表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『99時間の慣らし運転(エージング)』~会社を辞める前に、ベテラン整備士に教わった「自分を使い倒す」という働き方~

掲載日:2026/04/12

五月病という言葉がある通り、新しい環境に飛び込んだ直後は、誰しも「自分はこの場所でいいのだろうか」と足が止まりそうになるものです。

「仕事がつらい」という感情を、もしシステムエンジニアが使う「ある言葉」に置き換えたら?

日曜日の夜、明日が少しだけ怖くなくなれば幸いです。

 日曜日の二十一時。

 入社一週間目の佐藤さとう れんは、暗い自室で鞄を見つめていた。

 中には、何度も書き直した一通の封筒が入っている。

 表書きには『退職願』と、震える文字で記されていた。

 配属先は、海沿いの巨大なプラント。

 そこで蓮を待っていたのは、最新のスマートな仕事とは程遠い、油の匂いと、うなり声を上げる巨大な旧式ポンプだった。


「……僕の価値は、こんな場所で消費されるためのものじゃない」


 そう自分に言い聞かせても、胸の奥で鳴り続けるエラー音は止まらなかった。

 気づけば、夜のセンターの入り口に立っていた。

 明日の朝、上司に退職願を出す前に、自分の担当した場所を最後に見届けておきたかった。

 真夜中の制御室には、一人の先客がいた。

 ベテラン整備士の、前田まえだ 善造ぜんぞう

 この道三十年の古参で、現場の人間からは親しみと敬意を込めて「ゼンさん」と呼ばれている男だ。


「……あ、前田さん。お疲れ様です。お休み中なのに」


 前田は叱るでもなく、隣の椅子を引いた。


「おう、蓮か。ちょうどいい。こいつの音、お前にはどう聞こえる?」


 スピーカーからは、改修を終えたばかりのポンプが吐き出す、不規則な振動音が流れている。


「……苦しそうというか、悲鳴みたいに聞こえます。やっぱり、これだけ古いと限界なんじゃないですか」


「そうか。じゃあさ、『エージング』って言葉は知ってるか?」


「……慣らし運転、ですよね」


「正解。今、こいつは先週の再起動から、ちょうど99時間目だ。金属同士が馴染もうとして、必死に火花を散らしてる。一番熱を持って、一番エラーが出やすい時間だよ」


 前田はコーヒーを一口飲み、静かに問いかけた。


「蓮。お前がいま感じてる『ここじゃない』っていう苦しさ。これ、機械に例えたら何て呼ぶと思う?」


 蓮は少し考え、掠れた声で答えた。


「……僕自身の、エージング、ですか」


「お前ならそう答えると思ったよ」


 前田は優しく目を細めた。だが、蓮は膝の上で拳を握りしめた。


「でも、前田さん。僕はただの『部品』として、ここで擦り切れたくないんです。合わない場所に居続けるのはリスクでしかない」


「部品、か。……なあ、機械が動くことを何て言う?」


「『カドウ』……稼働、ですよね」


「そう。じゃあ、その『カドウ』の『ドウ』は、どんな漢字だ?」


「えっと……働く、ですね」


「そうだな。でも、本来機械が動くだけなら、にんべんの無い『稼動』が正解のはずだ。なのに、なぜあえて『働く』という字が使われるか、考えたことはあるか?」


 蓮は言葉に詰まった。考えたこともなかった。


「わざわざ『人』がついているのはな、そこに人が関わって、意志を込める必要があるからだと俺は思う。ただ機械に任せて動かすだけなら、それは作業だ。だが、お前という人間がそこに介在して、何かを変えようとした瞬間に、それは『働き』になる」


 前田は、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。



「お前は、会社という大きな機械の一部になりに来たのか?」


「…………」


「それとも、お前の人生っていう物語を面白くするための『素材』として、この会社を使いに来たのか? どっちだ?」


 蓮は息を呑んだ。


「この現場も、頑固な俺たちも、全部お前のキャリアを磨くための砥石であり、材料だ。会社に使われるな。お前の人生を最高に面白くするために、この会社を使い倒してやるんだよ」


 前田は蓮の肩を軽く叩いた。


「そう思えたとき、お前はもう、ただの新人じゃなくなる」


 二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。


 時計の針が重なり、二十四時を告げる。

 その瞬間。


 それまで不規則に唸っていた重低音が、ふっと一本の、澄んだ安定した音へと変わった。



 累積稼働時間、100:00:00。



「……音が、変わった」


「エージング完了だ。……で、蓮。お前の『100時間目』はどうする?」


 蓮は鞄の中の封筒に触れた。


 でも、もうそれを取り出す必要はなかった。


「……明日、この現場に僕なりのパッチを一本、当ててみます。前田さんを驚かせるようなやつを」


「楽しみにしてるぞ。……これからは、俺のことも『ゼンさん』って呼んでいいからな」


 自分を信じ、この場所を自分の舞台に変えるために。


 蓮は今、本当の意味での一歩を踏み出した。


 おはよう、100時間目の世界。



最後までお読みいただきありがとうございます。

仕事や環境に馴染めない時間を「欠陥」ではなく「慣らし運転」と捉える。

私自身、現場で大切にしてきた考え方を物語にしてみました。

「自分は会社の部品ではない、会社が自分の人生の素材なのだ」

この言葉が、誰かの心のパッチになれば嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ