脱出
伊吹は言われるがまま、京香の後を追いかける。
伊吹達は万が一屋敷に危害を及ぼす人物が来た場合、どのように対処するかは何度も避難訓練を行っていた。
地下室には外へ逃れる為の隠し扉が用意されており、数日分の着替えや現金などが入った旅行鞄が用意されているのだ。
伊吹のスマートフォンには銀行口座を管理するアプリも入っており、金で困る事もないだろう。
「どうやら屋敷に押し入ったようです」
美子からあらかじめ決めていた合図を受け取り、京香は伊吹を外へと逃がす決断を下した。
スマートフォンで近隣の住民へ連絡を取り、近くまで車で迎えに来てもらうよう段取りを付けた。
不審人物達が乗って来た車が、屋敷に停めてある三ノ宮家の自家用車を塞ぐように停められていたので、車を出す事が出来なかったのだ。
(まるで映画みたいだな、ちょっとワクワクしている自分がいる)
伊吹は地下室で普段着の甚平から白いタートルネックとジーンズに着替えた。
パッと見て男性であると分かりにくい事を優先しているので、季節外れではあるがそれを着るしかなかった。
京香も侍女服を脱ぎ捨ててワイシャツとスラックスへ着替えた。
伊吹は久々に京香の下着姿を目にし、どうしようもなく胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
本来であれば警察署へ駆け込むべき状況であるが、不審人物達が警察官を連れてやって来たので判断が難しい。万が一警察署で侍女である京香の方に疑いを持たれれば、伊吹を守る者がいなくなってしまう。
京香は近くで身を隠すよりも、一度大きく距離を離してから身を隠す方が良いという判断を下した。
「東京へ向かいましょう。男性保護省は現時点でどこまで信頼が置けるか分かりかねますが、少なくとも橘香と美哉は信頼出来ます。
状況が整理出来るまで、都内の安全なホテルに身を隠しましょう」
京香は伊吹にGPS機能を切った上で、スマートフォンの電源を落とすように言った。京香と美子のスマートフォンには、伊吹の現在地が分かるようにアプリがインストールされている。
万が一美子のスマートフォンが奪われた際、悪用されない為の対策だ。
伊吹は地下室を出て、京香の後ろを着いて行く。腰を屈めてゆっくり庭の隅を歩いていると、屋敷の中から怒鳴り声が聞こえて来た。
「なりません、どうか耐えて下さい」
屋敷に残っている美子の身を案じ、戻ろうとする伊吹を京香が諭す。
何よりも伊吹が一番大事。
祖母である心乃春の遺言を思い出し、伊吹は奥歯を噛み締めて歩みを進める。
屋敷の駐車場から衝撃音が響く。それも複数。
「これで襲撃犯の車も動かせないわ!」
「絶対に殺すな! 伊吹様に穢れが伝染る」
「可能なら出血も控えるように」
「屋敷が汚れるものね」
「あの警察官達は?」
「無力化済みよ」
聞き覚えのある声が伊吹の背中越しに届く。ご近所さん達が駆け付けたようだ。まるで訓練された部隊のように落ち着いている。
「生まれて来た事を後悔させてやる」
「伊吹様には指一本触れさせない」
「全部の指を折ればいいわね」
「ついでに両足もいっとこう」
「殺せ殺せ殺せ!」
「だからダメだってば」
(ご近所さん、だよな……?)
そんなやり取りに驚きつつ、伊吹は屋敷の敷地から出て、さらに進む。
屋敷から少し離れた場所で停車している車が見えた。運転席に誰かが乗っており、京香の姿を確認して合図を送っている。
京香は伊吹に先を行かせ、後ろを振り返りながら車へと近付く。
「いたぞ!」
二人が車に乗り込む直前で襲撃者に気付かれてしまい、京香は伊吹を無理やり後部座席へ押し込んだ。
「ダメだ! 置いていけない!!」
「すぐに追いつきますから!」
車から降りようとする伊吹に首を振り、運転手に早く車を出すよう叫んだ。すぐに車は急発進し、山道を下って行く。
祖母の死。
屋敷への襲撃。
身を挺して自分を逃がしてくれた侍女達。
荒ぶるご近所さん達。
(大丈夫、これが映画なら絶対にハッピーエンドのはずだ……)
伊吹は山道を進む車の中で、少しずつ現実逃避をする。
(実は大規模な避難訓練で、車が向かった先に美哉と橘香が待っている)
(実はご近所さん達は俺の身を守る忍の一族で、襲撃犯を返り討ちにする)
(避難した核シェルターに入った途端、冷凍睡眠装置に入れられて気付いたら百五十年後)
だんだんと非現実的な空想へと思考が偏って行くが、伊吹は自分の身の安全はもちろん、美子と京香の身も何らかの意思が働いて無事に脱出出来るはずだと思い込み、最悪な結末を考えないように、考えないようにとしていた。
「あの車は追手ですね、多いなぁ」
運転手から外から姿を見られないようにと言われ、伊吹は後部座席で伏せている。
かなり長時間移動しており、現在地がどこなのか伊吹には判断が付かない。
やや運転が荒く、運転手もあまり運転に慣れていない雰囲気が伝わって来る。
(そう言えば、運転手は誰なんだ? 聞き覚えがない声がけど、まさか運転手が実は襲撃犯の一味だった、なんて結末はないだろうな?)
「このまま新幹線の駅まで向かいます」
在来線が通る最寄り駅では一日に止まる本数が少ないので、追手に見つかる危険性が高い。
新幹線の駅であれば、人混みに紛れて逃れる事が出来るだろうと運転手は説明した。
「分かりました」
「もう少しで着くはずなので、もうちょっと伏せておいて下さいね」
運転手に若干の違和感を覚えながらも、今は従うしかないと思い直し、伊吹は素直に返事をした。
新幹線の停車駅に到着し、運転手が駐車場に車を停めた。
「新幹線の切符の買い方は分かりますよね?」
「え? ええ、多分大丈夫だと思います」
伊吹としては、この人生で新幹線の切符どころか、自分でお金を出して何かを買った事すらない。
それなのに、運転手は何故か伊吹ならば問題ないだろうと思っているような口ぶりで話す。
運転席から振り返った運転手の顔に、伊吹は心当たりがなかった。
「新幹線に乗る前に、一度スマートフォンを起動して無事である事だけでも伝えておいてはいかがでしょうか?」
「なるほど、そうします」
伊吹は運転手に言われた通り、スマートフォンを起動して美子と京香、そして美哉と橘香へと無事である事だけメッセージを送る。
万が一、美子と京香のスマートフォンが襲撃犯の手に渡っている可能性を考えて、どこにいるかとこれからどこへ向かうかについては伏せておいた。
そしてすぐにスマートフォンの電源を落とした。
「話さなければ男だってバレないでしょう。多少は東京観光をしても問題ないと思いますよ」
車を降りる伊吹に対し、運転手は微笑みながらそう話した。
伊吹は、自分を元気付ける為の冗談だろうと思い、笑って礼を伝え、手を振り別れた。
新幹線に乗ってようやく、伊吹は肌着が汗でぐしゃぐしゃになっている事に気付く。
一度興奮が冷めてしまうと、本当にこれは現実なのかと、映画を見ているかのような不思議な感覚に陥る。
前世でトラックに轢かれ、生まれ変わった自分。
母親の死。
祖母の死。
美哉と橘香とは離れ離れの寂しい毎日。
山奥の隠れ住むように暮らす日々。
さらには自分を攫いに来た襲撃者から逃れるという非現実感な状況。
今世では山奥から出ず、新幹線など乗った事はおろか見た事もなかった。
(二人は俺の師匠だ。誰であろうと負ける訳がない)
美子と京香の無事を祈り、ただただ窓の外を眺める伊吹。気を抜くと最悪の未来を想像してしまい、胸が締め付けられる。
(大丈夫、すぐに屋敷に帰っていつも通りの生活に戻れる。大丈夫)
『話さなければ男だってバレないでしょう。多少は東京観光をしても問題ないと思いますよ』
運転手が話した冗談を思い出し、伊吹は自分が空腹である事に気付く。
(そうだ、ついでだしラーメンでも食べに行こう。こってりラーメンはあるだろうか。
ここまで来ればスマホを起動しても問題ないだろう)
スマートフォンで検索し、伊吹は前世で好きだった、全国展開しているこってりラーメンに似た店を検索する。
(みぃねぇときぃねぇはまだ研修時間中だろうから、連絡を取るのはラーメンを食べた後でも良いかな)
新幹線が東京駅に到着し、スマートフォンの画面と観光案内を見比べながら在来線へと乗り換え、目的のラーメン屋へ辿り着く。
人は満腹になると気分が高揚したり、陶酔感や幸福感で痛みや疲労感、ストレスなどが和らぐ。
気が緩み、伊吹が独り言を零してしまった事をきっかけとして、運命の女性と出会う事となった。




