こしあんおはぎ
花野井さんちの台所は、炊きたての米の匂いに満ちていた。暖かくて、ほんのりと甘くて、柔らか。
鍋の蓋を開けた野々宮乃々香は、はあっ、とそのまま蕩けてしまいそうな声を漏らす。
天高く馬肥ゆる秋。
今年の九月は夏の暑さを引きずらずに彼岸を迎えた。
この家の台所を預かる乃々香は、朝から彼岸のおはぎ作りに精を出している。
肩までの髪をひっつめて、半袖のシャツとデニムパンツ。エプロンを付けた姿が朝から忙しく働いていた。
小さな街の山の手にある、昭和モダンという言葉が似合う一軒家。そこに暮らすのは、細々と小説を書いて生計を立てる花野井巽、三十五歳。付け足すと、寡夫。家のことはさっぱりで、妻を亡くしてからというもの台所には埃がつもっていた。
その台所を掃除して、その後も彼の身の回りの世話をするのが、巽の遠縁にあたる野々宮乃々香。二十二歳。
給料はそう高いとは言えないけれど、住み込みで三食付き。この家の決まりごとに慣れてしまえば、悪い職場ではなかった。
花野井家の決まりごと
そのいち
テレビは一日一時間。食事の時は消しましょう。
そのに
掃除機、洗濯機を使う時は仕事の進捗を確認しつつ。
この二つは、音で巽の気が散らないよう彼の亡妻が決めたことだった。決して巽から強要されたものではない。
そして、そのさん
台所はきれいにすること。
以上。
巽から強要されたものでない、亡妻が密かに守っていた決まりを乃々香に伝えたのは誰かと言うと。
『美味しく炊けたな』
乃々香の隣で鍋の中を覗く、黒髪の男。白く炊きあがったつやつやのもち米に双眸を細める。
「それはもう。常磐さまの助言どおりにしましたから」
乃々香は得意げに胸を張った。
彼は、常磐さま。この花野井家の台所を預かる神様。
乃々香に花野井家の決まりごとを教えてくれた大切な存在。
「さて、それでは」
すりこぎを杵代わりにして、先を濡らしてもち米を潰す。粒は口の中に入れた時に分かるように。段々と楽しくなってくるけれど、あまり潰しすぎないよう気を付けて。
『わたしは、いつも思っていた』
「何をですか?」
もち米を潰し終えたら、続いて形を整える。
台所の真ん中に陣取る作業台代わりのテーブルには、水を張ったボウル、ふきん、大小の皿、タッパーが置かれていた。もち米の入った鍋を置いたら、下準備は完了。
『おはぎというものは、粒あんだろうに』
「そうですねえ」
そんなのんびりとした相槌を打ちながら、乃々香はタッパーを開けた。中には黒い──けれど、少し紫がかった、こしあん。
「でも、巽先生はこしあんがお好きなんですよね」
『あれは偏食が過ぎる』
「私は粒あんも好きですよ」
『乃々香はいい子だな』
「好き嫌いがないだけで?」
『好き嫌いがないのは大切なことだ』
常磐は頷いた。
長い黒髪をひとつに結び、清潔な白い着物と袴。袖はたすき掛けにして邪魔にならないようにしている。さすが、台所を守る神様。
そんな常磐は乃々香にしか見えない。どうせなら、役者にも引けを取らない──むしろ役者よりも整ったその顔が皆に見えれば良いのだが、そううまくはいかないらしい。
乃々香は何にでも手を合わせるから。
常磐はそう言っていた。
確かに乃々香には常磐だけでなく見えないものが見える。神社の社で日向ぼっこをする老人であったり、稲荷社の鳥居で遊ぶ狐であったり。
そういうこともあるんだろう、で片付けている。人それぞれ、見える世界が少し違っても良いのだ。
見えて、話せて困ることもないのだし。
「先生、喜んでくれるといいなあ」
ふきんを濡らして、その上にこしあんを広げる。あんの上には、一握りの潰したもち米。優しくあんで包んで、白いもち米が見えなくなったら完成。
白い皿の上に、ちょこんと乗る黒いおはぎ。
ひとつ、ひとつ。お供えする人のこと、食べる人のことを考えて包む。
ただし、全部をあんで包んでしまうと飽きてしまうから、もち米の半分だけ。残りはもち米であんを包む。
そして、ちょっぴり贅沢にきな粉をまぶす。少ししょっぱくて、けれどふんわりと甘いおはぎ。
お皿の上に二つのおはぎが並ぶと、白と黒で見栄えも良い。
どうにかこうにか鍋の中のもち米が形を変えたのは、お昼を少し過ぎた頃だった。
「ののちゃん、お昼は──……」
台所を覗きに来たのは、この家の主。花野井巽。
白い開襟シャツと黒いスラックス。髪は少し襟足が長め。三十五という歳の割に若く見られるのは、学生の頃から変わらない外見のせいだ。眼鏡を押し上げながら申し訳なさそうに乃々香の様子を伺う。
いつもならば乃々香の方から昼食の時間を教えるのだが、今日は立場が逆転していた。
「あっ……!」
もち米の粒が付いたままの手を広げた格好で頭を下げる。
「すみません、先生! おはぎ作りに熱中してしまっていました!」
この家で初めて迎える彼岸。おはぎだけで精一杯だったとはいえ、日常の仕事を忘れてしまっていた。
だが、巽は責めることはせず、むしろ眼鏡の奥の垂れ目を細くした。
「おはぎかあ……」
そして、吸い寄せられるようにテーブルに近寄ると、皿の上に盛られたおはぎを見て驚くのだ。
「こしあんのおはぎじゃないか」
巽が好きなこしあんのおはぎ。これも、この家の決まりごと同様、常磐に教えてもらったものだ。
「よく、僕がこしあん好きだって分かったねえ」
「えへへ……」
『わたしが教えたから当然だ』
常磐は亡妻と言葉を交わしたことはないけれど、いつも見守っていたのだそうだ。朝から晩まで、楽しそうに家の仕事をする姿を。
その時に知った決まりごと、そして巽の好みを常磐は細かく乃々香に教えてくれている。
粒あんよりこしあん派。朝はトーストとコーヒー。食パンは分厚く切ったもの。コーヒーには牛乳を入れて飲む。
素麺より麦が好き。お酒は舐める程度、大の甘党──などなど。
巽は好みがうるさい割に好き嫌いを教えてくれない。亡妻が積み上げた知識をそっくりそのまま横流ししてもらうのは気が引けたけれど。
「お昼、今から用意しますね」
急いで作れるものは何かと慌てる乃々香を、巽が止める。
「いいよ」
「でも」
「お昼は、おはぎにしよう」
巽の提案で、甘い昼食が決まったのだった。
あんのおはぎときな粉のおはぎを一つずつ。
何よりも先に居間の片隅に置かれた小さな仏壇へ。巽の後ろで乃々香も手を合わせる。
いつもお世話になっている台所の神様へも忘れずに。
そしてようやく、巽と乃々香が食べる番。
食卓には、大きな更におはぎが盛られている。小皿に取り分けて、ひとつを頬張った。
こしあんは、甘さ控えめ。小豆の味がするように。甘すぎないように少しの塩。初めて作るにしては上出来。
当然といえば当然、横から常磐の指導があったのだから。
問題は、乃々香の口ではなく巽の口に合ったかどうか。
様子を伺うと、向かいに座った巽は手を止めてじっとおはぎを見つめている。
美味しいかどうかを訊ねられることを嫌うそうだから、黙って様子を伺っていた。そして、少しの間の後で呟いた一言。
「繭子のおはぎだ……」
繭子。
亡くなった、妻の名。
繊細な宝物にそっと触れるように、口にする。巽にとって亡妻は何物にも代えがたい宝物なのだ。その名ですら。
「お彼岸になるとね、いつもおはぎを作ってくれたんだよ」
懐かしそうに、そして寂しそうに巽は言った。
「お店のおはぎは、こしあんだと甘くてね。いや……甘い物も好きなんだけど。おはぎはこのくらいの甘さがいいんだ」
亡き人が関わると、巽は少し自分のことに饒舌になる。
近頃ようやく話してくれるようになった、思い出の欠片。
「前日から、あんこを作ってくれてね」
それは、乃々香も同じだ。
昨日から小豆をといで、炊いた。裏ごしをして、こしあんを作った。巽が喜ぶ顔を想像しながら。
「ありがとう、ののちゃん」
皿の上のおはぎを見ながら、巽は礼を言った。
洗い物をする乃々香の横で、常磐は眉間に皺を寄せていた。
「お供え、足りませんでしたか?」
『いや、あれで満足だ。美味しかった』
「それは良かったです」
満足しているのなら、どうしてそんな不満顔なのか。
「何かありましたか?」
もち米を炊いた鍋をたわしで擦りながら、不機嫌の原因を訊ねた。
『口惜しくはないのか?』
返ってきたのは、そんな問いかけ。たわしを持つ手が止まる。
「口惜しい? どうして」
『乃々香が作ったのに、あれは亡くした妻の姿をお前に重ねている』
「重ねていましたねえ」
『失礼だろう』
「でしたら、常磐さまが奥さまのレシピを教えなければ良かったのに」
『……それは』
眉間の皺は一層深くなり、ついとそっぽを向いた。
『……あれが喜べば、乃々香も嬉しいだろう』
唇を尖らせて、少し拗ねたように言う。頬がほんのりと赤く染まっていた。
「それはもう。常磐さまには感謝しています」
『乃々香はそれで良いのか』
「はい。私は、先生と奥さまが居るこの家が好きだったんです」
十年も前に訪れた。まだ結婚したばかりだった二人が暮らしていたこの家は、ふわりと柔らかな雰囲気に満ちていた。嫌な気持ちを忘れさせて、疲れた身体をほっと休ませてくれる。
亡くなった繭子があってのものだったのだ。繭子と一緒に、この家は一度死んでしまったのだから。
好きだった家を、以前のようにとは言えなくとも少しでも近付けたい。巽を笑顔にしたい。そのために、乃々香は腕を振るっている。巽が笑顔になるのなら、繭子の姿を重ねられることは何でもないのだ。
『乃々香は優しいな』
「そうですか?」
好きなものは大切にしたい。それは誰しもが抱くものだろうに。
『わたしは、乃々香が好きだよ』
「ありがとうございます。私も、常磐さまが好きですよ」
この家には、乃々香が好きなもので溢れている。巽も、常磐も、家に残る繭子の記憶も。
好きだと言われることは嬉しい。だから乃々香も常磐に好意を伝えたのだが──常磐は苦笑するばかりだった。
花野井さんちに住むのは、みんなどこかしら大なり小なり傷を抱えた者たち。
それでも生きていかなくてはならないから、今日も台所には美味しい香りが満ちるのだ。