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二 紅茶

「お邪魔します」

 頭を下げて、敷居をまたいだ。

 二度目に訪れた時は家の中は抹香の匂いに満ちていた。繭子を送り出すための香り。

 今は、かすかに香る線香。

 仏壇がある家の匂い。

 仏壇がある家は、その家特有の香りがある。

 人の死に触れた、少し淋しい匂い。それは乃々香の家も同じだ。



 玄関を入ると、すぐにホールがあり、いくつかの扉がある。

 覚えている限りでは、右側は主の書斎──仕事部屋。

 真正面には居間へ続く扉。そして、左手の突き当りが台所への扉。

「原田のおばさんは、僕が家のことを何もできないと思っているみたいでね」

 居間へ案内しながら、巽は苦笑交じりに言った。

 他人の目からすれば、そう見えるのも仕方がない。

 掃除はしているけれど、どこかすすけて見える。決して巽が怠けている訳ではない、それは分かる。

 あの頃の居間は南向きで日当たりの良い部屋だった。窓辺にはL字型の作り付けソファ。居間と、そのさきに続く寝室には白いパーゴラ。ここには薔薇の鉢植えが置かれていた。

 それが、今では鉢植えから蔦を伸ばした薔薇がパーゴラの柱や屋根を伝い、部屋は薄暗くなっている。

 怠けているのではなく、気力がないのだ。

 生きる気力が。

 巽の気持ちは分かる気がした。

 そんなことではなくなった人が悲しむよ──。

 生きていることを楽しまないと──。

 そう言って元気付けたくなる気持ちも分かる。それもひとつの事実だ。

 けれど、心にぽっかりと空いた穴はどうやったって埋まらない。楽しい映画を見て帰ってきた家には誰もいない。静かに鎮座する仏壇に迎えられる。

 二人で過ごした家の楽しさを知っているから、一人の静かさに胸がつまる。


 乃々香の家にある仏壇は居間に置いてある。花野井家もまた、同じだった。

「手を合わせて良いですか?」

 小さな額縁の中に収まっている繭子は、楽しそうに微笑んでいた。

 祖母の写真は昔風の遺影──紋付きを着たものを用意したが、繭子のものはごく日常の、ともすれば思い出の一枚とも言える一枚だった。

 長い髪を揺らして、カメラを持つ人物に向かって微笑んでいる。これを撮ったのは巽に違いない。そして、遺影として選んだのも。

「ありがとう。繭子も喜ぶよ」

 線香をあげて、手を合わせる。蝉の鳴き声が遠くに聞こえるだけで、家の中は静かだった。

 仏壇はきれいに手入れをされていた。花はみずみずしく咲き、朝食は洋食派だったのか、マグカップに紅茶が淹れてある。

「奥さま、紅茶がお好きだったんですね」

「ああ……親戚が来ると、どうして緑茶じゃないんだって言われるんだけれど」

 眉尻を下げ、苦笑を漏らす。

「朝はいつも紅茶だったから」

「初めて来た時に淹れて頂いたミルクティーも美味しかったです」

「覚えていてくれたのか。嬉しいな」


 乃々香の持ってきた買い物袋は、居間の隣にある食堂のテーブルに置かれた。隣といっても壁で仕切られてはおらず、食卓につくと南向きの窓から外の景色を眺められた。

「そうだ。料理の前に、少しお茶に付き合ってもらえるかな」

「よ……よろしいんですか?」

「うん。少し休憩をしたかったから」

 買い物袋を台所に運び、湯を沸かす。カップと茶葉の用意まで巽がしてくれた。

 頼んだのはおかずを作ってもらうだけだから、と。

 湯をティーポットに注ぎ、蒸らすこと数分。最後の一滴までカップに注がれた紅茶が運ばれた。

「アイスティーにすれば良かったかな。ごめんね、気が付かなくて」

「いえ、温かい紅茶も好きです」

 本当は喉が渇いていたけれど。

 温かい紅茶は繭子の弔いでもあるだろうから。

 あの時、繭子に淹れてもらったミルクティーは、紅茶の香りを邪魔しない量の砂糖が入っていた。

 今日の紅茶は、赤い水色。立ち上る湯気が香りを纏い、鼻腔を擽る。

 花のような香りと共に一口。

 口の中に広がるのは、心地よい渋み。

「美味しいです」

 昔ならば、渋くて飲めないと顔をしかめていたに違いない。そうならないよう、ミルクで渋みを和らげて、砂糖で甘みを足してくれたのは紅茶を気に入ってもらえるようにという繭子の気遣いだ。きっと。

「良かった。これだけは、繭子からしっかり教わっていたんだ」

 だからティーパックの簡易的なものではないのだ。

「ポットにお湯を注ぐ度に眼鏡が曇ってね。笑われたものだ」

 今も、巽の眼鏡は湯気で白く濁っている。それに気付き、巽は笑って眼鏡を外し、シャツの裾で曇りを拭い取る。

「ののちゃんは、紅茶は好き?」

「はい。……あ、でも。茶葉の種類とかは分からないですけど」

「僕もだよ。だから、今も彼女が買っていたものだけを、ずっと」

 そう言って、見つめるのは繭子の写真。

 紅茶を飲む度に思い出している。毎朝、こうして写真を見ては繭子が居ないことを噛みしめる。

 それは──孤独な儀式。

 傷は癒えるどころか、毎日引っ掻かれ続けている。

 さらに言えば、仕事は書斎に籠もっての執筆活動。

 何か、楽しいことがなければ巽はそのうち孤独に押し潰されてしまう。

 乃々香にできることは、美味しい食事を用意すること。


 椅子に鞄を置き、中からエプロンを取り出す。

「おばさまから、何でも良いと言われていたので、勝手にメニューを考えたんですが……大丈夫でしたか?」

「うん、何でも食べるよ」

「調味料はお借りしますね」

「うん、好きに使ってくれて構わないから」

「それでは。巽先生のお口に合うよう頑張ります」

「本当にありがとう。忙しいのに」

「気にしないでください、全然。大丈夫です」

 心のどこかで小骨が刺さったように気になっていたのだから。巽のことが。

「僕は、仕事をしているから」

 そう言い残して、巽は書斎に消える。

 さて、ここからは乃々香の仕事だ。気合を入れるため、エプロンの紐を結び、髪をひとつにまとめる。

 少しでも巽の毎日が以前のような明るいものになるように。

 それだけでなく、もうひとつ気になっていること。

 巽はほとんど料理をしないと言っていたが、荒神様はどうしているのだろう。

 台所を使う機会が減って、出ていってしまうことはあるのだろうか。

 それとも、一人で寂しく──葬儀の時のように佇んでいるのだろうか。


 キィ、と音を立てて扉を開けた。そこはひっそりと静かな台所。物は整然と置かれている。ただ、温もりはなかった。

 まだ夏だと言うのに冷え冷えとしている。

 息を殺して、開けた扉から頭を突っ込んでぐるりと見渡してみたけれど、あの白い──荒神様の姿はなかった。

「……寂しくなったのかも」

 乃々香の家もそうだ。

 全てのものに神様は宿っているから手を合わせなさい──。

 そう口を酸っぱくして言う祖母が亡くなって、家の中は静かになった。乃々香の家の荒神様も、いつの間にかいなくなっていた。

 原因は──そうだ、ぬか床の世話を怠けたから。

 冬場で手を突っ込むのが嫌で、季節が移り変わる頃には忘れていて、そしてカビが生えてしまった。使えなくなったぬか床は、泣きながら謝って、捨てた。

 以来、野々宮家の台所は荒神様と縁がない。

 神様は儚いもの、だからいつも手を合わせて感謝をなさい──。

 いつもそうだ、失って気付く。逃げられて知る。

 今の乃々香はそれを知っているから、巽にはこれ以上失ってほしくなかった。

 もう、手遅れのようだったけれど。


 買い物袋の中から食材を取り出し、台の上に並べる。

 ごぼう。人参。かぼちゃ。鶏肉。卵。

 まずは卵を茹でながら──いや、その前に。

 食器棚から皿を出し、塩を盛る。米櫃から米を一つまみ。洗って、ざるに入れて乾かすこと少し。

 今はもう姿がないけれど、これまでの感謝を込めて。そして、これから台所を使わせてもらう断りも一緒に。

 台所の上に作られた神棚に供えて、手を合わせる。

 よし、これでと改めて気合を入れ直した乃々香の前に。

 ふわり、と白い影が揺れた。


『供えてくれたのか』


 あの日、見た白い衣を着た青年の姿があったのだ。

 見間違いではない。あの日、人差し指を立てて黙っているようにと乃々香に伝えた青年。

 黒い髪をひとつに結んでいる。白い衣はたすき掛けにして。

 しかも、言葉を発している。黙っているように、という仕草もない。ならば。

「こ……」

『こ?』

「荒神様、ですね!」

 話しかけてもいいと判断する。

 興奮を抑えきれず、声を上げた。

 青年──荒神様は驚いたように身を引く。

「お姿がないので、出ていってしまったのかと思っていました。良かった!」

 会話は、乃々香が思ったようにうまく運ばない。荒神様はまた一歩二歩と後退するばかり。

 もしかして間違ってしまったのかと不安になる。

 荒神様ですか、はいそうです、の確認がされていなかったことを思い出した。

「荒神様で、間違いありませんか?」

『確かに……そうだが……見えるのか、わたしが』

「見えます、しっかりと」

 そして乃々香をじっと見て、昔の光景に行き着いたらしい。

『あの時のお嬢さんか』

 そして、あの時のように人差し指を立てて唇に当て、笑ってみせた。

『今でもわたしが見えるとは、中々に信心深い』

 作業台の上に置かれた食材を見る。

『今日はお嬢さんが料理をしに来たのか』

「はい。親戚から頼まれたので」

『そうか』

 荒神様の表情は曇る。

『だが──残念だな、お嬢さん。せっかく来てくれたのに』

「残念? どうしてですか?」

『お嬢さんがいくら腕を振るっても、無駄になる』

 料理を作って、無駄になるとは。

 神様相手に問い返すばかりも悪いので、考えてみる。

 無駄になる理由。無駄。

 乃々香が答えを出す前に、荒神様が教えてくれた。

()()は──お嬢さんの作った料理を食べないよ』

「へ?」

 言われたことが理解できず、目を瞬かせる。言葉を噛み砕こうと勤める乃々香を手助けするように、荒神様はもう一度告げた。

『何を作っても、花野井巽は食べない』

 食べない。二度ともそう聞こえた。だから聞き間違いでも、まして言い間違いでもない。

 けれど、ついさっき巽は確かに言ったのだ。何でも食べると。

 あの時の巽の顔が脳裏に焼き付いて離れない。

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