猫、産んじゃった。
前書き
ある日わたしは美少女に成っておりました。
死亡広告の横に流れる部屋の中、私は初めて鏡を見ると衝撃を受けたんです。まるで鏡に知らない人が映っていまして、良い体躯とは云えませんがあばらの浮くか浮かないかの瘦せ過ぎない肉付き、眼が覚めて直ぐでしたから、髪は少しの油気を含んで居ますが長い黒髪をさらさらさせています。そうして、何と云ってもこのお顔立ちでして、筋の良い鼻立ちにきりりとした眼つきはその睫毛も相まって冷えた露を一点凝視するような、そんなお顔立ちと相なります。
しかし又そんな美しい風体とは離反するように、日の差すこの部屋は埃や滓、そんな散らかりをごみごみと許している。昨晩の雨に湿り気を含んだ六畳間は塵の放散に微かな臭気と朗らかな朝の光とをそこに宿していた。鏡越しに床のシミだとかを見た私はごみごみとした光景にさらにごみごみとヤな気持ちを投げ掛ける程。私は暫く動けなかった。
―今日未明、ランニング中の男性により、橋の下に・・・―
塵の色々を追いやるべく、座敷箒をさっさっと畳の筋に沿わせて穂先を引いてゆく。この音が快いやら耳のちりちりとした痒みに指を裏に辷らせました。時折落ちている猫の毛が細く光に当たって山吹に澄む。細い毛を指の腹にいっぽん抓んで山吹のつやにふっと息を遣った。すると外の風に乗かって、途端畳の底が冷えてゆく。その冷えに私はしゃがみ込んだ。寒さと云うのが好きでして、窓枠のレールにちょっとある様な朝の露のころりと清い玉、そう云うのを感じては寒さの中に懐かしさと淋しさとをしんみりとさせるのでした。そうして黄色いゴミ袋を持った。大抵は塵であるが、違うものもある。乾燥麺の袋に幾千かの札が入っていると、暫くは密閉、気密なものに内容物を確認したり、ねばこいた器の口に虫のイヤな感じを投影するが尚開けて仕舞う。片付けにそうした余白の幾つかあって、いつか私は考える余地をよほどに膨らませるのでした。
部屋には鏡があった。身体をすっぽりと覆う縦長の鏡で、私はそれを見つめていた。一体私は何なのだ。鏡の女に問うてみた。確かに是は私であるが、私は確かに是ではない。鏡の女はじっと黙って居る、張りの良い頬をしとやかな指先でなぞりながら。私のホントは何処に消えた。油気の少しあるのか女の顔だけ歪んで黒い。霊は鏡に写らぬらしい。ならば私は幽霊だ。私のホントは何処に消えた。私は鏡に写っていない・・・。
やがて私は掃除を続けた。黄色のごみ袋に次に次々放り込んでゆく。ふと一枚の写真があった。猫の写真。首輪をひっさげた飼い猫である。すると冷ややかな風が吹き抜けた。心に懐かしく、一つ風吹き、又淋しかった。
連日の死亡広告がうつって居る・・・。
それから幾月も経った後です。秋も漸うと、香りのいい稲穂の穫り入れが始まった頃。私は散歩を嗜んでいまして、普段の道をいつもの様に歩いておりました。家の近くには公園があって、中々に大きく、そこに池がある。私はその周りを淵に沿って歩くのです。淵には草の剥げた土が踏み固まって居たり、砂利が木影の下に詰めてあったり、紅葉の梢に一葉ひらりと水鏡に波を揺らす、そうして木の柵を以ってぐるりと水辺を周って居る。私はそんな景色を好んで、まだひんやりしている内によく出掛けた。木の下の涼みに足を止めて、ゆったりとここを眺望するのが、何とも心地よく生きていると云う感じがする。して、私はその全てを眼に入れては、辺から辺へと心を倒してゆくのでした。すると一点妙な気が致します。あそこは手入れの荒い所で、如何せん草木のぼうっと伸びきってしまって、羽虫のよく湧くやら蛇の出るやら、じっと影のはっきりした所でした。そこに一寸、粒があった。眼を窄めますと、何か小さく反射していた。私は視界の動かぬようにじっと首を止めた、水溜りのダムを棒で引いたような池の丸みが見えて、恰も西洋の風景画如き私の視界にちろりと小蜘蛛のような粒が回った。光の集光に眼をかっぴらいて、又暫くすると、ふっと愛しさが私の心を揺すったのでした。そうして私はゆっくりと歩を進めて粒の方へと淵を散歩し始めました。
「君、ちょっといいですか。」長椅子の傍で声を掛けられた。
「いや。ちょっとかわいい子が居る、なんて思いましてネ」
「はあ。」
「ハハハ、いやちょとね。冗談々々、ハハハ。いや、ちょっと、待って待って!」
私は歩幅をぐんと広げた。が、この男は腕を掴んで来る。
「ジョウダン。ねっ、分かる? 冗談。」
私は少女になってから言い寄られる事が多かった。少女と云えども実際は二十歳位かそんな気がするが。必然睨むことの多くなった眼は日に日に鋭さを増していた。
「あっ、いや、ホントに。ほら僕、あれだよ、ほら、巷を騒がしてる例の事件の、そうそう、第一発見者。」男はランニングに椅子で涼まっているようだった。
「ほらっ、最近物騒でしょ。何かと、皆騒いで」
「何の用ですか。」
「いや君、知ってるでしょ。動物、始めはネコ、大抵は鳥、でも最近は犬、そしてやっぱり猫。イヤでしょ。僕が見たのは首が無かったの。よしょ(長椅子に腰掛けながら)、茂み、大抵暗いとこで発見されてる。ほら。」男は道をなぞって行き行き、あの荒い茂みを指差した。
「君、行こうとしてたでしょ。ああゆう所ね、転がっているのは」
「・・・」
「危ないヨ、気を付けないと」
「・・・」
「まっ、気をつけて。僕も怖くって、夜走るのはヤめてんだ。」男はじっと座って居た。
・・・それから男は静かになりました。幾分経ったか、風も冷えて居る。そうして私は息を殺して淵の砂利を又静かに踏み始めたのでした。
「どうぶつ、どうぶつ。・・・ああいうのは次のをやっちゃうと止まらない。」
その時辺に、砂利が鳴った。
やがて、のうのうと散歩する私は例の茂みの近くへと来たのでした。道が通って居ると雖も人影の少ない所でして、羽虫の湧いたり、伸び切った草木が肩に触れたりと、樹木の梢が木の柵の上へと紅を掛けている。ここを迂回するように新しく道が出来たそうで、ずっと置かれてこんな有様の茂みでございます。梢に葉の一枚。指で軽く揺すりますと、冷えた空気を下りて下りて、池の水鏡を紅染めの葉が倒影と挟んだ。私は虫の苦手がありませんから、この茂みに自然の手入れのない原生を感じては、心の底に独り喜ぶのでした。すると、視界の裾に何か蠢いて居る。私は例の話で少々怖気づいて一寸離れてそれを見て居る。草木のかさかさ擦れる、喉が渇く、鼻に水辺の臭みが乗った。かさかさ、かさかさ。そうしてふっくり顔を覗かせたのです。
「にゃぁ」猫でありました。
「にゃ」澄んだ色味の稲のような猫でした。
澄んだ毛並みの雄猫は首を静かに擡げました。凛々しい風采の佇みに日に返った蜘蛛の糸を追う様な、そんな冷えた瞳です。私は一瞬の内に動感の静かなこの猫に、胸のどきりとした感じを投擲されていた。猫はこちらを覗いています。水面が揺れる。私は徐に手を伸ばしますと、紅葉の枝先を撮んで、ゆっくり梢を下ろしました。眼線を鼻先の紅葉にくれて、葉に覗いた猫は、木の葉のちらちらと光る隙間に又静でありました。私はゆっくりと底の冷えた土に蹲み、紅い梢のその先をとんっと弾く。そうして暫く見つめては、ふっと柔らかに微笑んだ。梢の葉はひらりひらりと数秒浮いては重みに沈みます。やがて紅は一枚になって、そっと私の鼻先へ下りたのでした。猫がふさりと尾を振った。
「何重。」―――そうしてもうすぐ一年が経とうとして居ました。
私達は色々な事を共に過ごした。何重は野良であった事も忘れて、散歩に呼んでもぷいっと背く始末。しかし時折、夕日が沈む時刻に私が帰路に就きますと、路傍に何重とばったり会う。夕日が影を引き延ばしそれに合わせてか、私達もゆっくりと歩いた。旅行に出掛ける事もありました。桜咲く並木を見、白の漆喰と黒とがくっきりと対比する城下町、殊に良かったのは広島、廿日市市にあります厳島の社。厳島神社と云いますとあの巨大な鳥居が有名でして、干潮になると潮が引いて、若干ぬかるむ浜の水を穿きものの裾に含ませて歩を進める。鳥居を見上げますと私は落ち着いて、潮の香りが鼻に良かった。何重は鞄の中で鹿を見つめておりました。そうして又一年が過ぎようとしている。何重の定位置は窓際の木枠、私も寄って旅の傍ら集めた本を月夜に照らされめくるのが好みだった。
しかし最もなのは、私の妊娠が発覚した事でした。ある日の夕暮れ、夕焼けの投下が焦げたように全てを黒く染め上げた時、それはこのようにして判明したのです。
部屋には又赤く染まった日が窓から一筋差しておりました。埃も叩けば響くような閑散とした部屋の中、時折外に出ては夜まで帰ってこない何重を余所に、私は普段の読書を親しんでいた。ページを捲る快い音で、冷風も相まって瞼の締りも落ち着く日暮れ、白紙の片面の横に「蜜柑」。題名が印刷されて居ました。私は「蜜柑」の文字に親しみを感じつつ、妙な気持ちの起こるのを感じた。それをじっと眺めてみたり、開いた儘にして夕陽の影に蜜柑が掠った時、私はこの奇妙な心持の一端をはっきりと自覚致したのです。明朝体の蜜柑を影の投下が二つの漢字へと境界を引いた、朗らかな日の色と暗い影と、片面の真っ白がその文字をきっかりと引き締めている。この場景にあぁ面白いと思うと、その時分に片面の微かに浮いているのを見つける。黒い「蜜柑」に影が乗って果肉の重みにページが落ちる、そうして空白の片面が何にもなく真っ白で夕陽の照りに仄かに暖色であった、それが又微かに浮いている。この体験は風吹く土の匂の中で、私には高級なものだと思えた。私にとってこの夕暮れの始終は貧清な高級だった。それは懐かしきを思う云い様のない喜びに私の中で違いなかった。
するとその瞬間でございます。私は一寸お腹の変な気が致したのです。意識しますと、途端に具合が悪くなって来る。空気のしぼんだ心臓が緊張すると弱くこそばゆいみたく。後ろの壁に背中を預けますと、何でもない身体の張りに私は幾つか咳込みました。夕日が程なく黒くなってゆく、黒文字の蜜柑にスピンを引っ掛けた文庫本、片手に垂らしてお山座りに蹲った、私は先の品格に中てられて懐旧の情に脈拍の狂ったのも少々。興奮気味に身体の弱い所を打たれたのかとも思いましたが、恥骨から腰の付け根にかけてのぴりりとした鈍痛にこの考えに懐疑をやった。
「げほ、ほっ」―――これは暫く続きました。
「ごほ、んっ、ほっ、こほ」―――夕焼けの部屋に暫く続いた。
・・・もう夕日もずんずんと沈んで仕舞って、墨色の空に白けた霞が底に沈殿している。部屋は暗く々々、窓辺に私独り。玄関に眼を遣った、闇に何重が座って居る。
「っ、おかえりなさい。」・・・鼠を一匹咥えていた。
その深夜、検査薬には二本の線が浮かんでおりました。
一年になります矢先、日課の読書に耽っては窓辺で風に服を辷らせて涼んでいた。家屋に澄んだ朝日の投下が起こる真下、窓の外にはいきり立つ子供の群れがわいわいとはしゃいでいました、実に涼しい声音に凛と、ともすれば懐旧の情を引き起こしてしまう。私は健やかに張ったお腹をさすって、もうじき終いなる入道雲のこめこめとした凝りに秋の予感を親身にさせていた。えへへと笑って、
チャイムが鳴った。私は近頃立ち上がるにも苦労しました。茶色い韋の栞を文庫本へと挟むと若い畳の縁に被せた。苦心して上がりますと、そのままゆっくりと、のそりのそりと、影の薄い玄関へと壁を伝って行ったのです。サンダルの擦れる音。ゆっくりと柄に手を遣り、
チャイムが鳴った。
―――蝉が啼く。暫く柄に手を置いている。
チャイムが鳴った。
―――風が冷える、戸の隙間から。息が詰まって、そっと指先を離す。
躊躇った。扉の向こうを不気味に感じて、開けると取り返しの付かない様な気がする。ですから、そっと後ろへ下がって、廊下を引き返しました。冷たい廊下をゆっくりゆっくり歩いてゆく、お腹に障らない様に。が、黒色の木を踏んだ時、私は刹那に苦痛に悶え苦しんだ。感じたことの無い痛みに吐瀉物が床のつやを濁してゆく。私は医者に診せていなかった。それは一つには私の懐妊は人のそれとは違っていたから。だから何をされるのか怖かった。そう思うと、ひそひそと独り支度を整えていたのです。
夏の朝の閉じた窓。畳の敷布団に風呂桶とタオルと、布団で身体を少し反らせて、何重の居ない部屋の中にいつか声が喘ぎ始めた・・・。
―――女は猫なのである。部屋の中で目覚めたあの女は家猫なのである。そうして、お気づきかと思われるが、行為の相手は何重であった。女は何重に一目惚れをしたのだ。それから月日を共に過ごして、何重も女に心を解かしていった。何重は鼻から女が猫だと気づいていた。極当たり前に行われる男女の営みは、彼らにとっても常套であった。初めては月夜に濡れた。懐妊は二か月。人間にはありえないが、しかし女は猫である。女の身体は雌に合わせた。そうしてさっき苦悶ないし喜びの中で、五匹の猫が股に産まれた。安産であった。女は顔を赤くして、胎盤へと歯茎を剝き出しに食らいつこうと、食らいつこうと、子供にミルクを用意するのだった。女はふっと微笑んでいた。
やがて何重は帰路に就いた。夕日は陰り、町も夜の静寂にもうじき沈む。ふにゃと一欠伸。ゆったりと歩いてゆく。勘であるが、何重は己が子の誕生を予感していた。と思うと、猛々しく尾が天に揚がってその毛並みの黄金を夕日に反らせる。何とも分からぬ幸福が何重の脚をずんずんずんずんと徐に加速させてゆく。何重は走った。黒ずむ世界の傍に走った。夕日が照り付け小さな影を引き延ばそうとも何重は走り続けた。何重は一心に子等の下へと駆けて行く、女の顔を浮かべながら。
もう上から下へと白けた空の墨染めに、月が丸く昇っていた。何重は戸の前に、次に見る子等の姿を思いながら一時に耽っていた。
戸を開けた。闇が、廊下のまっすぐを吞んでいた。踏み込みぎぎぎという音が闇をさすった。寝室の六畳間は傍にあって、少し襖が開いている。月光は埃を打った様にちらちらと光って、女の死体を包んでいた。猫の足跡は真っ赤であった、白い月光に真っ赤であった。もう子猫はみんな死んで、首のない女の傍にとてとてと死んでいた。何重は暫く動けなかった・・・。
・・・血の匂いを辿ろうと、ふと、小さな粒に気が付いた。女は首を失くしていて、乳房がぽろりと立っていた。その乳房を弱く口に挟んで、乳をちゅうちゅうと吸う、澄んだ毛並みの粒の様な子猫が一匹、月夜に母と包まれておりました。




