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78/82

78・プレッシャー


 一人になりたかった。

 トイレの個室に逃げ込んだ。異臭はあったが気にならなかった。ズボンを下ろさず、蓋が閉まった状態の洋式便器にそのまま座った。

 時折、用を足しにきた男たちの足音と、放尿の音が聞えてくる。

 自分の腕を見る。鍛えられた肉体。

 人を破壊する拳。

 すでに何人ものボクサーをノックアウトしてきた。その俺の最大の武器が、微かに震えているのが分かった。

 いくらトレーニングをし、完璧な肉体に改造しようとも、精神は初心者のように弱いままだ。

 全身を汚染させる不安を吐き出すように、大きく息を吐いた。

 ゆっくりと目を瞑る。

 リング上を思い浮かべる。

 古く黒ずんだ血の染み、先に上がった選手たちの汗、まばらにいる観客たち、俺に指示するレフェリー。

 そして、キリンのように長細い顔をしたスキンヘッドの男。

 本日の敵はサウスポーだ。

 デビュー以来六試合連続で勝ち進んで、ついに俺に回ってきた。

 連戦連勝中の奴は調子に乗っている。KOする気で挑んでくるだろう。

 ゴングが鳴った。

 俺は奴に向かって突進する。ジャブを撲つ。ガード。お返しに左フックが来る。避ける。ストレート。相手はよろける。もう一発だ。

 ダウン。

 イメージトレーニング。

 空想の中で試合を何度も繰り返し、最後は敵のダウンで終わらせる。

 こうやって少しずつ自信を植え付けていく。暫くすれば、腕の震えも止まってくれた。

 時刻が迫ってきた。

 そろそろ呼びくる頃合だ。控え室に戻ろうと、トイレの個室を出た。

「長かったな。心配した」

 男子トイレを出ると、壁に寄りかかった美女がいた。

 俺を一瞥すると近寄ってくる。長くすらりとした黒髪がなびいていた。

 男臭い試合会場には場違いな綺麗な女だ。

「待っていたのか」

「もっと遅ければ、中に入る所だった。まだ不安か?」

「ああ、酷いプレッシャーだ。どうにかしたいものだが、どうやっても襲いかかってくるんだ。こればかりはどうしようもないことだ」

 試合前になると必ず、重圧に押しつぶされそうになる。試合の数を重ねようとも、プレッシャーだけは逃れることはできないでいる。

 それを背負いながら戦っていくしかない。

「勝て」

「わからん。ベストをつくすだけだ」

「勝つ。私の前で、そう誓え」

 負けることなんて考えるな、そう彼女は顔で語っていた。

 確かにその通りだ。

 負けは許されない。

「分かった。勝ってやるよ」

「よし、それでいい。これで勝ちは決まったようなものだ」

 彼女は笑って、俺の背中を押した。


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