空の魂
【僕は死者の魂を操ることができる。】
魂は光の玉のようで空中にふわふわと無数に浮いている。僕はその一つを指さし横にすっと動かすとその光の玉も一緒に動くのだ。
いつからこんな景色が見えるようになったんだっけ?きっとあの時だ。僕が手首に刃物を当てた時。
中学1か2の時だったかな。そんなうろ覚えになるくらい僕には大したことない事件だったけど周りはそうではなかったみたい。
動機を聞かれるとすごく困る。別に死にたかったわけじゃないし、生活に不自由しているわけでもなく、家庭環境が悪いわけでもない。友達という友達はいないが委員会とか係りの仕事での人間関係は難なくこなしていた。人嫌いでもない。人と話すのが嫌いなわけでもない。そう僕には自殺の動機らしい動機はなかったのだ。
それでも無理やりに答えるなら。『死ね。』と言われたからだろうか。まったく身に覚えのない男子の群れに突然『死ね。』と言われた。訳が分からなかったが、一つ分かったことがある。この男は僕のことが大層嫌いらしい。その時、彼はこうも言っていた。『お前は人間のクズだ。』他の連中も寄ってたかって『邪魔だ。』とか『消えろ』とか好き勝手に言った。
実を言うと初めての経験でもない。小学生の時も言われた。幼稚園にいた時も言葉は違うが似たようなことを言われた。【成績は僕のほうが上だ。】とか【そもそも人間のクズとは?】とかいろいろ思うところはあったけど。結局は何も言い返せなかった。きっと僕の中に【その通りかもしれない】という気持ちがあったのだと、この時気付いたのだ。
やりたいことなど特にないし、僕を必要としてくれる人もぱっとは浮かばない。好きなものも嫌いなものも目標も夢もない。生きる理由など一つもなかった。こういう人間は見ようによってはクズかもしれない。
そう思うと死んでもいいかなと思ってしまった。
結果、未遂に終わった。目を覚ました時は病院で横になっていた。母親はわんわん泣いた。僕を強く抱きしめながら『もうあんな事はしないで』と『死のうなんて思わないで』とお願いされた。だから死なないことにした。生きる理由もないけど死ぬ理由もないことにこの時気付いたのだ。何で死のうと思ったんだっけ?そう思いながら乾いた瞳で天井を見上げた。次の日、僕の乾いた目には光の玉が見えるようになったのだ。
これが何で死者の魂だとわかるかって、それは彼ら自身がそう言ったからだ。光の玉は毎日のように僕に【生き返らせてくれ】【生き返らせてくれ】そう囁くのだ。自殺未遂をした僕への当てつけかと思った。
しかし、光の玉が見えようが、囁かれようが、生活に支障はない。無視するのは昔から得意だったから。冷たいやつって思われるかもしれないけど、【生き返らせてくれ】って言われてもどうすればいいのか分かんないからどうしようもない。
その後、無事に退院した。学校には行きたくなかったが、母親が行けと言うから行った。
高校に興味はなかったが母親が行けと言うから受験した。
高校生の時、面倒だと言われている学年委員を押し付けられたりもした。
バスケ部に勧誘されたから入部した。
だけど、半年くらいで止めろと言われたから退部した。
二、三年も学年委員をやらされた。
三年の時なんて先生が二年間していたからと言って委員長を勧めた。だからなった。
母親に頭のいい大学に行ったほうが就職が楽だと言うから受験勉強をした。
委員長との両立はさすがに堪えた。
第一志望には行けなかったが、第二志望の大学に進学することになった。
そして現在大学生、光の玉が見える以外は普通の暮らしを送った。
本当に普通の、とても普通の、繰り返し来る普通が続いた。
今日も授業までの時間を潰すために、大空の見えるベンチに座って高い空を見上げている。大学でも友達っぽい友達は出来ず一人でいることが多い。それでも授業はしっかり受けているし、最低限度のことはしている。何の問題もない。
空を見上げる。空は青かった。確か空が青く見えるのはレイリー散乱という現象のせいだ。と、高校の物理の先生が言っていた気がする。
「空は何で青いんだろうね。」
突然、そんなことを問われた。前を向くとそこにはボサボサの髪の女がいた。明らかに変人だ。こういう時は気にしないのが一番。きっと僕に話し掛けたわけじゃないだろうし。
「空は何で青いんだろうね。」
力強く再び同じことを言う。しかも距離が近い。僕はベンチの背もたれに腰を落とすようにボサボサ女から距離を置く。
「何ですか?何か用ですか?」
「だから言っているじゃない。どうして空は青いんだろうねって?」
「わざわざそんなことを言うためだけに話し掛けたんですか?」
訳が分からない。そんなことで僕の大事な休み時間を減らそうとしているのか、この女は。
「あなたいつもここら辺のベンチに座って空見ているでしょ。私もそうなの三か月前くらいからどうして空は青いのかなってずっと悩んでて。」
小さい悩みだな。それに…
「僕はそんなに毎日、毎日、空を見ているわけじゃないですよ。課題だって頻繁にしています。時間ももったいないですし。」
「じゃー、何で空が青いか知っているの?」
何故、そんなに知りたいのか理解に苦しむ。ボサボサ女は興味津々という感じだ。断るのも面倒くさいし、キャラじゃない。
「空が青いのはレイリー散乱という現象です。」
「れいり?散乱?」
「太陽光に含まれる青系統の光は波長が短く空の粒で散乱しやすいから空は青く見えるみたいですよ。」
ボサボサ女は頭にクエッションマークを浮かべているかのように首を傾げている。
「つまり…」
はー、何を真面目に説明しているのだろうか。ばかばかしくなってきた。
そう思い適当に答える。
「誰かが空にお前は青くなれって言っているんだよ。」
あっ、しまった。
「すいません。言っているんです。」
うっかりしていた。先輩かもしれないし、敬語は大事だ。
そんなことを考えていたが、相手にとってはどうでもいいようだ。
むしろ…
「それは絶対に違うよ。」
解答の内容に興奮していた。
「違うとは論理的に話せと言う意味でしょうか。」
「そうじゃなくて、もっと、全然、違うんだってば。」
二つの握り拳をブンブン振るボサボサ女を僕は心底馬鹿だと思った。
「そうですね。空はきっと青くなれ何て言われていませんね。」
久々に人と話をしたが、ここまでつまらない話も珍しい。話を合わせて適当に終わらせよう。
「そう。きっと空は青くなりたいからなっているのだ。」
「はっ?」
ボサボサ女は人差し指を突き上げて大声で言う。周りの目線が一気に集中して恥ずかしい。
「青くなれと青くなりたいって何か違いますか。」
「違うとも。強制されるか、願望か大きな違いでしょ。」
「それは人間の場合ですよ。ましてや空なんかにそんな細かい…」
「だって空は赤くもなるよ!」
ボサボサ女の言葉がどんな音よりも大きく。いや、違う。まるで世界から切り離されたみたいに、僕のところにしか届かないような、そんな言の葉のような気がした。
「それも誰かが赤くなれって言ったんですよ。」
何で僕はこんな小さいことで対抗しているんだろう。僕らしくもない。くだらない。
「えー、そんなことないよ。」
…。
「それにしても、こんなに人と話したのは久しぶりだな。」
こんな元気で馬鹿そうなやつが、
「友達いないんですか。」
「いることにはいるけど。いつも聞く側が多いから。」
そんな風には見えないけど。
「私、あなたと友達になりたいわ。」
「別にいいですけど。」
断る理由もないし…。
「そう。じゃー、よろしく。えーと?」
そう言えば自己紹介とかしていなかったな。
「山並将也。」
「山並君ね。私は羽咲香。羽が咲く香ると書いて羽咲香。よろしくね。」
パワフルで元気な人に気に入られてしまった。まー、でもたまに好奇心で話しかけてくる奴もいるが、みんな一週間も経つと離れていく。こいつも同じだろう。
「山並君ほどじゃないけど、私もはぐれ者だから。仲間だね。」
ただいつもの奴より数倍面倒だ。こんなバカと一緒にされたくない。
「あっ、そうだ。山並君、何年?」
「一年ですが…」
「あー、同じだ。良かった。」
「だったら溜口でもいいよね。」
もちろんと元気よく返事をしてくれる。腕時計を見る。
「あれ?どこ行くの?」
「もうすぐ授業なの。」
「学科は?」
「英語。」
「残念。違う学科だ。」
それにしては何で嬉しそうなんだ?この女、訳が分からないぞ。
「でも、授業にはまだ早くない。」
ちゃっかり羽咲さんは僕の後についてくる。大丈夫、一週間の辛抱だ。僕なんかすぐ興味が無くなる。
それから二か月が経った。いまだにつきまとわれている。
「ショウ君、一緒にご飯食べよう。」
こんなふうに毎日誘われる。
「山並君って、いつも日替わり定食だよね。たまには違うの食べたら?」
「例えば。」
そう言うと羽咲さんは顎に指を当てて思いを巡らす。
「オムライスとか。ここはオムライスがおいしいって評判なんだ。」
しかし、羽咲さんが買った食券はから揚げ定食だ。
「じゃー、明日はオムライスにするよ。」
いつも選ぶのが面倒くさいから日替わりにしていたけど。メニューを指定してくれるなら楽でいい。
この日から当分、僕はオムライスばかりを食べ、羽咲さんに怒られるのである。
今日の日替わり定食は羽咲さんと同じから揚げだった。
「一個もらい。」
席に座って早々羽咲さんが僕の皿のから揚げを取る。自分のから先に食べろと思ったが口にはしなかった。
今日も目の前では元気なボサボサ髪の女がから揚げと米を交互にほおばっている。
「羽咲さん、友達とかいないの?」
「何で?」
「いつも僕なんかと昼食を食べているから。」
「僕なんかですって、そんなことないわ。」
羽咲さんが力強く言ってくれる。この人、基本いい人なんだよな。
「あなたと喋っていると私はまだ大丈夫って思えるもの。」
いや、実は性格悪い?
「それにこんな私なんかと一緒にいてくれて、とても嬉しい。」
あなたが一方的に話しかけてくるだけな気がする。この人の性格だと誰とでも仲良くなれそうな気がするけど、違うのだろうか。そういえば前に僕と同じと言っていた。
「これからも一緒に飯食いたいなら付き合うよ。」
僕らしくないことを言った。羽咲さんといると、たまに自分を見失う。いや、むしろ違う自分が見えるそんな感じだ。
「うん。」そう羽咲さんは笑顔でうなずく。その顔を見るとなんだか安心する。何で安心しているんだろう。
この二か月、鬱陶しいだけだったはずの羽咲さん。
いきなりバスケをしようと言われたり、カラオケに引っ張られたり、どうでもいい話を五時間くらい聞かされたり。
でも、不思議と嫌ではなくなった。
暖かくて心地よい空気を羽咲さんといると感じた。この感情を何て言うんだろう。今まで感じたことがない。
そもそも今まで僕は感情という感情をあまり感じずに生きてきたんだ。
「分かるわけないか。」
「何が分からないの?」
あっ、口に出ていたか。何て言えばいいんだろう。
「会った時から羽咲さんのこと気になっていて…」
「えっ!」
「その…」
僕は意を決して言う。
「何でそんなに髪の毛ボサボサなの?」
羽咲さんはいつの間にか顔が真っ赤に…風邪かな。
「大丈夫?」
「ボサボサなのは癖っ毛なの!ちょっと期待しちゃったじゃない!」
「ははは」
あれ?今、僕は笑ったのか?やっぱり分からない。
そう言えば最近、死者の魂が見えないな。
そんなある日、僕は初めて見た。羽咲さんが友人らしき人と会話をしている姿を。それはいつもの羽咲さんではなかった。皆に一生懸命合わせている羽咲さんが僕の目の前にいた。いつもの元気いっぱいな感じがまったくない。笑顔も作り笑いだ。僕の知らない羽咲さんがそこにはいた。
今は声を掛けてはいけないと、立ち去ろうとした時。羽咲さんが僕の事に気づいた。羽咲さんは明らかに嫌な顔をした。羽咲さんと出会ってから初めてみた表情。僕はそこからそっと踵を返した。
一か月、羽咲さんに声を掛けられることはなくなった。いつもと同じ、飽きられるのが少し遅かっただけ。そう思いながら生活をした。だけど毎日、胸のモヤモヤが募っていく。まるで体の中のどこかに大きな穴が開いたみたいな、そんな感じがする。これはどんな感情なんだろう。今まで感じたことのない感情。
今まで忘れていた死者の魂が邪魔になるくらい眩しい。囁く声もうるさい。
今日は午前授業しかないので一時には帰路に着くことに。今は九月の後半、秋の始めとはいえまだ暑い。髪から滴る汗が鬱陶しい。今年の夏はもっと鬱陶しいやつがいたおかげで暑さなんて感じなかったな。歩いていると十字路に差し掛かる。噂をすると何とやら、ボサボサ頭の例の女が横の道から現れる。
「…。」
羽咲さんは僕に気づくと気まずそうに俯く。
「久し振り。」
僕のほうから声を掛けてみる。
「今、帰り?」
羽咲さんはゆっくりと頷く。
「一緒に帰らない?」
羽咲さんは何も言わず帰り道に戻る。少し考えてから、どうせ僕も途中まで同じ道だと思い隣を歩く。
「ごめんなさい。」
羽咲さんが小さな声で呟いた。
「避けてしまって…。」
僕は何も言わなかった。何も言えなかった。
「がっかりしたでしょ。いつもと違う私を見て。」
「何で?」
「だって…」
彼女の声が震える。
「私、バカみたいな性格でしょ。だから昔、よくからかわれていて。だから中学生になった時、自分を一生懸命変えようとした。もっとおとなしい性格に。勉強も頑張った。私、これでも法学部なのよ。」
僕の大学の法学部というと、確かに自慢できるくらいに頭がいい。
「一人でいるのが嫌で、たくさん友達が欲しくて、頑張って自分を変えたけど。結局、一人だった。確かに友達と呼べる存在はいたけど、どれも作り物みたいで。だから一人でいるのが当たり前みたいな顔しているあなたが羨ましかった。ありのままの自分でいるあなたが羨ましかった。あなたの噂を聞いてからずっとあなたに声を掛ける機会を伺っていたの。」
僕のボッチは噂になるほどだったのか。少しショックだ。
「あなたは本当の私と友達になってくれた。すごく嬉しかった。あなたの前だけは本当の私で入れたの。だから作り物の私を見てほしくなかった。」
羽咲さんが僕のほうに目線をたびたび送りながら話をする。何をそんなに不安そうに…別に
「別にそんなこと気にしなくていいのに。」
「ショウ君、優しいね。」
「優しいとかそんなんじゃなくて…。」
何て言えばいいだろう。
「僕としてはこの一か月、会えないほうがショックだった。あと、僕のボッチが噂になっているほうが。」
羽咲さんのほうを見ると、ぼー、と僕のほうを見ている。これは驚いているのか、聞き入っているのか。
「それに作り上げた羽咲さんだって、羽咲さんの一部だと思うし、そんなに気に病む必要ないよ。むしろ羽咲さんは偉いと思う。目標に向かって自分を変えようと思うなんて、僕なんて昔っから言われたこと、やるべきこと、それだけを淡々とやっていただけ。友達なんて欲しいと思ったことすらない。面倒くさいし。」
羽咲さんは「えー。」ととても苦い顔をしている。
「でも、羽咲さんはそんな僕を変えてくれた。羽咲さんと一緒にいて、初めて生きていて楽しいと思ったんだ。会えないだけで寂しいと思ったんだ。」
やっと言葉にできた。自分の感情をちゃんと言葉に…。
「羽咲さんのもう一面の顔も知ることができてすごく嬉しいよ。」
「ショウ君はそんな風に考えていたんだ。」
「人によって見える世界なんて千差万別だよ。違って当然なんだ。それを教えてくれたのだって羽咲さんだよ。」
「私、教えてない。」と呟く羽咲さんだったが、やっぱり教えてくれたのは羽咲さんだ。
だから…
「だから僕は羽咲さんさえいればいい。」
そう言うと羽咲さんはリンゴのように顔を真っ赤にした。
「大丈夫…」
「そ、その…」
羽咲さんは歩みを止める。どうしたのだろうか。顔はさらに赤くなる。
「私、ショウ君が好き。付き合ってくれませんか?」
「いや、ごめんなさい。」
断ってしまった。初めて人に断った。しかもものすごくドキドキしている。
羽咲さんは、いっきに暗い顔になる。
「その違うんだ。」
僕は羽咲さんの肩を掴んで弁解する。
「僕なんかじゃ羽咲さんを幸せには出来ないから。」
沈黙が痛い。
「一応、私のために断ってくれたんだね。」
そう言うと羽咲さんは僕の頬を思いっきり叩いた。すごく痛い。人生で一番痛い一撃だった。
「今回はこれで許してあげる。そう理由で私を振るなら、私諦めないから。」
そう羽咲さんはにんまりと笑う。紛れもなく僕の知っている羽咲さんだ。
こうして僕らは友達になった。最高の友達に…友達になったのに…
羽咲さんは…次の日…死んだ。
これほど知り合いがいないことを後悔したことはない。
今朝、羽咲さんは登校時に交通事故に会い病院に運ばれた。そのことを僕が知ったのは大学が終わるころだった。見かけなかったから、おかしいとは思っていたけど。羽咲さんの連絡先を知らない僕は何もできなかった。何とか奇跡的に病院の場所が分かり僕は急いで病院に駆け付けた。電車の中で体が嫌に痺れているのが分かる。体の中が熱を発しているかのように熱い。焦れば焦るほど時間がゆっくり進んでいるような気がする。
病院に着くと、僕は何をすればいいか考える。あれだけ焦っていたのに、いざ到着すると何をすればいいか分からない。とにかく受付カウンターに行って羽咲さんのことを聞いたが、看護師は教えてはくれなかった。
「もしかしてショウ君。」
突然、自分の名が呼ばれる。羽咲さんの呼び方で。
声のほうを見ると、そこには四十代くらいの女性がいた。
「私は羽咲朋子。香の母です。」
正直いうと驚いた。母のほうはボサボサ頭ではないのか。
「あ、あの、羽咲…香さんは?」
「さっき手術が終わって、一応命を繋いだのだけれど意識が戻るまで安心できないって」
そう言う羽咲母は今にも泣きそうな顔になる。
「そうですか。」
励ます言葉など出てこなかった。自分の中からこみ上げてくるものを抑えるので精一杯だった。
「少し話をしませんか?」
羽咲母はそう提案する。僕は黙って頷いた。
僕らはロビーの椅子に座った。
「あなたのことは香からよく聞いていました。」
羽咲母は僕の様子をチラチラ見ながら話し続ける。
「私、実は香の本当の親ではないの。香の母親は早くに亡くなってしまって、香の父親が再婚した相手が私だったの。」
そんな話しを羽咲さんが僕にしてくれたことはなかった。いきなりそんな事実を言われ困惑するのと同時に羽咲さんに少々だが不満を感じる。
「これでも香の母親になろうと頑張ったんだけど。ダメね。今も母親としてどういう心境で娘を見守ればいいか分からないの。」
僕が人のことを言う資格はないが、羽咲さんもそれなりに難しい性格だ。本当の母親でないならなおさら大変だっただろう。
「あの子と初めて会った日から、あの子との間には壁があった気がしたのだけれど。最近、香はあなたの話を私にしてくれるのよ。ろくに会話もなかったのに…。ありがとう。あなたのおかげで少しはあの子の母親になれた気がする。」
その話に嬉しくも思うけれど、今の状況を考えると素直に喜べなかった。
「羽咲さんは僕のたった一人の友達なんです。掛け替えのない大切な…友達なんです。」
だから頼む羽咲さん、生きてくれ。
しかし、その願いが届くことはなかった。
この後、看護師に母親が呼ばれ、僕はロビーに残されたがどうしても気になって近くまでついていった。ほどなく羽咲朋子さんの深々とした泣き声が響き渡った。その声を聞くなり足から力が抜ける。何も聞こえない。何も見えない。頭は真っ白になる。
信じられない。昨日、互いの考えを打ち明け、僕は人生で初めて女の子から告白され、また明日って言ってくれたのに…。
「羽咲さん、また明日って言ったじゃないか。もう明日だよ。何で顔見せてくれないのさ。また、バカみたいな話してくれよ。ウザいくらいに絡んできてくれよ。羽咲さん…羽咲さん…。」
【ショウ君と…】
そう囁く声が聞こえた。目の前に一際輝く光の玉。これはもしかして羽咲さんの魂…。
今まで全く関心のなかった死者の魂。毎日、囁かれる【生き返らせてくれ】という言葉。もし羽咲さんを生き返らせることができたら…。この能力を得たのは、この日のためだと強く思った。
生き返らせ方なんて知らない。けど、今の僕にはこうするしか他に方法がない。
僕はその羽咲さんの魂を朋子さんの泣く声の先に指を差し出すことによって誘導する。
数分経って、朋子さんの泣く声が聞こえなくなり、看護師や医師らしい人たちがガヤガヤと騒ぎ出した。
それから三年が過ぎた。
羽咲さんは死んでいる…いや、死んでいるように生きている。
それはまるで魂が空っぽになったみたいに羽咲さんの目に光は戻らない。
「おはよう。羽咲さん。」
「ショウ君。…おはよう。」
僕はキッチンに向かい湯を沸かす。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「どちらでも…。」
「じゃー、紅茶にするね。砂糖は…」
言いかけて、どうせ無駄だろうと気づく。僕は湯を沸かしながら、朝食を作り始める。
今朝のメニューはご飯、味噌汁、焼き魚にスクランブルエッグ。和食だから本当は卵焼きが定番なのだろうけれど。僕の料理の腕ではスクランブルエッグが限界だった。これでも毎日、料理をしているおかげで少しずつ上達している。
僕と羽咲さんは現在一緒に住んでいる。大学を卒業した後、僕は就職し羽咲さんと同棲することになった。ちなみに羽咲さんは働いていない。
交通事故にあった羽咲さんは無事に目を覚ました後、僕は朋子さん、羽咲さんの母親にたびたび相談を受けることになった。羽咲さんはあの件以来、感情を表に出さなくなった。いや、まるで感情がないような…人形やロボットになったみたいに言われたことだけを素直にやり、何も言われなければ行動を起こさない。そんな人間になってしまった。
そんな恐ろしい変貌を遂げた娘に朋子さんは恐怖さえ覚えていた。そのことについての相談だ。
羽咲さんの父親は単身赴任で簡単には帰って来れないそうだ。交通事故の時も父親が来た頃には羽咲さんも回復しいろんなことが終わった後だった。それでも事後処理というものがあったが、程なくして羽咲さんの父親は帰っていった。はっきり言葉にできるような問題ではないことを父親には相談できず、羽咲さんの友人の僕が相談相手になった。その時の朋子さんの言葉は今でも鮮明に覚えている。
「あの子…まるで生きてないみたい。おかしいわよね、一緒に住んでいるのに…。」
本当、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。羽咲さんを?あんな?風にしてしまったのは紛れもない僕なのだから…。
そんな相談生活が続き、大学卒業直前、僕の就職先も決まったころ、僕は朋子さんに羽咲さんと一緒に暮らさせてくれるよう進言した。父親までこっちに帰って来て話し合いになった。父親の前で羽咲さんを絶対に幸せにしてみせると言った。まるで結婚の申し込みをするみたいだったが、そう思ってもらったほうが都合がいい。僕の最終目標は羽咲さんを元に戻すこと。
それだけだ。
いろいろ話し合うことになったが、朋子さんの助力のおかげで僕は羽咲さんとの二人暮らしをすることになった。
朝、一緒に朝食を食べ、仕事に行き、飲みに行ったりは全くせず、真っすぐ家に帰る。
「ただいま」というと【お帰り】と返してくれる羽咲さん。その羽咲さんは部屋の端っこでテレビもつけずに体育座りをしている。僕が借りている部屋は1Kのトイレとお風呂付。安い物件だから日もあまり差し込まない。そんなところで一日中、体育座りをしていたら気がめいりそうだ。
その後、夕食を作る。きっと作ってと頼めば羽咲さんはやってくれるだろう。けど、ダメだ。私もやると言わせるそれが目的だ。でも、放置すると本当に何もしないから「風呂を沸かして入っていてくれ」と羽咲さんに言う。羽咲さんは黙って洗面所のほうに向かった。
毎日、毎日、羽咲さんは「してほしい」とか「してくれ」などを言わなければ一切、体を動かさない。ずっとあの定位置で体育座りをしているだけ、一緒に暮らして気付いたが羽咲さんは寝ることがない。この風景を見てから、光の玉が僕に【生き返らせてくれ】というたんびに反論する。「生き返ってもいいものではない」と羽咲さんは、羽咲さんであって羽咲さんではなかった。
羽咲さんが風呂から出てきたころ、ちょうど夕食ができた。
「夕食出来たよ。」
反応なし。
「席に着きなよ。」
羽咲さんは席に着く。
「いただきます。」
僕はそう言って、自分の作ったご飯を食べる。
羽咲さんも食べ始める。さすがに食べろとまでは言わなくてもいいみたいだ。
「何か話してよ。」
羽咲さんを元に戻すため揺さ振りをかける。
「おいしい。」
沈黙。
「会話しようよ。気まずい。」
「…とてもおいしい。」
沈黙。会話しようと言っても?とても?が付いただけだった。
「明日は休みだから、どこか行かない?」
羽咲さんは静かに頷く。
「どこ行きたい?」
そう聞いても羽咲さんは何も答えない。
「レンタルビデオで映画でも借りてみるのはどう?」
羽咲さんは静かに頷く。
僕はため息をついて、食べ終わってない食事を後に風呂に向かった。
風呂に入った後、敷布団を二枚敷く。羽咲さんは部屋の隅で体育座りをしている。
「たまには寝たら。」
羽咲さんは黙って布団の中に入る。
寝ろ、と言ったら寝るのかよ。
不快な気持ちのまま僕も布団の中に潜る。
次の日、僕と羽咲さんはレンタルビデオショップに行った。
何を見たいか聞いても返ってくる言葉は「どれでもいい」だけ。とりあえず笑える話の映画を一本借りて帰る。あまり映画やドラマで泣いたり笑ったりすることは少ないが、何とか羽咲さんの見本になるよう無理やりに笑う。けど、羽咲さんは、僕の隣でぼおっと見ているだけだった。
「面白くないか。」
羽咲さんは黙って首を振る。
「じゃー、笑ったら?」
そう言うと羽咲さんは笑顔を見せる。どこか遠い笑顔をする羽咲さんを見て、無理に笑うのを止める。映画は仲良し二人の男子が学校で面白可笑しく生活する笑える映画だが、ラストに差し掛かるとストーリーは急展開をして友人の片方が引っ越しをしてしまうことに感動の別れだ。こういう時、きっと人は泣くんだろうな。羽咲さんはまだ笑顔のままだ。
「こういうシーンで笑うのは気持ち悪いぞ。こういう時は泣くもんだろ。」
そう言うと羽咲さんの瞳から滴が落ちる。笑顔は消え、今は真顔の状態だ。
毎日、毎日、羽咲さんは一向に変わらない。笑えと言えば笑い、泣けと言えば泣き、食えと言えば食事をし、寝ろと言えば寝るし、風呂に入れと言えば風呂に入る。そんな羽咲さんは、羽咲さんじゃない。これは羽咲さんじゃない、羽咲さんじゃない、羽咲さんじゃない。
だんだんと体が熱くなる。血管の一本一本に熱湯が流れているようだ。
僕はたまらずテレビの電源を消す。
「いい加減にしろよ。」
僕は漏れそうな気持の波をこぼさないように声を発する。
「いい加減にしろ!」
それでも大きな声が出た。僕は気づくと羽咲さんの両肩を掴んでいた。
「何が悲しくて泣いたんだよ。何がおかしくて笑ったんだよ。言ってみろよ!」
声はどんどん張りあがる。
「いつも、いつも、いつも、言われたことだけやって、毎日こんな暗いところで座って過ごしてっ!馬鹿じゃないのか。お前はそんな奴じゃなかっただろ!そんな、そんな生きてる意味なんてないみたいにするなよ。まるで…」
言葉に詰まる。次に僕が紡ぎたい言葉…それは…まるで…
「僕じゃないか。」
力ない声が出る。こんなに声を張り上げたのは初めてだ。疲れたせいか弱弱しい声しか出ない。
「僕は変わったんだ。高校までは生きる意味なんて特になかったけど。でも、今は違う。君が変えてくれたんじゃないか。馬鹿みたいな話して、一緒に昼食べて。初めてなんだ、楽しいって思ったのは、嬉しいって思ったのは…。それだけじゃない、悲しみも寂しさも驚きも感情を、心を君は僕にくれたんじゃないか。君が僕に心をくれたんじゃないか。」
羽咲さんの心に届くよう。精一杯、叫ぶがガラガラ声しかしない。
「僕の生きる意味は君なんだ。僕は君がいるから生きている。君のためなら何でもできる。死ぬことだって。だから笑ってよ。自分の意志で、心から笑ってくれよ。」
僕の気持ちのほとんどすべてをぶつけたつもりだった。恐る恐る羽咲さんを見ると困ったような顔をしていた。
「違う…」
そうぽつりと呟いた。
「何だって」
久し振りに?羽咲さん?が発した言葉…。
「違うの。私は…私は…」
「なに、何て言いたいの?」
羽咲さんは何かを探すように目を泳がせる。羽咲さんが自分の言いたいことを探している、まるで自分の心を探すように。だけど羽咲さんは途中で目をつむってしまう。
僕は居ても立っても居られなくなって、羽咲さんを抱きしめた。腕に力がこもる。
「ごめん。本当にごめん。」
これが今、心から出る僕の言葉だった。
「ごめん。」
羽咲さんの表情が見えないのでとても不安だ。羽咲さんはまるで氷のように冷たい。そう思うたび腕にいっそう力がこもる。
不意に羽咲さんが抱きしめ返してくれた。冷たいはずなのに胸のあたりが暖かくなる。
「香。」
僕は彼女の名前を呼んだ。
体がとてもダルい。いつの間にか僕は眠ってしまっていた。
目が覚めると香は部屋にいなかった。体に悪寒が走る。僕は思わず部屋から飛び出す。
町中を走り回る。息が切れても走り続ける。何であんなに目立つボサボサ頭がこんなに血反吐が出るほど走っても見つからないんだ。時間が経てば経つほどいらだちが増す。
こんな時、奇跡なんて都合のいいことは起こらない。死者の魂が見える能力も全然奇跡なんかじゃなかった。生き返った羽咲さんは羽咲さんじゃなかった。羽咲さんはもういない。この世には、もう…。頭にそんな考えが浮かぶが何とか忘れようとかぶりを振る。
こんな時に光の玉の囁きはいつにもまして騒がしく、口が達者だ。
そんなことより羽咲さんを早く見つけないと、早く、早く。そうしないといなくなってしまう。
【もういないだろ】
そんなことない。羽咲さんは生きている。
【あれを生きていると言うのか。】
生きている。今も一緒に住んでいる。一緒にいるんだ。
【一緒にいるだけだ。】
会話だって…
【一方的に話しているだけだ。】
これから、これから、少しずつ戻る…
【何に戻ると言うんだ。】
いつもの、本当の羽咲さんに…
【死体に。の、間違いだろ。】
うるさい!あいつは羽咲さんだ。
【あいつはただの動く死体だ。】
足がもつれて、地面に頭から突っ込む。立たないと、立たないと、でも体の関節全部がギシギシと音を鳴らすようだ。足はがくがくして動かない。何で…
「なんで…」
喉の奥から唸るように声が出る。横を救急車が通る。僕は思わず救急車を追う。疲れた足を何とか動かして走る。途中で救急車を見逃すが、その方向に走り続けると交通事故の現場にいた。車に引かれたのは、羽咲さんだった。
「僕は羽咲さんを二回も死なせてしまった。」
【もともと死んでいただろう】
【おまえがあの女の魂をもてあそんだんだよ。】
光の玉の一言が胸を突き刺す。
自然と涙が溢れてくる。違うんだ。
違う。僕はただ…
羽咲 香が好きなだけなのに…。
完




