ロリコンでもない限り、52歳のオッサンがこんな小娘のまっすぐな眼にうろたえるわけがない。
すぐに居住まいを正すと、しゃちほこ張って「どういたしまして」とだけ答えてみせる。
だが、スタッフの落ち込みはといえば、まだ著しかった。
無理もない。
稽古中のステージにやって来た背の高い舞台監督が、情けない声で足にすがりつく。
「部長~! 何やっていいか分かんないです」
舞台監督だけではなかった。装置を担当する部員は残らず、ステージの隅で七転八倒している。
稽古中の役者たちの中にも、集中を妨げられて苛立つ者がいるのは感じられた。
クローディアス役の比嘉やポローニアス役の苗木などはともかく、問題はオフィーリア役の美浪だ。
「そこ、うるさい!」
実力はあるが完璧主義者で、稽古場の空気がちょっとでも緩むと、ストレスが溜まるらしい。
ただ、それを口にしない役者としてのプライドを、シェイクスピアは感じていたようだ。
美浪の怒りを代弁して手を叩いたのは、演出の五十鈴だった。
「いい加減にして!」
ステージの隅に横たわっていた舞台装置スタッフが、電光に打たれたように跳ね起きた。
並木さんも立ち上がって五十鈴に頭を下げる。
「悪い! 止めなかった俺がいけないんだ」
五十鈴はしばし、次の言葉に迷っているようだったが、舞台監督を見据えると、淡々と叱りつけた。
「演技ってさ、いくつもの神経を使い分けるものなんだ」
装置担当の部員たちがうつむく。だが、そこに反省がないのは私にも何となく感じられた。
それに気が付いているのかいないのか、五十鈴は役者の気持ちを、静かな怒りと共に説いてみせる。
「役者としての自分と、登場人物としての自分。芝居の進行を意識しながら、その瞬間、その瞬間に集中しなくちゃいけないの。で、役者としては、自分が登場人物にふさわしい行動を取っているか、ちゃんと確かめてないといけないの。だから、すっごく神経尖らせてるのよ」
そこで舞台監督が、装置スタッフの面々に向かって、もっともらしく茶々を入れる。
「そうだぞ……比嘉や苗木ですら」
舞台の反対側で、クローディアスとポローニアスが手を振る。オフィーリアがまた、2人まとめて小突いた。
スタッフたちはうつむいたままである。並木はそこに、尋常でない何かを感じた。
ふと、気になったのは、まだ制服姿で部活に来ている沙だった。彼女ならどう言うか、気になった。ちらっと顔を眺めてみると、別段、困った顔もしていない。むしろ、面白そうに見物している感がある。
少し、気が楽になった。思い切って尋ねてみる。
「聞かせてほしい、隠さないで」
ひとりが、ぼそっと言った。
「じゃあ、キャストだけでこの劇つくってください」
ほかのひとりも、恨みがましく言った。
「だいたい、レイアーティーズだって来てないじゃないですか、不公平です」
五十鈴はそこで口を閉ざした。痛いところを突かれたらしい。
そこで並木さんが口を挟んだ。
「気持ちは分かった。でも、いつだって君たちがこの部に必要だってことは分かってほしい」
月並みな言葉だった。でも、こんなことしか言えないほど、まずいことになっているのだ。
舞台監督の相模も装置スタッフに呼びかける。
「まず、黙って座って稽古を見よう。やるべきことが見つかるかもしれない」
スタッフたちは、渋々とステージの上に腰を下ろした。
この場はとりあえず収まったわけだが、まだ、わだかまるものは残る。
それは他の部員たちだけでなく、私もシェイクスピアも同じことだった。
なぜ、レイアーティーズは来ない?
いや、そもそもレイアーティーズ役って、どんな人?
部活が終わって、並木さんが締めの挨拶をしても、装置スタッフの表情は暗かった。
それが気にはなったけど、とりあえず、その日は撤収するしかなかった。
でもシェイクスピアは、まるで私のしたいことが分かっているかのようだった。
ステージの隅で着替えて帰ろうとする並木さんを、体育館の外で待っていたのだ。
「一緒に歩いて、いいかな?」
並木さんが、息を呑む。こういう経験が、あんまりないらしい。
私としては別に、並木さんをどう思ってるとかそういうんじゃなくて、何か言葉をかけないではいられなかったっていう、ただそれだけのことだ。
部内恋愛禁止らしいし。それはたぶん冗談だろうけど、何となく分かる。
惚れた腫れたの、別れる別れないので、今日みたいなゴタゴタに拍車がかかってはたまったもんじゃないだろう。
そんなわけで、並木さんの返事は素っ気ない。
「歩くだけなら」
そう言って外靴に履き替えようとするのを置き去りにして、私はスリッパのまま校舎の廊下へと歩いていく。
シェイクスピアが何を考えているのか、自分の身体のことながら見当もつかない。
ましてや、それが並木さんに分かるはずもない。ただ、ふと振り向いたときに、大股にのし歩きながら追いすがってくるのが見えた。
とりあえず、体裁だけは取り繕おうとしていたのだろう。
そろそろ薄暗くなってきた廊下で、シェイクスピアは私の声でいきなり尋ねた。
「グローブ座って、知ってる?」
シェイクスピアが作品を上演していた劇場らしい。
それを知っているのか知らないのか、並木さんの返事は聞こえなかった。
それには構わず、私は自分ものではない言葉を語り続ける。
「やっぱり、いろんな人がいてね……大変だったわけよ、シェイクスピアも」
500年も前の話だが、いつでも内部の人間関係は難しかったことだろう。
「まあ、それはそうだろうな」
並木さんは、ようやく口を開いた。
そこでシェイクスピアは、私の声を滑り込ませる。
「でも、面白いことやりたいっていうのは、みんな同じだった」
答えがさらりと返ってくる。
「それが芝居作りだからな」
気持ちが通じ合った役者同士の台詞のかけあいのような、絶妙の間だった。
そこで私の口から、余裕たっぷりのシェイクスピアが笑いを洩らす。
「『オセロー』は知ってる?」
でも、別に並木さんを試しているわけでもなさそうだった。
実際、返事は早かった。
「勇敢なアフリカ人の老将軍が、ヨーロッパ人の幼妻の不倫を疑い、嫉妬のあまり殺害してしまう悲劇だね」
「あれだって、アフリカのムーア人を主人公にするのは反対もあったの」
こんな言い方をされると、まるで私が書いたみたいだ。
もっとも、その辺りは並木さんも気にしない。
「えーと、ヨーロッパではずっと悪役扱いだったから?」
500年後の今でも、顔を黒く塗るメーキャップは人種差別と取られる恐れがあるらしい。
その時代に生きる私の中に蘇った後、そんなことまで手当たり次第に調べたシェイクスピアは答えた。
「でも、誇り高い救国の英雄が、劣等感と嫉妬で自尊心を失って破滅していくのに、国王一座も観客も、みんな共感したのよ」
そこで振り向くと、並木さんは慌てて立ち止まった。
見開かれたその目に、私はどんなふうに映っているだろう。
でも、そんなことを考えている暇はなかった。
並木さんの後ろに、ひとり佇む何者かの影があったのだ。
「部内恋愛禁止」
五十鈴だった。並木さんはすぐさま弁解する。
「そ、そんなんじゃないって」
「声、裏返ってる」
冷ややかに指摘するが、その目は私を見下ろしている。
思わず引いたけど、シェイクスピアは動じた様子もない。
「一緒に来ませんか?」
五十鈴は眉を寄せた。
「どこへ?」
私は答えもせずに、明かりの煌々と灯った廊下を歩きだす。




