表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

四 おにぎりと梅ジュース

 床下の収納庫は、茶室の炉と同じくらいの寸法。そこまで大きくはない。

 中には、壺。ガラス瓶。

 生前、繭子が作っておいたものだ。

『自分は使わないから、()()は忘れていたんだろうな。全く手を付けていない』

 覗き込む乃々香の横で荒神様が告げる。

 どれもこれもが宝物だった。

「開けて、良いでしょうか……」

 それとも、巽を呼んだ方が良いだろうか。荒神様と収納庫を交互に見ている姿はおかしかったようだった。笑いながら促される。どうぞ、と。

 失礼します、とお辞儀をひとつ。

 作った繭子への敬意と感謝を込めて。

 一番始めに触れたのは、壺。茶色の、年季の入った焼き物だ。ゴト、と音を立てて壺の中が明らかになる。

 中には濃い紫が敷き詰められていた。そして香る──。

「梅干し?」

『奥方が作った特製だ』

 口の中が唾液でいっぱいになる、梅干しの香り。

『五月の末頃か。梅を買ってきて、梅仕事をしていた』

 梅仕事。

 祖母が元気な頃は、乃々香も手伝っていた。

 青い梅を広げて、爪楊枝でへたを取る。果肉に傷をつけないように、丁寧に。

 乃々香は梅シロップを。祖母は梅酒を。

 初夏の行事だった。行わなくなったのは──。

 思い出しかけて、やめた。

 それよりも今は繭子が作った品々の活かし方。


 巽は、米は自分で炊くようで、冷蔵庫には冷やご飯が入っていた。

「まずは、おにぎりですね!」

 梅干しの壺を取り出す。食器棚からは皿と箸。梅干しを取り出す。食べやすいように、種は取り出して。そのまま捨ててしまうのはもったいないから、果肉の付いた種は乃々香が頬張る。

「すっぱ……」

『棚に鰹節のパックがあるから、それを出してみろ』

「鰹節?」

『鰹節と醤油。梅おかかを作る』

「梅干しだけの方が良いのではないでしょうか」

 他の手を加えるよりも、繭子の作ったそのままの方が。

 荒神様は肩を震わせて笑った。

()()はな、そのままの梅干しは食べれないんだ。酸いのが苦手で』

 だから、梅おかかにしてまろやかにする必要がある、という訳か。


 梅肉はまな板の上で叩いて、深めのお皿に入れる。

 鰹節は二つまみ。醤油は小さじで二杯ほど。

 しっかり混ぜて、梅おかかの完成。

「大丈夫でしょうか……奥さまの梅おかかと、味が違うって言われるのでは」

『奥方の作った梅干しだから、大丈夫』

 大丈夫。

 そう言い切ってもらえると少しだけれど自信が湧く。大丈夫、きっと。

 冷やご飯はレンジでチン。

 手を湿らせて、塩をひとつまみ。二口くらいで食べられるごはんを取り、真ん中にへこみを作る。

 そこに梅おかかを埋め込んで、優しく握る。

 三角のおにぎりが二つ、三つと皿に並んだ。


 壺を戻し、他の瓶を見てみる。瓶には、蓋にひとつひとつ説明書きの紙が貼り付けてあった。

 《梅酒 焼酎》《梅酒 ブランデー》《梅酒 黒糖》

「梅酒の種類、たくさんありますねえ」

 試しにブランデーの梅酒を取り上げてみる。蓋にかかっていた埃を払って。

 中には深い琥珀色の液体。巽が飲むのだろうか。

『奥方が好きだったからな』

「奥さまが?」

 意外な答えに目を丸くする。

()()用は、そっちだ』

 そして指さしてあるのは、別の瓶。蓋に書かれているのは。

「梅シロップ」

()()は下戸だからな』

「下戸……」

 そうだったのか。そうなのか。

 知らなかった巽の一面に、思わずと笑いが漏れる。

 間違えて出さないように。

 繭子用と、巽用と。時間を経て美味しくなる日を楽しみにしながら、繭子は仕込んでいたのだ。

 梅酒は瓶の中にたっぷりと詰められている。仕込んだまま、飲むことはなく亡くなってしまった繭子。

『奥方は、夏になると梅シロップでジュースを作って差し入れをしていた』

 夏の日。仕事をしている巽の息抜きにと、ジュースを作る繭子を想像する。

 喜んでもらう顔を想像しながら。美味しくできた梅シロップをグラスに注いで。

『奥方のシロップがあったと出せば、飲んでくれる』

「巽先生も喜びますね」

『恐らく』

 梅酒の瓶を仕舞って、シロップの瓶を取り出す。

 中にはたっぷりとした琥珀色の液体。とろりと瓶の中で波打つ。

 食材の並ぶ台の上に置いて、食器棚から金属製のレードルを取り出し、コップに注いだ。

 保存食とはいっても、二年前。悪くなっていないかどうかの確認だ。

 グラスの中でたゆたうシロップを一口。口の中に広がるのは、梅の酸味と甘み。そして追ってやってくる、頬の痛み。ゆっくりと時間をかけて熟成されていたおかげで、味は申し分なかった。グラスの底まで舐めたくなる。

「美味しい……」

 そのまま蕩けてしまいそうだった。

 これはきっと、かき氷にかけても美味しいだろう。後はバニラアイスにかけても。

 あともう一口、と手を伸ばしたくなるところをぐっと我慢する。これは乃々香が楽しむものではなく、巽のために作られたもの。

『ジュースを飲むのは、このグラス』

 荒神様が指さすのは、食器棚の隅にあるグラス。何の飾り気もないものだ。

『これに、レードルにすり切り一杯のシロップを入れる。氷は三つ。水はゆっくり注いで、半分より少し多めに──』

 説明を受けながら、言われる通りに作業をする。

 グラスの底で、シロップが水に混ざりきれずゆらゆらと揺れている。

「後は、混ぜて──」

『いや、混ぜない。混ぜないで、マドラーを入れておく』

「どうしてですか?」

()()は、このゆらゆら揺れているシロップを見るのが好きなんだそうだ』

 これを。

 改めてグラスを見る。上は透明な水。それがグラデーションになり、底にたどり着くと琥珀色。

 このグラデーションを自分で混ぜたい気持ちは、何となく分かる。

 最初から混ぜるのも良いし、少し濃い味を楽しみたい時は途中まで飲んでから混ぜる。氷をつついて混ぜても良いし、マドラーで一気にかき混ぜてもいい。

 ジュースはただ飲むだけでなく、飲むまでの行為も楽しめるエンターテイメントだ。

「よく覚えているんですね」

 巽を、()()呼ばわりしながらも、しっかりと覚えている荒神様は律儀というか、何というか。

『嫌というほど見せられたからな』

 この台所で、繭子の家事を見守っていた、唯一の存在。

『それよりも、氷が溶ける前に持っていったほうがいい』

 何かを思いつきかけた乃々香の思考が中断された。早く、と急かされるまま盆にグラスとコースターを乗せて台所を出た。

 グラスの中で氷同士がぶつかり、カランと音を立てる。


 台所と書斎は玄関ホールで繋がっている。

 邪魔にならないようノックをし、静かに扉を開けた。

 書斎は、本に溢れていた。天井まで届く本棚が二つ。びっしりと詰まっている。そして収まりきらない本は床に積み上げられていた。

 扉に背を向ける形で置かれた机。机の上にはノートパソコン。パタパタと薄いキーボードを叩く音が聞こえる。

 これは繭子が作った梅シロップで、台所で調味料を探していたら出てきたものだ──そんな説明をしようと思っていたが、巽の手を止めるのは憚られる。

 だから帰り際に、梅シロップがあった旨を伝えた方が良さそうだ。

 今は静かに邪魔をしないように、グラスを置いて辞すのが一番。

 手の届く場所にコースターを置き、小さな汗をかき始めたグラスをそっと乗せた。

「冷たいものでも、どうぞ」

 小さな声でそう伝える。

 キーボードを叩いていた巽の手が止まり、グラスを見る。

 手が止まったのなら、少しは話をして良いかもしれない。乃々香が作ったものではなく、繭子の手によるものだ、と。

 それを知れば巽も飲んでくれるだろうから。

 口を開きかけた乃々香だったが、それよりも先に。

 巽が、乃々香の手首を掴んだ。決して逃すまいと、強い力で。


「繭、──……」


 そして巽が呼んだのは、大切な女性の名前。

 途中で飲み込んでしまったけれど。繭子、と。巽は確かにそう呼びかけようとした。繭子がグラスを持ってきたのだと、そう思ったのだ。

 初めて見る、巽の別の顔。

 乃々香に向けるものではなく、愛しい人に向けるもの。

 愛しい人に、ずっと探していた人にようやく会えた。その喜びを隠しきれていない。

 もっとも、一瞬で消えてしまったけれど。

 眼鏡の奥の瞳は、いつもの遠縁の娘に向けるものになる。穏やかな声で、少しばつが悪そうに謝罪をする。

「ああ……ごめん、ののちゃん」

「いえ、大丈夫です」

「繭子もこうして作っていてくれたから……」

 慌てて掴んでいた手首を離し、弁解を重ねる。

「いえ、邪魔をしてすみません」

 集中しているところに、突然。

 ぺこりと頭を下げて、書斎を出た。

 掴まれた腕が、まだ痛い。


『どうだ、喜んでいたか』

 台所に戻ると、書斎でのことを訊ねられる。

 荒神様も手助けしたのだから、知りたいのは当然のこと。

「はい……喜んで、もらえました、多分」

 繭子の姿を重ねる程だったのだから、喜んでくれたと思う。

『それは良かった。……もっとも、それで何でも食べるようになるかは別だが』

 台の上には、梅シロップの瓶と乃々香が買ってきた食材たち。これらはどうしたって今日のうちには片付けられそうにない。

 何より。

『どうした、お嬢さん』

 頭が茹だってしまったように、何も考えられない。

「何でも──」

 何でもない。何でもない、こんなこと。

 でも。

「あの、荒神様」

『どうした?』

「今日、は、帰ります。食材は冷蔵庫に入れておくので、えっと……いえ、その」

 荒神様は見ているだけ。食材はどうすることもできないのだけれど。

 壺を収納庫に仕舞って、棚をもとに戻す。食材は何も考えないまま冷蔵庫に全て突っ込んだ。

 食堂に置きっぱなしになっていた、紅茶を飲んだカップを洗う。

 その一連の作業中、何も考えなかった。考えられなかった。

「今日は、ありがとうございました」

『お嬢さん、気を付けて帰るんだぞ』

 深々と頭を下げて台所を辞す。

 黙って帰るのはマナー違反。玄関ホールで呼吸を整えて、書斎の扉を叩く。

 返事を待つより先に、扉に向かって挨拶をした。

「巽先生、すみません。今日は急用を思い出したので、帰らせてください。おにぎりだけ、作りました」

 そう言い残して足早に花野井家を後にする。

 傾きはじめた夏の日差しに追い立てられるようにして、緩やかな坂を駆け下りた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ