『99時間の慣らし運転(エージング)』~会社を辞める前に、ベテラン整備士に教わった「自分を使い倒す」という働き方~
五月病という言葉がある通り、新しい環境に飛び込んだ直後は、誰しも「自分はこの場所でいいのだろうか」と足が止まりそうになるものです。
「仕事がつらい」という感情を、もしシステムエンジニアが使う「ある言葉」に置き換えたら?
日曜日の夜、明日が少しだけ怖くなくなれば幸いです。
日曜日の二十一時。
入社一週間目の佐藤 蓮は、暗い自室で鞄を見つめていた。
中には、何度も書き直した一通の封筒が入っている。
表書きには『退職願』と、震える文字で記されていた。
配属先は、海沿いの巨大なプラント。
そこで蓮を待っていたのは、最新のスマートな仕事とは程遠い、油の匂いと、唸り声を上げる巨大な旧式ポンプだった。
「……僕の価値は、こんな場所で消費されるためのものじゃない」
そう自分に言い聞かせても、胸の奥で鳴り続けるエラー音は止まらなかった。
気づけば、夜のセンターの入り口に立っていた。
明日の朝、上司に退職願を出す前に、自分の担当した場所を最後に見届けておきたかった。
真夜中の制御室には、一人の先客がいた。
ベテラン整備士の、前田 善造。
この道三十年の古参で、現場の人間からは親しみと敬意を込めて「ゼンさん」と呼ばれている男だ。
「……あ、前田さん。お疲れ様です。お休み中なのに」
前田は叱るでもなく、隣の椅子を引いた。
「おう、蓮か。ちょうどいい。こいつの音、お前にはどう聞こえる?」
スピーカーからは、改修を終えたばかりのポンプが吐き出す、不規則な振動音が流れている。
「……苦しそうというか、悲鳴みたいに聞こえます。やっぱり、これだけ古いと限界なんじゃないですか」
「そうか。じゃあさ、『エージング』って言葉は知ってるか?」
「……慣らし運転、ですよね」
「正解。今、こいつは先週の再起動から、ちょうど99時間目だ。金属同士が馴染もうとして、必死に火花を散らしてる。一番熱を持って、一番エラーが出やすい時間だよ」
前田はコーヒーを一口飲み、静かに問いかけた。
「蓮。お前がいま感じてる『ここじゃない』っていう苦しさ。これ、機械に例えたら何て呼ぶと思う?」
蓮は少し考え、掠れた声で答えた。
「……僕自身の、エージング、ですか」
「お前ならそう答えると思ったよ」
前田は優しく目を細めた。だが、蓮は膝の上で拳を握りしめた。
「でも、前田さん。僕はただの『部品』として、ここで擦り切れたくないんです。合わない場所に居続けるのはリスクでしかない」
「部品、か。……なあ、機械が動くことを何て言う?」
「『カドウ』……稼働、ですよね」
「そう。じゃあ、その『カドウ』の『ドウ』は、どんな漢字だ?」
「えっと……働く、ですね」
「そうだな。でも、本来機械が動くだけなら、にんべんの無い『稼動』が正解のはずだ。なのに、なぜあえて『働く』という字が使われるか、考えたことはあるか?」
蓮は言葉に詰まった。考えたこともなかった。
「わざわざ『人』がついているのはな、そこに人が関わって、意志を込める必要があるからだと俺は思う。ただ機械に任せて動かすだけなら、それは作業だ。だが、お前という人間がそこに介在して、何かを変えようとした瞬間に、それは『働き』になる」
前田は、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前は、会社という大きな機械の一部になりに来たのか?」
「…………」
「それとも、お前の人生っていう物語を面白くするための『素材』として、この会社を使いに来たのか? どっちだ?」
蓮は息を呑んだ。
「この現場も、頑固な俺たちも、全部お前のキャリアを磨くための砥石であり、材料だ。会社に使われるな。お前の人生を最高に面白くするために、この会社を使い倒してやるんだよ」
前田は蓮の肩を軽く叩いた。
「そう思えたとき、お前はもう、ただの新人じゃなくなる」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
時計の針が重なり、二十四時を告げる。
その瞬間。
それまで不規則に唸っていた重低音が、ふっと一本の、澄んだ安定した音へと変わった。
累積稼働時間、100:00:00。
「……音が、変わった」
「エージング完了だ。……で、蓮。お前の『100時間目』はどうする?」
蓮は鞄の中の封筒に触れた。
でも、もうそれを取り出す必要はなかった。
「……明日、この現場に僕なりのパッチを一本、当ててみます。前田さんを驚かせるようなやつを」
「楽しみにしてるぞ。……これからは、俺のことも『ゼンさん』って呼んでいいからな」
自分を信じ、この場所を自分の舞台に変えるために。
蓮は今、本当の意味での一歩を踏み出した。
おはよう、100時間目の世界。
最後までお読みいただきありがとうございます。
仕事や環境に馴染めない時間を「欠陥」ではなく「慣らし運転」と捉える。
私自身、現場で大切にしてきた考え方を物語にしてみました。
「自分は会社の部品ではない、会社が自分の人生の素材なのだ」
この言葉が、誰かの心のパッチになれば嬉しいです。




