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時とトシを隔てた2人の想い

 小雨の降るストラッドフォード・アポン・エイヴォンで、死の間際のシェイクスピアは、苦しんでいた。

 1616年5月初頭、イングランド中部の、川に面した町である。

 ウィリアム・シェイクスピア52歳。

 死の床でみる窓の外には、雨に煙る教会の屋根で、十字架だけがこちらを見つめている。

 もうすぐ死ぬのは、分かっていた。そのつもりで、芝居の世界から引退したのだから仕方がない。

 だが、本当なら、引退するというのはやることをやり切ったということだ。あとは、死ぬまで悠々自適の生活を送るものである。

 故郷のストラッドフォード・アポン・エイヴォンで、いいことも悪いことも詰まった幼い頃の思い出にひたりながら、静かに最後の時を待つことにしていたのである。

 しかし、そんな思いを運命というやつは平気で裏切るものである。自分で多くの芝居にそれを書いていながら、わが身がその憂き目にあうとは考えてもみなかった。

 史劇『ジュリアス・シーザー』では、死ぬ日を宣告されていたシーザーも、非業の死を免れることはできなかった。

 悲劇『マクベス』でも、僭王マクベスは荒野の魔女の預言から逃れることができなかった。

 それでも。

 シーザーもブルータスもマクベスも、たったひとつの言葉で運命をはねのけることができたかもしれなかったのだ。

 それは、「もしも」。


 シーザーが、ブルータスに叛意があるかもしれないと考えていたら?

 マクベスが、本当に欲しいものが他にあるかもしれないと考えていたら?


 だが、ニシンに当たって死ぬ間際には、そんなことも考えていられなかった。


 もし、あのニシンが腐っていなかったら?

 

 そんなことを考えても仕方がない。ニシンは腐っていて、それに当たった自分は実に格好の悪い最期の日を迎えるのだ。

 ふと思いついて、『マクベス』の一節を口ずさんでみる。


 To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,

 《明日、また明日、さらに明日が》

 Creeps in this petty pace from day to day

 《日に日に間違いのない足取りで忍び寄ってくるのが分かる》

 To the last syllable of recorded time

 《年代記の最後の一節をめざして》

 

 そうは書いたものの、いざ自分がその立場になってみると、そうも言っていられない。

「私の人生が……こんな結末に……」

 自嘲するしかなかったが、そのとき、どこからか聞こえてくる歌声があった。

 それは、粘りつくようなバイオリンの音にも似ていた。

 

《おいらがちっちゃなガキンちょだったとき》

《ヘイ・ホウ、雨風吹いて》

《悪さはオモチャみたいなもんだった》

《だって雨はいつだって降るもんだしさ》


 喜劇『十二夜』の最後で道化が歌う曲だった。

 だが、目の前にいるのは白く長い髭の、手にカンテラを持った背の高い老人である。

「確かあれは、『冬物語』の……」

 かつて書いた喜劇の内容を思い出す前に、シェイクスピアの目の前からは、イングランドの雨煙は消えた。

 代わりに窓から飛び込んできたのは、ひとひらの桜の花びらと、東洋の瓦屋根の家々……。


「なんでこんなとこ入っちゃったんだろ」

 翁沙おきな いさごは眼鏡を拭きながら、県立陵みささぎ高校の放課後の教室で、ボブカットの頭を掻きながら、ひとりつぶやく。

 窓の外にはまだ桜が風に舞い散り、近くの民家や寺の瓦屋根の上を飛び過ぎていく。

 入学式が終わってオリエンテーションも済んで、ようやく授業も始まった。

 あんまり、レベルは高くない。最初は中学校の授業のおさらいでも仕方がないが、すでに知っていることを(もっと)もらしく教壇でまくし立てられても、退屈なだけだ。

 だからわざわざ「尤も」を頭に思い描いてみたりもする。

 食う寝ることには困らない普通の家に生まれ育って、とりあえず学校の勉強にはついてきて15歳になって、4月のアタマをもって16歳になって、こうして高校生にはなったわけだけど……。

 入った高校のレベルも普通だった。

 まだ顔と名前が一致していない、クラスの生徒たちはみんな部活動見学に行ってしまった。

 これも普通だ。

「ああ、退屈」

 このまま3年間ここにいて、何となく卒業するんだろうと考えていると、空しかった。

「ああ、無念」

 そんな芝居がかった、仰々しい言葉をつぶやいてみたりもする。

 しばらく天井を仰いでいると、どこからか、一斉に何か大声を出しているのが聞こえてきた。


 あめんぼ あかいな あいうえお……。


 入学直後の部活動紹介で、演劇部がやってみせた発声練習だ。

 北原白秋の『五十音』とかいうらしい。

 正直、見ている1年生はドン引きだった。そこで宣伝されたのが新歓公演『三文オペラ』(原作 ベルトルト・ブレヒト)だったが、別に興味もなかった。

 ただ、小柄だが妙に見栄えのいい3年生が目についただけだ。

 すでに目をつけていた女子もいるらしく、「あ、笠置センパイ」とか「誠センパイ」とかいう声も聞こえたが、男子目当てに部活に入る気もなかった。

 単調な発声練習を聞いていると、何だか眠くなってくる。

「帰ろ……」

 そうは思ったが、どうも眠気が覚めない。


 起きよう、眠い……でも起きよう……。


 そんなことを考えているときは、どこからかおかしな歌声が聞こえてくるものだ。

 たいていは意味がないものだが、これは外国語のようにも聞こえた。

  

    When that I was and a little tiny boy,

    With hey, ho, the wind and the rain,

    A foolish thing was but a toy,

    For the rain it raineth every day.


 合唱部が練習しているのだろうか。

 その歌がイメージさせるのか、目の前には三角屋根の建物が雨に煙っているのが見えた。

「ここ、どこだろ……」

 ヨーロッパの家並みのようだった。

 その家々が面した水路には小船が浮かび、その周りには小さな波紋がいくつも輪を描いていた。

「もし、私に別の人生があったら……」

 こんなところで生きてみたいと思う。

 そのときだった。

 どこからか、バイオリンのような響きの声が聞こえてきた。

「ならば、見せてやってもいい……」

「誰?」

 雨に煙る家々の間から、竹馬にでも乗っているのかとおもうほど背の高い老人が現れる。

「ただし、その心と身体、しばらく自由にはならん」

「それじゃあ意味が……」

 夢ともうつつともつかない中で、何とか受け答えだけはできるようだった。

 老人は事もなげに告げる。

「なに、あったことだけは忘れん。気を楽に構えておれ」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

 それ以上、反論はできなかった。沙の意識は、どこまでも遠のいていく。  

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