三 おすそ分け
わざわざ家事代行サービスを利用して料理を作ってもらうのに、それを食べない。
台の上に置いた食材を見る。これらも、調理をしたところで巽の口には入らず役目を終えていく運命なのだ。
ふと、考える。
食べられなかった料理はどうなったのだろう。
タッパーに入れて冷蔵庫に入れていても、いつか賞味期限は訪れる。
食べられなくなったものの行く末は。
考えたくはないが、それしか道はない。
想像していると辛くなってきて、顔を押さえてうつむく。
「あまり、聞きたくはないのですが……」
『どうした』
「……食べられなかった料理は、捨てられたんですか?」
いろいろな人の思いが詰まった料理。それが食べられずにゴミ箱へ行き着いてしまうのか。
聞きたいような、聞きたくないような。
乃々香の怯えはしっかりと伝わっていたようだった。
『大丈夫、自分が食べないだけで捨てはしていない』
「本当ですか?」
伏せていた顔を上げて荒神様を見た。その評定がおかしかったようで、笑われる。
『嘘をついてどうする』
無駄になった食材はないのだ。それだけは、良かった。
食べなかった料理は、近所に配るのだという。多めに作ってしまったから、といって。
それはそれで良いのだけれど。
「でしたら、何を食べているんですか?」
まさか霞を食べている訳でもあるまい。仙人ではないのだから。
それに対する回答は簡単なものだった。
『店で買ってきた惣菜だ』
「そればかりを?」
『そればかりを』
何も食べなければ死んでしまうのだから、そうなるだろうという答えではある。
作ってもらったものには手を付けず、わざわざ惣菜を買って食べる。その矛盾している行動に意味があるのか。
『だから、わたしはあれが好きになれない』
首をひねる乃々香に、荒神様はきっぱりとそう言い放った。
台所の神様だ。自分の守る場所で作られたものを粗末にされたのでは、好きになれなくても仕方がない。
仕方がない、けれど。
「……でも、出ていかなかったんですね」
乃々香の家の荒神様は、気付いたら居なくなっていた。
けれど、この花野井家の荒神様は今もこうして台所を守っている。お供えがされなくなっても、姿を消していただけで留まっていた。好きにはなれなくても、気になっているのだ。
そこは痛いところだったのか、荒神様は少し慌てた様子返す。
『恩があるからだ。あれの妻は、ここを大切に使っていた。だから──最期まで見守ってやるのも、やぶさかではないと──』
ただ、どうしても言い訳にしか聞こえないのだけれど。
さぞ繭子は大切に使っていたのだろう。料理を楽しく作っていたのだろう。
だから、荒神様も繭子が愛した巽が気になって、こうして留まっている。
「奥さまのこと、お好きだったんですねえ」
あの、昔見た幸せそうな光景を思い出し、深く考えもせず言う。
そう、深く考えていなかった。乃々香は。
それに対する荒神様の返事はえらく真面目なもの。
『誤解をされては困る。わたしは他人の嫁御には手を出さない』
そんな意味で言ったつもりはなかったけれど。
思いもしない反応に、笑いを堪えるのは難しかった。なぜ乃々香が笑っているのか、荒神様は分かっていなかった。ただ不思議そうに、そして不本意そうに眉を寄せるばかり。
それはそれで、良いとして。
「結局、いくら作っても食べては貰えないんですねえ……」
何日かに分けて食べられそうなものを、乃々香なりにあれこれ考えたのに。
どこか淋しげな巽を元気付けたいと思ったばかりなのに。
いや、これは好意の押しつけでしかない。
『害がなさそうに見えて、あれは面倒な男だよ』
確かに、面倒。
何でも食べると言いながら、食べない。
惣菜は食べるのに、家にあるものは食べない。
「昔から、惣菜ばかり食べていた……訳では」
繭子が居た頃から。訊ねかけて、違和感に気付く。繭子は楽しく台所で料理を作っていたようだったのに。
『惣菜を食べるようになったのは、奥方が亡くなってからだ』
回答は、思ったとおり。
繭子が作ったものは食べていた。
言い換えると。
繭子が作っていないものは食べない。
けれど惣菜は食べていた。お腹が空くから。それはただの作業として。食べることを楽しむ訳ではなく。
「……分かる、気がします」
ぽつりとこぼれた呟きに、荒神様は眉を寄せる。
『分かる?』
ほぼ無意識だった。説明するつもりもない、何となくぼんやりと、もしかすると分かったような気になっているだけかもしれない気持ち。
荒神様が発した言葉は最後が上がっていたから、問いかけ。
何が分かるのか、何を分かったのか。
「あ、いえ、その、私が勝手に分かったつもりになっているだけですが」
『うん』
先を促す声は優しい。ひとつの意見として聞いてくれる。そんなはずはない、と頭ごなしの否定はされない。
だから、臆することなく伝えられた。
「先生、奥さまの味を忘れていくのが怖いのかもしれません」
乃々香も味わった不安。
毎日の食事の中から消えていく祖母の味が怖かった。
習っていたけれど、やっぱり違う。目分量の砂糖。おたまに掬って溶いた味噌。鍋の上からひと回しで入れた醤油。
同じようにしているけれど、同じ味にならない。
調味料は変えていないのに、何かが違う。
生活の中で消えていく、大切な人の影。
「買ってきたお惣菜は、別の場所で作られたものだから……最初から味が違うと分かっているから、割り切れます」
だけど。
家で作ったものが違う味だと受け入れられない。
乃々香がだめにした祖母のぬか床。
あの後、米ぬかを買って作ってみたけれど、まだ若いぬか床は祖母のものには程遠い。祖母の味がひとつひとつ、そうやって消えていく。
けれど、段々と慣れてくる。
慣れなければ、生きていけないから。
乃々香は生きているから。食べなければいけないから。
「多分、先生も分かってはいると思います。頭では」
料理に色んな味があるように、色んな人がいる。
すぐに適応できる人。なかなか馴染めない人。新しく道を切り開く人。
乃々香は折り合いをつけながら着地点を見つけた。
巽は、それができない人だ。それができずに、この二年を過ごしてきた。妻の思い出が詰まった家で。
神様にとっては些細なことと映るだろうか。
馬鹿馬鹿しい、飢えてしまえ、と切り捨てるだろうか。
けれど。
『そうだな』
荒神様は否定せず、そう言った。
『その気持は──分かる、気がする』
「分かりますか!」
言葉足らずで拙い説明だったけれど、少しでも伝わったことが嬉しい。
『ただ』
はしゃぐ乃々香に強い口調で釘を差す。
『せっかく作ってもらったものを食べないことは許せない』
それはそれ。代行サービスで派遣された者も、巽のためにと作ったのだ。
はい、と乃々香は頷く。
少しの間の後で彼は口を開いた。
『奥方は、特別な料理を作っていた訳ではないんだ』
ここで全てを見守っていた荒神様は静かに語る。
『忙しい日は、適当に余り物で作った野菜炒め。店に売っている、何々の素、といったものも使っていたよ』
「でも、どこかが違うんでしょうね」
『端から違うと頭で受け入れてない部分もあるのだろうが』
違うと思って食べるから、違う味だと感じる。
繭子が作ったものではない。その先入観がさらに味を変えているのだ。
『奥方を亡くして、あれは紅茶を飲む機会が増えた』
紅茶を。
これだけは、繭子からしっかり教わっていたんだ──。
そう言った巽はどんな表情をしていただろう。
毎朝。息抜きの時。
紅茶を飲む度に、繭子の味を確認していたのだ。
これだけは、彼女から直接教えてもらっていたから。そして同時に悔やんでいたのかもしれない。もっと教えてもらっていたら、と。
これはどうすれば良いだろう。
少しでも近い味を再現できたなら、少しは。
例えば。
「奥さま、ネットのレシピサイトにレシピを投稿する趣味があった、とか」
『知らないな』
「近所の子を集めて料理教室を……」
『そういうことは全く』
そう都合よく行くわけもない。
『奥方は、自分をあれの仕事の相棒のように考えていた』
「相棒?」
『衣、食、住。それらを快適にして、良い仕事ができる。自分は常に環境を整えるのが仕事、あれは才能を活かすのが仕事、と』
環境を整えるのが、仕事。
花野井巽の作品は、彼一人で作られたものではないのだ。
繭子という職人がいてこそ、巽は充分に才能を発揮できた。
そんな彼女を亡くしたのだ。
「……私じゃどうにもできない……」
思わず頭を抱える。
二度、来ただけの乃々香ではどうしようもない。
繭子の作ったものが残っていたら良いのだけれど。
冷凍食品のように。
あるはずがないと思いながら、冷凍庫を開ける。中には氷、保冷剤、冷凍の食材、魚、肉。魚や肉はいつから入っているのだろう。繭子が入れたきりだろうか。冷凍焼けしてしまうのに。
『何か探しているのか?』
「冷食みたいに、奥さまの作ったものが残ってたら良いなと思ったんですけれど」
そんな都合のいいことがあるはずもない。
それに、あったら巽が食べてしまっているだろうに。
『お嬢さん、お嬢さん』
「何でしょう」
『床の、ほら。その棚を退けてみろ』
「棚を?」
荒神様が指すのは、台所の隅に置かれた棚。退かしてみると、そこには四角く区切られた──床下収納庫。
『そこは奥方の秘密の場所だ』
「そんな……良いんですか? 勝手に、私が……」
『あれを元気付けるためなら、奥方も文句は言わないだろう』
取っ手を引っ張り、床を持ち上げる。その重さは、ここが忘れられていた時の長さ。
長く隠され、誰の手も及ばなかった宝箱を開ける時は、こんな感覚だろうか。何が入っているのか──鼓動がこれまでになく高まるのを感じていた。
二年前からずっと眠っていた床下の収納庫。
中に納められているものは無理やり起こされて差し込む日の光に目を細めているようだった。