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9・夢を追おうと、追うまいと


 八年間勤めた会社を辞めた。

 悪い職場ではなかった。この不景気な時代だ。残っていた方が安定した生活のためには良かっただろう。けれど、やりたい仕事ではなかった。このままで良いのだろうか?と違和感が強まって、ついに限界が来たのだった。

 さっぱりした。

 しかし、その先にある、将来の希望は闇の中だ。

 辞めたことを親に伝えると、「暇なら、おじいちゃんの様子を見に行って欲しい」と頼まれた。

 息子が無職になった心配より、面倒事を私に押しつけられて好都合と言った態度だった。

 祖父は頑固だ。

 老人ホームや、息子の家に居候するのは性に合わず、一軒家で一人暮らしをしている。

 ぼうぼうに生い茂った雑草。庭からは、楽器の音色が聞こえてきた。

 祖父だった。椅子に腰掛け、懸命にチェロを弾いている。

 初めて見る姿だ。

 私が近寄ると、祖父は野良猫を追い払うように睨み付けてきた。孫だと分かると、厳しい顔が一転して、優しいものに変わった。

「重くない?」

「持てないほどではない」

「それ、どうしたの?」

「友人が、年で使えなくなったと言ってきてね。それを格安で私が買ったんだ」

「その人は幾つ?」

「70を超したばかりだったかな?」

「おじいちゃんより若いじゃないの」

 祖父は80歳を超えている。身体はやせ細っても、頭はしっかりとしている。

「ああ、まだ若造だ。勿体ないことをしたな」と祖父は笑った。「チェロは、若い頃に弾いていた。戦争でやめざる得なくなった。それっきりだ。このチェロを見てな、かつての私を思い出し、バッハの無伴奏チェロ組曲を弾きたくなったんだ。それで習ってみることにした。そのうち、全曲弾けるようになって、コンサートを開いてみせよう」

「その年で?」

 祖父は、チェロの弦に触れていた弓を離した。

「おまえの言う通り、今更かもしれない。だが、遅すぎようとも、時間を巻き戻すことはできない。来年は82歳、再来年は83歳、9年生きれば90歳だ。夢を追おうと、追うまいとな」

 再びチェロを鳴らしていく。楽譜を見ながら、真剣に。音は弱い。ミスだらけ。音楽と言える音色ではなかった。

 けれど、しんみりとさせられる、何かがある。

「それで、おまえは何しに来たんだ?」

「会社を辞めてきた」

「これから、どうする?」

「翻訳家になるよ」

 憧れていた夢だ。それなのに、検討違いの方向に進んでしまった。

 やり直すのに、遅すぎることはない。

「そうか」祖父が言った。「やりたいようにするといい」


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