8話:魔物と少女
世界の黎明の時間経過は、現実世界の2倍速度で同期している。
現実世界で仕事をしているユーザー達への配慮の為だ。情報化が進むにつれて、仕事は場所や時間を選ばなくなってきてはいるが、それでも昼間働いて夜間の自由な時間にネットゲーム(故郷)にログインプレイヤーの数は少なくない。
一昔前のVRMMOであれば、1日が2~4倍の速度で時間が進み、現実時間で夜間ログインするプレイヤーでも朝や昼も体験できるようになっていた。
しかし、世界の黎明の運営でもあるMGC社が開発した汎用VRパックの目玉として、思考加速による体感時間の増加機能があり、大抵のVRタイトルでは時間加速率が2~4倍に設定されている。
世界の黎明のように加速率が2倍なら、VR空間での2日が現実世界の1日に相当する事になる。そして、季節感覚のずれで脳に負担をかけないように、四季の変化は現実世界に準拠する為、世界の黎明の1年は356日×2の712日ではあるが、春夏秋冬ともに現実の2倍長く続くことになる。
あちこちで木々の花が芽吹く長い春、アイリスの所で初めて迎える朝は、飛び交う小鳥の鳴き声と暖かさに包まれた、深いまどろみと共にやってきた。
………人の形態をしているとはいえ、竜の住処近くで小鳥が平和そうに鳴いているのは、どうだろうと思うものの、睡魔の霧に包まれた頭ではどうでもいいやの一言で片付けられるものだった。
この安らかなまどろみを続けられるなら、竜やら勇者やら魔王とだって戦っても良いと思える至福の時間―――
「アイリス朝だよ、起きなー!……って、おうわぁぁぁぁぁあ!?」
そんな儚い願いはジュリアの大声で破られる事になった。
湖のほとり、昨日作った囲いの所で、冷たい湖の水で顔を洗う。ジュリアに安眠の寝床に抱き枕から引き剥がされ、身支度してきなと追い出されたのだ。
ジュリアは室内やアイリスの着衣の乱れがないかチェックしていたが、けしかけておいて慌てるのはどうかと思う。
武人として一部の隙もないジュリアだけど、もしかしたら随分と初心なのだろうかと疑惑が浮んでくる。
昨日魚を焼くのに使った串を小さな槍のように使い、顔を洗っただけでうようよと寄ってきた肉食魚を10匹ほど獲り、朝食用に確保した。
焚き火の跡に枯れ枝を組んで、下の方へ小枝を重ねて着火の魔術を展開する。
「術式起動、四大元素系火属性、短時間燃焼、”火起こしの灯”」
半透明の小さな灰色の板が開き、短い文字列が流れた後、三角の図形が浮んだ半実体のプレートに変化する。
半実体化した灰色のプレートを小枝の間に挟みこむと、青い炎が噴き出してすぐに消え、小枝の間から煙と炎が立ち上がってくる。
世界の黎明にといて、魔術の使用条件は単純だ。正しいキーワードを使い、魔術の内容を記述し、構成された魔法陣に必要な魔力を消費するだけだ。
魔術を使う上で正しいキーワードはパターンが決まっているのですぐに覚えられるが、魔術の記述が困難とされている。
VRMMOタイトルの中には古代ラテン語やらヘブライ語の記述が必要なのがあるらしいが、世界の黎明では運営であるMGC社が採用しているE-(いーまいなす)というプログラム言語で構築されている。
魔術の構築とは、プログラム言語を使ってどんな魔術であるか、どんな効果を及ぶか、その一部始終をプログラムする事だ。
プログラム言語の習得や操作法は、料金を払えばインプランターで気軽に覚える事が出来るものの、イメージ入力コンソールがあるとはいえ、戦闘中にプログラムを構築し、ミスチェック(デバック)、実体情報への組み換え(コンパイル)を行うのは簡単な事ではない。着火のような簡単なものならともかく、戦闘に使うような魔術は構築文量も多い。
補助ツールがあるとはいえ、一連の作業の大半を自前の脳で処理しなければいけないので魔術の規模が大きくなるほど、脳へかかる負担も蓄積される疲労も跳ね上がる。
そして、魔術の記述という難関を乗り越えた魔術士達に立ちふさがる問題が魔力だ。MPとも呼ばれているが、古典のRPGのように宿屋で寝れば一晩で回復するようなお手軽仕様ではない。
魔力を回復させる方法はただ一つ、通貨や宝石など資産価値のあるものを『魔力変換』スキルで魔力に変換して溜める方法しかない。
魔法使いの資質という、現実にはない才能で左右されないものの、即物的にも程があると多くのユーザー達は言う。
名前の売れた大魔術師達は、借金漬けで破産状態になってるか、多少浪費しても問題ない程度の金持ちのどちらかだという。
着火の魔術程度なら消費する魔力は僅かなものの、火打ち石入りの火口箱を買ってきた方が余程安上がりなのだ。ただ、お手軽で便利なので愛用してしまっている。
皿一枚ないので、手ごろな葉を皿代わりに使い、朝食用の焼き魚と緑紅葉という水草のマリネを作っていると、元気そうなアイリスと、どことなく疲れた顔のジュリアがやってきた。
「おはようございます、2人とも。朝食が出来ているのでどうぞ」
「お、おお…こんな料理らしい料理を見たのは久々だよ。はむ……美味しい、美味しいよ、ユキ!」
満面の笑みで背景にハートマークでも飛ばしてるような喜び方でアイリスがマリネに食いつく。木の串を利用した箸をつけたものの、アイリスの箸裁きは上手くない。これも要練習ですねと、心の中でメモしておく。
アイリスの様子を見ていたジュリアが、はぁ…と重めの溜息をついて小声で話しかけてきた。
「……確認するが、何もなかったんだよ…な?」
「据え膳は残さない方なので、アイリスがもう少し男女の機微を知っていたら怪しかったですね」
もっとも、積極的に迫られたとしても気軽に乗るわけにいかない特殊な事情もあるのだけれど、黙っておく。
「お前はもっと堅物なヤツだと思ってたのに、幻想砕くのが早いだろうよ」
「アイリスをけしかけたのはジュリアでしょうに。あの様子ではエージェント業務の中に添い寝が増えそうです」
「なあユキ。どうやってお嬢をたらし込んだんだ?前向きな癖に、結構人見知りするあの子に1日でここまで懐かれるとか、あの位年齢の子を口説き慣れていたりするのか」
「失礼な事を言われてる気がしますね。大した事はしていませんよ。人型の(ラインオーバー)魔物としてではなく、一人の女の子として接しているだけです」
女の子として接していると聞いた後、静かになるジュリア。
きっと思いもよらなかったのだろう。人から魔物プレイヤーへ転生する者達はアイリスのような特殊な例を除けば、大なり小なりはあっても基本ろくでなしばかりだ。
そんな魔物プレイヤー達を見てきたジュリアにとって、アイリスをただの女の子として扱うというのは考えた事もなかった。
ジュリアはアイリスをお嬢と呼んでいるが、少女としてのアイリスではなく、魔物プレイヤーとしてのアイリスとして見ていた事に、ユキに指摘されて今更ながらに気が付いたのだ。
そう、アイリスは強力な魔物プレイヤーに分類されるものの、人間としてのアイリスは両親や保護者に甘えたいさかりの少女でしかない。
「そっか…そうだな。まだまだアタシも未熟だなぁ」
決まり悪げにつるりとした爬虫類独特の皮を持つ頭を撫でるジュリア。
「エージェントという仕事柄、たまたま気が付いたようなものですよ」
「…ん?待てよ。女の子扱いするとして、添い寝とかどうなんだ。割とギリギリだけど、ギリギリアウトじゃないか?」
「………自制心が試されるのは確かですね」」
「聞かなきゃよかった。不安が増えたよ、アタシは…」
朝食と食休みが終わると、湖の近く。日照が良く水はけの良さそうな場所を探して全員で移動した。
狩猟者達の遺品から鉄スコップを2つ取り出し、木の棒に蔦でくくりつけて簡易的なクワを作り、アイリスとジュリアに渡した。
「では、自活の為の第一ステップです。基本は『農業』スキルによる食料の栽培です。幸い春先ですし、育てる植物には事欠きません。まずは『開拓』スキルと、そこから派生するスキルを覚えて熟練度を上げながら、畑を作りましょう」
「一つ聞いていいかな、ユキ。割と広い範囲を囲うように焦げた草でラインが引いてあるんだけれど、まさかこの中をボク達3人で畑にするのかい…?」
アイリスが見渡す範囲は25m×20m程度の範囲。木こそ生えてないものの、雑草が生い茂り、大小さまざまな石が転がっている。
「まさか、この広さを3人でやろうなんていいませんよ」
にこりと微笑み答える。
「そうか。安心したよ」
「この程度の広さなら、アイリスとジュリアのスキル熟練度を上げるには悪くないでしょう。当然、2人でやって貰います」
ぱっと顔を輝かせるアイリスへ、残酷な事実を突きつける。希望を持たせてから落とすのは決して趣味ではないので誤解しないで頂きたい。
「………え?」
絶句するアイリス。良い表情ですね。
「ジュリア、あなたの集落は人間達の通貨で農具の購入とかできますか?」
「あ、ああ…基本的には物々交換だが、この辺で流通してる硬貨の類ならだいたいはな」
この後の大仕事を想像してか、ひきつった顔のまま答えるジュリア。
大丈夫、疲労で人はなかなか死にません。特にVRMMOの中なのですから。
「良かった、場所を教えて貰えますか?間に合わせの道具と、多少品質が落ちてもきちんとした農具では随分と違いますからね」
必要そうな農具のリストを頭に浮かべながら集落の場所を聞いていく。
直線距離ならかなり近く、湖の水が流れ落ちる滝の下から続く川の下流らしいが、そこまで降りていくには回り道が必要なのだそうだ
「昼食までには戻りますから、出来るだけ頑張って下さいね」
捨てられた子犬のような瞳をする2人に背を向け、徐々に日差しが強くなってくる道をリザードマンの集落へと足を向けるのだった。
「これ本当に2人で耕すのかい……?」
「お嬢、手を動かそう。何もしなかったらユキの反応が怖い」