78・プレッシャー
一人になりたかった。
トイレの個室に逃げ込んだ。異臭はあったが気にならなかった。ズボンを下ろさず、蓋が閉まった状態の洋式便器にそのまま座った。
時折、用を足しにきた男たちの足音と、放尿の音が聞えてくる。
自分の腕を見る。鍛えられた肉体。
人を破壊する拳。
すでに何人ものボクサーをノックアウトしてきた。その俺の最大の武器が、微かに震えているのが分かった。
いくらトレーニングをし、完璧な肉体に改造しようとも、精神は初心者のように弱いままだ。
全身を汚染させる不安を吐き出すように、大きく息を吐いた。
ゆっくりと目を瞑る。
リング上を思い浮かべる。
古く黒ずんだ血の染み、先に上がった選手たちの汗、まばらにいる観客たち、俺に指示するレフェリー。
そして、キリンのように長細い顔をしたスキンヘッドの男。
本日の敵はサウスポーだ。
デビュー以来六試合連続で勝ち進んで、ついに俺に回ってきた。
連戦連勝中の奴は調子に乗っている。KOする気で挑んでくるだろう。
ゴングが鳴った。
俺は奴に向かって突進する。ジャブを撲つ。ガード。お返しに左フックが来る。避ける。ストレート。相手はよろける。もう一発だ。
ダウン。
イメージトレーニング。
空想の中で試合を何度も繰り返し、最後は敵のダウンで終わらせる。
こうやって少しずつ自信を植え付けていく。暫くすれば、腕の震えも止まってくれた。
時刻が迫ってきた。
そろそろ呼びくる頃合だ。控え室に戻ろうと、トイレの個室を出た。
「長かったな。心配した」
男子トイレを出ると、壁に寄りかかった美女がいた。
俺を一瞥すると近寄ってくる。長くすらりとした黒髪がなびいていた。
男臭い試合会場には場違いな綺麗な女だ。
「待っていたのか」
「もっと遅ければ、中に入る所だった。まだ不安か?」
「ああ、酷いプレッシャーだ。どうにかしたいものだが、どうやっても襲いかかってくるんだ。こればかりはどうしようもないことだ」
試合前になると必ず、重圧に押しつぶされそうになる。試合の数を重ねようとも、プレッシャーだけは逃れることはできないでいる。
それを背負いながら戦っていくしかない。
「勝て」
「わからん。ベストをつくすだけだ」
「勝つ。私の前で、そう誓え」
負けることなんて考えるな、そう彼女は顔で語っていた。
確かにその通りだ。
負けは許されない。
「分かった。勝ってやるよ」
「よし、それでいい。これで勝ちは決まったようなものだ」
彼女は笑って、俺の背中を押した。




