見えない境界線(ライン)
見えない境界線を踏み越えるのは怖い・・。
「げほっ・・。」
急な吐き気に襲われ、涙目で洗面所に手をつき懸命に体を支える。腕が震えているのが自分でも充分に分かっている。
こんな場所で吐いていたら、家族にも迷惑だろう。でも動く気力が無い。体力を消耗しきってしまった。胃の中に吐くものなんて胃液しか残っちゃいないけど・・。
顔を上げると憔悴しきった自分の顔。
「・・最悪・・。」
軽く嗽をし、濡れた唇を手の甲で拭う。
壁に寄りかかると少しは楽だ。
今更・・。
俺らしくも無く、体が震えてる。
思いっきり相手をぶん殴って突き飛ばして逃げてきた。
友達だと思っていた。
ずっと一緒に居て親友だと思っていた。
それも今日で終わった。
向うは同じには思っていなかったんだから。
気持ち悪いとかそんな感情じゃない・・。
ただショックなだけだ。
あいつをそういう対象として改めて考える余裕も何も与えずに、あいつは俺を女の子と同じ様に抱こうとした。
それが無性に頭に来た。俺が女の子だったとしたって、それは許せないと思う。
そして同時に裏切られた気がした。
説明しろとは言わない。
『最後の記念にお前を抱きたい。』
なんだそりゃ!!だ。
最後ってなんだ。最後って。
最初もないのに最後もあるか!?
そんで・・全速力で走って自宅に戻ったら、吐き気に襲われた。
「吏弓!!携帯なってる!!吏弓・・やだあんた何してんの!?」
馬鹿でっかい姉貴の声がして、俺が返事をする余裕も無く洗面所に彼女は入ってきて表情を変える。
「・・ごめん・・洗面所汚した。トイレまで持たなかった・・。」
壁に体を預けたまま取り合えず謝る。
「馬鹿っ!!そんなん気にする必要ないの。」
姉貴は気にする様子もなく棚からタオルを取り出し俺に渡してくれる。
「少しは落ち着いたの?片付けは、あたしがやるから横なってな。」
腕まくりをした姉貴は頼りがいが在る・・。昔っから、そんな姉貴に助けられてた。今だって、図体は俺のほうがずっとでかくなって、どっちが年上だかわかんねぇ位になってんのにだ。姉貴が結婚して(なんか知らんけど婿を貰ってる。)それでも、姉貴は昔と全然変わらず面倒見が良い。
「何、動けないの?そこ座ってな。」
歯磨きする時のばあちゃん用にって姉貴がここに置いた椅子を指差す。
俺はのろのろとそこに座る。
姉貴が手早く洗面所を片付けるのを俺は黙ってみてた。
片付け終わった姉貴がすっと出て行った。
それでもぼーっと俺は座ったまま。
ぺたっと首に何かが当たる。
「ポカリでも飲んどきな。」
「・・ありがと・・。」
「動けるなら部屋で休んだ方がいいよ。・・ほれ携帯、あと家電に宇宙から何回か電話来てる。帰ってないって言っといたから、話したくないならアンタがいいって言うまでシカトしといてあげる。」
俺の膝に携帯を乗せると姉貴は出て行った。
アイツと何かあったって察しのいい姉貴には気が付かれたと思う。多分、喧嘩だろうって思ってくれてるんだろうけど・・。
ポカリと携帯を手に俺も二階の自分の部屋へとのろのろ移動する。
ベッドに倒れ込むと・・お日様の匂いがした。
多分、姉貴が干してくれたんだろう。
うちは自営で自動車整備の仕事してる。母さんも整備の仕事してて、だから家事はばーちゃんがしていた。ばーちゃんの足腰が弱ってからは婿をもらった姉貴が家事をしてる。婿さんもうちの工場に居た整備士で、気がついたら家族になっていた感じ。
姉貴とは7歳離れてて、俺は今やっと専門学校。
卒業したら、家の仕事手伝いたいって思っている。人員は充分だから好きにしろっても言ってもらえているけど・・。
携帯がチカチカ光を放ってる。
誰からかは想像が付くから、今は手に取る気が起きなかった。
あんま悩むって事をしない俺だから今度みたいなのは結構困る。
でも誰に相談して良いか分からない。
つか・・相談できる事でもないよな・・。
「あ・・うぜぇ・・。」
声に出してみると、ちょっとだけ気が楽になるような感じもする。
「うぜぇうぜぇうぜーーーーーーーーーーー!!」
だから俺は叫んでみた。
『うるさい!!』
階段から姉貴の声。はい・・ごめんなさい。
『ったく・・ちょっと待っててくれる?』
と姉貴の声がする。客?
階段を上がる足音。
そして俺の部屋を姉貴が開ける。
反射的に俺は体を起した。
「ったく・・あんたが叫ばなかったら宇宙に帰ってもらったのに。あんたの絶叫で居るってバレたんだから・・責任持ちなさいよ?・・上がって貰うけどいい?」
・・・
俺の無言を許可と見なしたのか姉貴は階段を下って行く。
入れ違いに別の足音。
それは部屋の前で止まる。
開きっぱの扉。
今までだったら平気で入ってきた境界線。
今日の宇宙はそこを乗り越えようとはしない。
「なんだよ。」
俺も入れとは言わない。
軽く拳が震えるのは何でだろう・・。
怖い?
違う。
気持ち悪い?
そんなのでもない。
ずっと一緒に馬鹿やれるって思っていたのが裏切られた。
わかんねぇ・・。
男同士だから。
それもわかんねぇ。
「何しに来たんだよ。」
俺のつっけんどんな声にも宇宙は何も言わない。
「・・話が無いなら来んなよ。」
俺も何を言えばいいか分からないから・・。
宇宙は扉の前で立ったまま俺を見ていた。
その顔は真剣そのもので、俺は見ているのが辛くなって目を逸らした。
ただ沈黙だけがずっと俺達の間を滑っていった。
本当は・・知っているんだ。
宇宙は会話が苦手だって事。
アイツがまともに会話すんのは俺だけだって。
他の奴らとも会話するのは、俺が間に入ってるからだって・・。
だから、俺が怒ると宇宙は話が出来なくなる。子供の頃からそうだった。
喧嘩して、というより俺が一人で怒って口利かなくなると、宇宙は誰とも全く話をしない。俺が『まぁいいや』って言うとめちゃくちゃ嬉しそうな顔で話しかけてくるんだ。姉貴がよく『犬みたい』って言っていたのを思い出す。おっきくなった今ではスマートな犬、例えるならドーベルマンか?なんか違うかも。犬の種類なんてしらねぇもん。
宇宙は居合いをやってて、すっげぇ鋭い感じ。昔っから抜き身の刀みたいな触ったら切れるような雰囲気があった。結構格好はよくて女子にも人気あったな。姉貴曰く、宇宙は和装が似合う和美人らしい・・その表現は良くわかんねぇ。
おれらの背格好はあんまり変わんない。
どっちかって言えば、常に車をいじってる俺の方が腕とかは宇宙よりがっちり目・・。
普通どこをどうみたって俺を女代わりにしようとは思わねぇと思う。
「・・なんでだよ?」
だから俺は答えが知りたい・・ような気がした。
「・・嫌がらせか?」
俺のその言葉に宇宙は酷く傷ついたような顔をした。
訳わかんねぇのはこっちだって言うのに・・。
「部屋・・入れよ。とりあえず座れ。」
少しだけ距離をおいて宇宙は座る。
拳がぎゅっと握り締められてるのが見える。
「・・嫌われたかと思った・・。」
宇宙がそう呟いた。
嫌うとか、それ以前の問題。
「とりあえず訳を言え。あの訳わかんねぇ行動の訳を言え!」
「吏弓が好きだから・・。」
アナタガスキダカラ・・そんなCMあったなぁっと、ずーーっと前のCMを思いつく俺は多分思考がショートしてる。
言葉の出ない俺に・・。
「もう、友達では居れないと思ったから。なら無理にでも抱いて終わりにしたいと思った。」
それは・・同じ事女の子にしたら犯罪ですよ、強姦ですよ貴方・・。
等と頭の中では言葉が出てくるが・・声に出す事が出来なかった。
宇宙が余りにも真剣に哀しそうな顔をしていたから。
「・・友達のままじゃ駄目なのか?」
俺の呟きに宇宙は頷いた。
「ずっと好きだった。他の奴と話すのを見るだけで腹が立った。」
「友達・・じゃねぇの?俺達・・。」
その言葉に、また宇宙は傷ついた顔をする。
俺もキリキリと胃と臍の上辺りが痛くなってきて、右手が何となく上着を握り締めていた。
「・・もう側には居れないだろ。」
泣きそうな顔の宇宙の拳が震えていた。こっちだって泣きてぇ。
男同士だぞ・・。
そんな事も考えたんだろうな。
気持ち悪いって思われた。
そんな風にも考えたんだろう。
男同士だよ。
親友だよ。
だからわかんねぇ。
怒りはあった。
まだ冷静にもなれない。
「・・訳がわかんねぇってのが正直なとこ。」
「・・吏弓?」
「お前何も言わないで、勝手に終わろうとしてる。・・突然、友達って思っていた奴に最後に抱きたい言われて『はいそうですか。』って女の子だっていわねぇと思う。」
宇宙は黙っている。
「考える・・時間、くれ。」
まだ親友ってしか思ってなかったから。
んでも側から居なくなられるのは嫌な位に大事な人間だから。
「この先、どう思えるのかわかんないけど、先延ばしにして逃げたりはしないから・・それでもいいか?」
「・・うん・・ごめん・・。」
項垂れる宇宙の整った白い陶器のような輪郭を黒い髪がさらっと流れて、俺は初めて宇宙を綺麗だと意識した。
「つか・・綺麗なのはお前で・・世間的には俺のが男らしいと思う。」
俺の呟きに宇宙は初めて笑顔を見せた・・。
旧サイトで掲載した作品です。
以前にイラストもいただいていて、絵師さんに許可いただけたら乗せたいと思っています。