昨日の私と今日の君は同じ星を見るか
伊織は思考を止めなかった。目の前には怪訝そうな表情でこちらを見つめる男がいるのにだ。
男は手に持っていたカップを透明な丸いテーブルに静かに置いた。伊織はそれを無言で見つめていた。
「私には君が何を言っているのか、理解が出来ないのだが。そもそも昨日の星と今日の星では、少なからずどこかで爆発や消滅が起きていると言われているのだから、天文学的には…やはり別物と言えるのではないだろうか。」
あぁ、と一言零した。自分の発した何気ない言葉の意図を汲み取ってくれていなかったことへの、失望からくるものだった。
なんとなく発した‐なんとなくではないのだが‐言葉のせいで気分が落ち込んでしまったようだった。倉阪伊織はぬるくなってしまったコーヒーカップを手に取り、口へと運んだ。猫舌の自分でも簡単に飲めてしまうくらいには冷めていたようだ。
「なんだ、真剣に答えたというのにその生返事は。」
「あぁ、いえ。私の言い方が悪かったってことは理解しているんですが、うーん…何と言っていいのか。」
「…伊織が星の話をするなんて珍しいこともあるもんだな、とは思っていたが。」
男は呆れた顔で、しかしどことなく楽しそうな表情で恋人から視線を逸らした。その横顔はいつも見ているものであるというのに、透明なテーブルを挟んだ向こう側がまるで最果てかのように感じた。
静かな二人の間には小さな、伊織がどうしてもと駄々をこねて購入することとなった白と黒のマーブル模様が施されたガラスのテーブルが置かれている。およそこの緑に囲まれた小さな部屋には似つかわしくないテーブルだが、家具屋で運命を感じたと力説したものである。
伊織は目の前の男に小言を言われることは分かっていた。
「このテーブル、何だかこの部屋には合わない気がするんです。」
「合わない気がする、というのは購入する前に俺が言っていたのだが。」
「えぇ、あぁ、そうじゃなくて。むしろこの部屋がテーブルに合わないのかもって。」
「引越しか。それならいい不動産を知っている。明日にでも連絡を取ってみよう。」
伊織は、なにも本当に引越しを望んでいるのではなかった。住んでいる土地は静かで便利もいい。だが、今の部屋が窮屈であることは前々から感じていたことであり、どうするべきか悩んでいただけなのだ。
このことを口実にすれば、ずっと後回しにしていたことを一気に片付けることができる。つまりちょうど良い時期だったのだ。
男‐元村洋汰郎‐は恋人の突拍子もない質問や言動が気になっていた。恋人が次は何を言うのか、何を考えているのかが分からなかった。
「うーん…引越し、はしようと思います。あぁ、いや今決めたのでいつになるかは未定ですが。」
「そうか、住みたい場所に希望があればそこを重点的に探すように伝えておこう。」
片方の口の端を上げて微笑んでいる彼は、きっと自分の考えていることなど分からないだろう。
それもそのはず、言葉にしなければ分からないのだから。よく、男性は言葉にされなければ分からないと言うが、女だってそうだ。とはいえこの男の考えは、常に不明ではあるのだが。
だがしかい、そもそも人間は言葉で通じ合ってきたのだ。行動だけでコミュニケーションをとっていた時代ならまだしも、いまや言葉や文字等があるというのにそれを使おうとしないこともある。それはきっとこの国の人間であるからなのだろう。
黙っていても話は進まない、何も伝わらないことはよく理解していた。伊織は恋人の顔を見ないように、じっと中身の無くなったカップを覗き口を開いた。
「地元に帰ろうかと考えていて。すぐってわけではないのですが、母は早いほうがいいって言ってて。なので、今の仕事が片付いたら地元に戻って、って考えているんです。」
「ん、ちょっとまて。地元に戻るって、今の仕事はやめるのか?やっと軌道に乗りはじめたんだろうに。それに半年後にはコンクールがあるって聞いて……おい、なんだその顔は。」
「えっと、まさかあんなにちらっとしか話していないことを覚えていたとは、思っていなくて。」
伊織は困惑した。恋人が自分の話をしっかりと聞いていたとは思ってもいなかったのだ。自分に興味なんかないのだとばかり思っていた。偶然覚えていただけなのかもしれないけれど。
「失礼な、伊織の話すことは全てではないがしかと覚えている。もちろん付き合い始めのころも。」
「な、それは覚えてなくていいです!ってもう!そうじゃなくてですね!」
「要するに、なんだ伊織は俺と別れたいのか。」
いきなり確信を突かれてしまったことに動揺が隠し切れなかった。別れたいのかと聞かれてすぐに別れるとは答えられなかった。そんなつもりで地元に帰ると伝えたわけではなかったのだから。しかしながら。伊織の言葉は別れを示唆するものであった。
地元に戻る、それは最近考えていたことではあった。
「別れる、とかは考えて無かった…んですけど。いやあの、ほんとにそんなつもりなくて。」
「ん、別に責めたいわけではない。そうなら、先ほどは無理をさせたのではないかと思ってね。」
「ちょっ!私真剣な話してるんですけど!」
「事後のムードは大事だと伊織が言っただろ?そちらから壊してきたのだから、意地悪ぐらい許してもらいたいものだな。」
少し拗ねたように窓の外を眺める恋人に、伊織は愛おしさを感じた。
なぜ自分は彼のことを諦めてまで、地元に戻ろうと考えたのか。夢を見るのは誰にでも許されることだ、と洋汰郎はいつでも応援してくれていた。事後はいつもより数倍優しくしてくれないと嫌だというワガママも聞いてくれていた。
(なんだ、洋汰郎さんはちゃんと私のこと好きでいてくれてたんだ。)
先ほどの突拍子も無い質問にだって、倉坂伊織からすると的外れな回答も真剣にしていた。二人で選んだテーブルを買った際だって、今は空になった冷たいコーヒーカップさえも。元村洋汰郎の、恋人の優しさを身に受けていたのだ。
「なんだか、勝手に一人ですっきりしちゃいました。地元に戻るのはまだやめときます。」
「なんだそれは…まぁ、悩みが解決したならいいが。」
「さ、てと。早く寝ないと。あ、昨日買った服しわになる前にハンガーにかけとかないと!」
「そうだな、今日は一日歩いたからな。あぁ、カップを洗ってくる。」
少しそこで待っていてくれ。そう元村洋汰郎は倉坂伊織に伝えキッチンのほうへと消えた。残された伊織は就寝するために身なりを整えた。一度適当な格好で寝ようとしたら怒られたことがあるからだ。
「うーん…星、こんなに綺麗だったとは。最近曇ってたからなぁ。」
「伊織、あぁ良かった準備は終わったみたいだな。」
「あ、カップ洗ってくれてありがとうございます。って何ですその顔は。」
「いや、これは前から考えていたんだが、確かにこの部屋にこのテーブルは合わないな。」
倉坂伊織は目の前の恋人の言葉を理解するまでに数秒かかった。先ほど自分が言ったことがまさか反芻されるとは思っていなかったからだ。
「え、いやその話はもう終わったと言いますか…引越し?ですか?」
「こういうとき、スマートなほうが良いと言われそうだが。…俺は昨日の君と同じ星を見ていたいと思う。」
「えっ?あの、それって?」
「ストレートな発言は得意なんだが、緊張するとな…。」
二人の間には沈黙が訪れた。伊織には洋汰郎が、自分の質問の答えを考えていたとは思わなかったのだ。考えてみたら今日はおかしなことばかりだった。恋人がやけに素直だった。いつもは呆れるようなことを言ったのに真剣に考えてくれていた。自分のワガママも聞いてくれていた。
洋汰郎はいつの間にか手に持っていた箱を恋人の前に取り出した。小さな箱でありながら外装は美しくシンプルなものだった。
「俺は伊織と結婚したい。いや、うん。…結婚してほしい。」
「わ、私…仕事もままならないし家事も苦手だし、甘えちゃうし…そんな、私でも…いいんですか?」
「それなら、俺は細かい男だし女心は分からんし、甘やかしてしまう悪い男だ。でも伊織と共にありたいと、出会った頃から考えているんだ。」
「私、洋汰郎さんのこと悪い男なんて思ったことないよ。」
笑いながら涙を浮かべる伊織を見る恋人の目は困ったような、優しいものだった。徐に箱を開けるとそこには、以前伊織が可愛いと呟いていた青色の石をあしらった指輪があった。
「俺だって、伊織のことそんな風に思ってないぞ?」
洋汰郎は伊織の手を取り、その震える指に銀色に輝く指輪をはめた。伊織は未だ震える手を光に掲げ、その美しさに酔いしれた。涙は止まっておらず、世界は滲んでいるというのに指にあるその青い石は輝きを放っていた。
「伊織、愛してる。俺は君といつまでも共にいる。だから、明日もまた笑顔を見せてほしい。」
不意に抱きしめられ、泣き顔とも笑顔とも分からない表情になってしまう。それを人が見たら何と言うだろうか。しかし倉坂伊織は幸せなのだ。これを幸せと言わずして何と言うのだろうか。
「はい!」
今日の私と昨日の君は確かに同じ星を見ていた。
今日の私と昨日の君は確かに同じ時を過ごしていた。
私の今日は君の昨日。
共に夜を越えた先にあるもの。
それは、きっと二人だけのもの。