6・転機
ムシャクシャしていた。
職場で俺の悪口が耳に入った。
廊下の外れにある休憩所に通りかかった時に偶然、聞いたのだった。相手は信頼している部下だ。話し相手は俺を見て驚いていたが、お喋りに夢中のそいつは背中を向けていて気付いていない。
険悪な関係になるのを避けるため、俺はそしらぬ振りをした。
仕事場に戻っても、集中力が失われて、何も身につかない。苛々する。何時間もの細かなミスチェックをする作業に、モニターをぶん殴って破壊したくなる衝動に襲われた。
残業となるのは確実だったが、続けたところで、苛立ちは積もる一方だ。残りは明日にして早めに切り上げることにした。
居酒屋に寄って、酒をがぶがぶ飲んだ。
アルコールに溺れなくては、やってられなかった。
親しくしていた相手だ。そいつすら陰では俺のことを蔑んでいた。ショックだった。笑顔と人を褒めるのが苦手な俺だ。良い評判がないのは自覚している。
それでも、陰口をこの耳で聞いてしまったショックは想像以上だ。
嫌になった。
俺は一体、何のために仕事してきたのだろう。上司の言うことを聞き、部下の面倒を見て、決められた作業を黙々とこなす。
つまらん毎日だ。
やりたくて選んだ仕事じゃなかった。運良く内定が決まり、ずるずると続いていた。脱サラしたくても、安定した収入を得られる保証はどこにもない。俺に成功できる才能など持ち合わせていない。
凡人だ。
出来ることと言えば、酒を飲んで、つまらない毎日に、一人で愚痴をこぼすぐらいだ。
アルコールに溺れて、ふらふらになりながら駅に向かった。
俺は王だ。上司だ。偉いんだ。さっきまで何を気にした? つまらないことだ。もっと良い相手はいっぱいいる。
気分は高潮して、天下を取った夢心地になっている。
そこに女が歩いてきた。
美女というほどでもない。近くに来ると、垂れた目じりが目立っている。
非常に好みで、どこかで見た顔だと、まじまじと見た。
そいつが目の前に来ると、俺のことに気付いて足を止めた。
その時、不意にこう言ってしまった。
「結婚してくれ」
女はびっくりした。10秒ほどして、こう答えた。
「はい」
顔を見合わせた。
彼女はびっくりしたままだった。瞬きを何度もしている。その双眸は、同じくびっくりした俺の顔が映っていることだろう。
酔いは一気に冷めていた。
俺たちは結婚した。
奇妙なものだ。まさか俺の悪口を言った部下と結婚することになろうとは。
世の中、何が起こるか分からない。