一 作りおきおかず
花野井さんの家は、緩やかに続く坂の上にある。建てられたのは昭和初期で、いわゆるモダニズム建築というもの。建物は年月を経て少々不便なところもあるけれど、それでも平屋建ての家はよそにはない可愛らしいものだった。
クリーム色の壁に、白いパーゴラ。窓枠や扉も同じ白。洋風な外観に対し、屋根は日本らしい瓦葺き。
野々宮乃々香は久しぶりにこの家を訪れた。
きっかけは、お盆の時に来た親戚。
乃々香の祖母の仏壇に手を合わせに来た親戚が言ったのだ。
「乃々香ちゃん、巽ちゃんって覚えてる?」
巽ちゃん、という聞き慣れない呼び名に最初は首を傾げたが、すぐに花野井巽の顔が浮かんだ。
「巽ちゃんねえ、奥さんが亡くなって家のことが全然できていないみたいなのよ」
掃除や洗濯はどうにかなっているらしい。だが、料理は出来合いのものを買ってきて食べる毎日だという。あの家が、ゆっくりと傷んでいるらしい。
料理の家事代行サービスを頼んでも、一度きり。それも近頃では頼みもしなくなったという
「そんなに大変なんですか?」
「大変なのかねえ……」
「でも、近頃は中食も良いものがありますし。私も、怠けたい時はそれを──」
「毎日そればかりじゃ嫌でしょ!?」
そんなことは人それぞれ、料理嫌いの人だっているのだから他人があれこれ口を出すことでもないと思う。
巽だって、いい大人なのだし。
だが、それを言う勇気を乃々香は持っていなかった。
今はお盆。遠縁の親戚の近況を聞くのも、行事のひとつ。聞きたい、聞きたくないに関わらず。
そんな風に思っていた乃々香だったが、親戚が身を乗り出して声を潜めて言った。
「だからね」
何か企んでいるらしい、とようやくそこで分かった。そして身構える間もなく企みが続く。
「乃々香ちゃん。ごはん作りに行ってあげてくれない?」
「私がですか?」
もしかして、もしかするのではと思ってはいた。この親戚のお節介焼きは筋金入りなのだ。そして、野次馬根性。気になるけれど、自分からは厄介事に巻き込まれたくない。でも知りたい。だから乃々香を使おう。そういう魂胆が透けて見えた。
「暇な時にちょおっとおかずを作ってあげるだけでいいから」
ここで断れたら良いけれど、花野井家のことはずっと気になっていたのだ。
「乃々香ちゃん、時間あるでしょ?」
乃々香は今、いくつかのアルバイトを掛け持ちして暮らしている。その合間を縫ってならば支障はないから、頷いた。
お盆明けの八月下旬の水曜日。
最寄り駅から電車で二駅。
鈍行列車しか止まらない小さな駅。そこから歩いて十五分ほど。
坂の上にある、花野井さんの家。
乃々香が初めてこの家を訪れたのは、十年ほど前。乃々香が十二やそこいらの時だった。祖母に連れられて坂を登ったのを覚えている。
あの時は籍を入れたばかりの花野井夫婦が迎えてくれた。窓の多い、陽の光をふんだんに取り込む家は、掃除も行き届いてきれいだった。
そこに暮らすのは、遠縁にあたる小説家の旦那さまと、美味しいお菓子を作ってくれる奥さま。物語の中に迷い込んでしまったのかと思うほどだった。
「いらっしゃい、お嬢さん」
そう言って、遠縁の小説家は乃々香を迎えてくれた。乃々香がまだ保育園に通う頃に会ったことがあるそうだが、記憶になかった。
巽は、乃々香を一人前に扱ってくれた。少なくとも、可哀相な子供扱いはしなかった。
それは、彼の妻の繭子も同じだった。
乃々香ちゃんはオレンジジュースね、と強制的に飲み物を決められることなく、何が飲みたいかと訊ねてくれたのも嬉しかった。
「ミルクティーに合う茶葉があるの。紅茶でいいかしら?」
そう勧めてもらえたことが大人の仲間入りを許してもらえたようで、乃々香はこくりと頷いた。
台所で乃々香たちのために飲み物とお菓子を用意してくれていた、繭子。
その繭子の傍に、白い着物を着た青年がいた。
荒神様。
きっとそれに違いないと思った。
台所には神様が宿る。台所は食べるものを作る場所、家の中で大切な場所だと祖母はいつも言っていた。
そこに宿る神様は荒神様。
台所はいつも清潔に、大切にしなければいけない。
花野井家の荒神様は、白い衣を着た、美しい顔立ちの青年だった。
あっ、と声を上げそうになった乃々香に、その白い影は人差し指を建てて黙っているように告げたのだ。
乃々香は誰にも言わない代わりに、黙って手を合わせたのだ。
初めての花野井家の訪問は楽しかった。
そして翌日、すぐに図書館に行き花野井巽の本を借りた。乃々香には半分ほどしか内容が分からなかったけれど。
歳を重ねて改めて読むと、巽の目を通して見る世界に魅了された。
冒険小説。恋愛小説。ミステリー小説。
ジャンルは様々だったが、そのいずれにも巽独特の世界観があった。人間という生き物に希望を持っていた。
こんな大人になりたい。こんな風に、希望を持って生きていきたい。
悲しくて、立ち直れないと思った時にも巽の本を読んで気持ちを慰めていた。
会う機会はなかったけれど、巽の存在は乃々香の中で大きかったのだ。
二度目に訪れたのは、二年ほど前。繭子の訃報だった。乃々香より年上とはいえ、まだ若い。半信半疑なまま喪服を着て坂を登った。
あの明るかった家が鯨幕に包まれ、棺桶が置かれていた。
今どき葬式は葬儀場で行うことがほとんどだが、小説家は妻の愛したこの家で行うと言って聞かなかった。
「妻が望んだことですから」
巽はそう言っていた。涙は流さず、喪主としての役目をきっちりと務めていた。
乃々香は親戚の女性たちに混じって台所の仕事を手伝った。
あの白い衣の青年は、邪魔にならないようにと台所の隅に立っていた。
悲しそうに、寂しそうに俯いて。
台所で慌ただしく働く女性たちは誰ひとりとして気付いていなかった。
庭の石で棺に釘を打ち、妻が使っていた茶碗を割って送り出した。
帰り際、巽に挨拶をする機会があった。
「ののちゃん、ありがとう」
そう言って、微笑んだ巽は今にも消えてしまいそうなほど弱々しく儚かった。ちゃんと食事は摂るように、気分転換に外に出たほうがいい、何を言っても巽にはその場限りの慰めにしかならないだろう。だから、何も言えないまま花野井家を後にした。
しばらくして、書店で花野井巽の本を見かけた。
大切な人を亡くした画家の物語だった。大切な人との思い出を振り返りながら、自分の進むべき道を探す画家。描く絵には以前のような彩りはなく、ただ日々の糧のために依頼された絵を描く。
それは巽そのものだった。
巽は見失ったのだ、進むべき道を。それを最後に彼の筆は止まっている。今なお、彷徨っている最中なのだ。
気になりはしたけれど、気軽に訪ねて行けるほどの関係もない。元々は、祖母の兄妹だかの細い繋がりなのだ。その祖母も亡くなってしまった。どうしようもない、と片付けるしかなかった。
そこに舞い込んだのが、親戚からの誘いである。
そして、三度目になる今。
駅に併設されているスーパーで食材を買い、向かった花野井家。嫌いなものはないから、乃々香の得意なものを作ったらいい、と言われたので事前にメニューは考えておいた。
きんぴらごぼう。かぼちゃの鶏そぼろ煮。鶏ハム。高野豆腐。煮玉子。
思った以上に重たくなった買い物袋を抱えて坂を登ったのである。
ようやくたどり着いた花野井家を見上げた。
「……これは、思った以上に」
呟いてから、乃々香はごくりと唾を飲み込んだ。
人は住んでいるけれど手入れを怠った結果、クリーム色の壁はくすんでしまっている。白いパーゴラのペンキは所々剥げ落ち、絡み合った薔薇の蔦が四方八方に伸びている。雨樋からは草が生えているのも見えた。
あの可愛らしい家の面影はかすかにしか残っていない。眼の前にあるのは、あばら家に近付いてしまった古い家。
今現在、この家に住むのは妻を亡くした小説家、花野井巽一人。人が住まなくなった家はすぐに傷むと言うけれど、住んでいても手入れを怠れば緩やかに傷んでしまう。
この家が、それを表していた。
あの可愛らしいモダンな家は、繭子のたゆまぬ努力の上に成り立っていたのだ。
玄関扉の横についた呼び鈴を押すと、ビーッという音が外まで響いた。インターフォンなんてものはない。
少しして玄関扉が開いた。
出てきたのは、花野井巽その人。
黒縁の眼鏡をかけて、前髪が目に掛かりそうなほど伸びている。
白い半袖の開襟シャツと、デニムのパンツ。自分の時間を生きている、のんびりとした雰囲気を纏っていた。
「ああ──……ののちゃん。いらしゃい」
笑顔で迎えてはくれたけれど。その笑顔は頑張って作ったものにしか見えなかった。
「お久しぶりです。原田のおばさんに言われて、お掃除に来ました」
そして、ぺこりと頭を下げる。
原田のおばさん──あの世話焼きの親戚の名を出す。
「うん……よろしく。重かったろう。さあ、上がって」
そう迎えてくれた言葉は、あの時と──祖母と初めてこの家を訪れた時と変わらない。
だが、あの時と違うのは、言葉の端々から、ささやかな表情の変化から伝わってくる淋しげな雰囲気のせい。
乃々香の持つ買い物袋を受け取って、上がるようにと促す。
巽がこの家から家事代行サービスの人間を──他人を招き入れない理由が、少し分かった。
繭子と暮らした日々から抜け出せないのだ。
この家は卵の殻。巽を覆って懸命に守っている。
けれどその殻にはたくさんのひびが入ってしまっている。この家のように。
一人では守りきれない、けれど誰彼構わず助けてはもらいたくない。
それほど、巽にとって繭子はかけがえのない人だったのだ。