四 おにぎりと梅ジュース
床下の収納庫は、茶室の炉と同じくらいの寸法。そこまで大きくはない。
中には、壺。ガラス瓶。
生前、繭子が作っておいたものだ。
『自分は使わないから、あれは忘れていたんだろうな。全く手を付けていない』
覗き込む乃々香の横で荒神様が告げる。
どれもこれもが宝物だった。
「開けて、良いでしょうか……」
それとも、巽を呼んだ方が良いだろうか。荒神様と収納庫を交互に見ている姿はおかしかったようだった。笑いながら促される。どうぞ、と。
失礼します、とお辞儀をひとつ。
作った繭子への敬意と感謝を込めて。
一番始めに触れたのは、壺。茶色の、年季の入った焼き物だ。ゴト、と音を立てて壺の中が明らかになる。
中には濃い紫が敷き詰められていた。そして香る──。
「梅干し?」
『奥方が作った特製だ』
口の中が唾液でいっぱいになる、梅干しの香り。
『五月の末頃か。梅を買ってきて、梅仕事をしていた』
梅仕事。
祖母が元気な頃は、乃々香も手伝っていた。
青い梅を広げて、爪楊枝でへたを取る。果肉に傷をつけないように、丁寧に。
乃々香は梅シロップを。祖母は梅酒を。
初夏の行事だった。行わなくなったのは──。
思い出しかけて、やめた。
それよりも今は繭子が作った品々の活かし方。
巽は、米は自分で炊くようで、冷蔵庫には冷やご飯が入っていた。
「まずは、おにぎりですね!」
梅干しの壺を取り出す。食器棚からは皿と箸。梅干しを取り出す。食べやすいように、種は取り出して。そのまま捨ててしまうのはもったいないから、果肉の付いた種は乃々香が頬張る。
「すっぱ……」
『棚に鰹節のパックがあるから、それを出してみろ』
「鰹節?」
『鰹節と醤油。梅おかかを作る』
「梅干しだけの方が良いのではないでしょうか」
他の手を加えるよりも、繭子の作ったそのままの方が。
荒神様は肩を震わせて笑った。
『あれはな、そのままの梅干しは食べれないんだ。酸いのが苦手で』
だから、梅おかかにしてまろやかにする必要がある、という訳か。
梅肉はまな板の上で叩いて、深めのお皿に入れる。
鰹節は二つまみ。醤油は小さじで二杯ほど。
しっかり混ぜて、梅おかかの完成。
「大丈夫でしょうか……奥さまの梅おかかと、味が違うって言われるのでは」
『奥方の作った梅干しだから、大丈夫』
大丈夫。
そう言い切ってもらえると少しだけれど自信が湧く。大丈夫、きっと。
冷やご飯はレンジでチン。
手を湿らせて、塩をひとつまみ。二口くらいで食べられるごはんを取り、真ん中にへこみを作る。
そこに梅おかかを埋め込んで、優しく握る。
三角のおにぎりが二つ、三つと皿に並んだ。
壺を戻し、他の瓶を見てみる。瓶には、蓋にひとつひとつ説明書きの紙が貼り付けてあった。
《梅酒 焼酎》《梅酒 ブランデー》《梅酒 黒糖》
「梅酒の種類、たくさんありますねえ」
試しにブランデーの梅酒を取り上げてみる。蓋にかかっていた埃を払って。
中には深い琥珀色の液体。巽が飲むのだろうか。
『奥方が好きだったからな』
「奥さまが?」
意外な答えに目を丸くする。
『あれ用は、そっちだ』
そして指さしてあるのは、別の瓶。蓋に書かれているのは。
「梅シロップ」
『あれは下戸だからな』
「下戸……」
そうだったのか。そうなのか。
知らなかった巽の一面に、思わずと笑いが漏れる。
間違えて出さないように。
繭子用と、巽用と。時間を経て美味しくなる日を楽しみにしながら、繭子は仕込んでいたのだ。
梅酒は瓶の中にたっぷりと詰められている。仕込んだまま、飲むことはなく亡くなってしまった繭子。
『奥方は、夏になると梅シロップでジュースを作って差し入れをしていた』
夏の日。仕事をしている巽の息抜きにと、ジュースを作る繭子を想像する。
喜んでもらう顔を想像しながら。美味しくできた梅シロップをグラスに注いで。
『奥方のシロップがあったと出せば、飲んでくれる』
「巽先生も喜びますね」
『恐らく』
梅酒の瓶を仕舞って、シロップの瓶を取り出す。
中にはたっぷりとした琥珀色の液体。とろりと瓶の中で波打つ。
食材の並ぶ台の上に置いて、食器棚から金属製のレードルを取り出し、コップに注いだ。
保存食とはいっても、二年前。悪くなっていないかどうかの確認だ。
グラスの中でたゆたうシロップを一口。口の中に広がるのは、梅の酸味と甘み。そして追ってやってくる、頬の痛み。ゆっくりと時間をかけて熟成されていたおかげで、味は申し分なかった。グラスの底まで舐めたくなる。
「美味しい……」
そのまま蕩けてしまいそうだった。
これはきっと、かき氷にかけても美味しいだろう。後はバニラアイスにかけても。
あともう一口、と手を伸ばしたくなるところをぐっと我慢する。これは乃々香が楽しむものではなく、巽のために作られたもの。
『ジュースを飲むのは、このグラス』
荒神様が指さすのは、食器棚の隅にあるグラス。何の飾り気もないものだ。
『これに、レードルにすり切り一杯のシロップを入れる。氷は三つ。水はゆっくり注いで、半分より少し多めに──』
説明を受けながら、言われる通りに作業をする。
グラスの底で、シロップが水に混ざりきれずゆらゆらと揺れている。
「後は、混ぜて──」
『いや、混ぜない。混ぜないで、マドラーを入れておく』
「どうしてですか?」
『あれは、このゆらゆら揺れているシロップを見るのが好きなんだそうだ』
これを。
改めてグラスを見る。上は透明な水。それがグラデーションになり、底にたどり着くと琥珀色。
このグラデーションを自分で混ぜたい気持ちは、何となく分かる。
最初から混ぜるのも良いし、少し濃い味を楽しみたい時は途中まで飲んでから混ぜる。氷をつついて混ぜても良いし、マドラーで一気にかき混ぜてもいい。
ジュースはただ飲むだけでなく、飲むまでの行為も楽しめるエンターテイメントだ。
「よく覚えているんですね」
巽を、あれ呼ばわりしながらも、しっかりと覚えている荒神様は律儀というか、何というか。
『嫌というほど見せられたからな』
この台所で、繭子の家事を見守っていた、唯一の存在。
『それよりも、氷が溶ける前に持っていったほうがいい』
何かを思いつきかけた乃々香の思考が中断された。早く、と急かされるまま盆にグラスとコースターを乗せて台所を出た。
グラスの中で氷同士がぶつかり、カランと音を立てる。
台所と書斎は玄関ホールで繋がっている。
邪魔にならないようノックをし、静かに扉を開けた。
書斎は、本に溢れていた。天井まで届く本棚が二つ。びっしりと詰まっている。そして収まりきらない本は床に積み上げられていた。
扉に背を向ける形で置かれた机。机の上にはノートパソコン。パタパタと薄いキーボードを叩く音が聞こえる。
これは繭子が作った梅シロップで、台所で調味料を探していたら出てきたものだ──そんな説明をしようと思っていたが、巽の手を止めるのは憚られる。
だから帰り際に、梅シロップがあった旨を伝えた方が良さそうだ。
今は静かに邪魔をしないように、グラスを置いて辞すのが一番。
手の届く場所にコースターを置き、小さな汗をかき始めたグラスをそっと乗せた。
「冷たいものでも、どうぞ」
小さな声でそう伝える。
キーボードを叩いていた巽の手が止まり、グラスを見る。
手が止まったのなら、少しは話をして良いかもしれない。乃々香が作ったものではなく、繭子の手によるものだ、と。
それを知れば巽も飲んでくれるだろうから。
口を開きかけた乃々香だったが、それよりも先に。
巽が、乃々香の手首を掴んだ。決して逃すまいと、強い力で。
「繭、──……」
そして巽が呼んだのは、大切な女性の名前。
途中で飲み込んでしまったけれど。繭子、と。巽は確かにそう呼びかけようとした。繭子がグラスを持ってきたのだと、そう思ったのだ。
初めて見る、巽の別の顔。
乃々香に向けるものではなく、愛しい人に向けるもの。
愛しい人に、ずっと探していた人にようやく会えた。その喜びを隠しきれていない。
もっとも、一瞬で消えてしまったけれど。
眼鏡の奥の瞳は、いつもの遠縁の娘に向けるものになる。穏やかな声で、少しばつが悪そうに謝罪をする。
「ああ……ごめん、ののちゃん」
「いえ、大丈夫です」
「繭子もこうして作っていてくれたから……」
慌てて掴んでいた手首を離し、弁解を重ねる。
「いえ、邪魔をしてすみません」
集中しているところに、突然。
ぺこりと頭を下げて、書斎を出た。
掴まれた腕が、まだ痛い。
『どうだ、喜んでいたか』
台所に戻ると、書斎でのことを訊ねられる。
荒神様も手助けしたのだから、知りたいのは当然のこと。
「はい……喜んで、もらえました、多分」
繭子の姿を重ねる程だったのだから、喜んでくれたと思う。
『それは良かった。……もっとも、それで何でも食べるようになるかは別だが』
台の上には、梅シロップの瓶と乃々香が買ってきた食材たち。これらはどうしたって今日のうちには片付けられそうにない。
何より。
『どうした、お嬢さん』
頭が茹だってしまったように、何も考えられない。
「何でも──」
何でもない。何でもない、こんなこと。
でも。
「あの、荒神様」
『どうした?』
「今日、は、帰ります。食材は冷蔵庫に入れておくので、えっと……いえ、その」
荒神様は見ているだけ。食材はどうすることもできないのだけれど。
壺を収納庫に仕舞って、棚をもとに戻す。食材は何も考えないまま冷蔵庫に全て突っ込んだ。
食堂に置きっぱなしになっていた、紅茶を飲んだカップを洗う。
その一連の作業中、何も考えなかった。考えられなかった。
「今日は、ありがとうございました」
『お嬢さん、気を付けて帰るんだぞ』
深々と頭を下げて台所を辞す。
黙って帰るのはマナー違反。玄関ホールで呼吸を整えて、書斎の扉を叩く。
返事を待つより先に、扉に向かって挨拶をした。
「巽先生、すみません。今日は急用を思い出したので、帰らせてください。おにぎりだけ、作りました」
そう言い残して足早に花野井家を後にする。
傾きはじめた夏の日差しに追い立てられるようにして、緩やかな坂を駆け下りた。