日常の終わり
「東京での生活はどう?」
「都会だと言っても、いっちゃんがいない街に魅力なんてないわ」
「早く帰りたいけど、いっちゃんの為でもあるから頑張るからね」
年に一度しか帰省出来ない美哉と橘香だが、限られた時間であれば携帯電話で話す事が出来た。
二人が東京にある国立侍女育成専門学校へ進学したのは、自分の侍女になる為。二人はいつか自分の元へ帰って来てくれる。
伊吹はそれを楽しみに生きているようなものだった。
(二人がいないと本当につまらないな。漫画もアニメもネットも何も面白いと感じない)
この世界の娯楽は、前世世界を知る伊吹にとって満足出来るレベルにない。テレビや携帯電話、車に飛行機に新幹線など、多少の違いはあれど存在するのに、だ。
娯楽に満足出来ない分、伊吹は考える時間が多い。
何故この世界は前世世界の科学技術レベルに対して見劣りしていないのに、娯楽レベルは勝負にならないほど低いのか。
科学技術については恐らく、西暦でいうところの一九〇〇年代初頭までの基礎技術の上で発展を遂げている。様々な技術の延長線上を進んでいるので、前世世界との差異が少ない。
しかし、娯楽に関しては違う。娯楽は個人の小さな閃きが元となり、世界へ影響を及ぼす。
映画を撮影する技術はあっても、製作に関わった者がヒッチコックと同じ閃きをしなければ、同じ影響を与える事が出来ない。
ギターは存在していても、ビートルズほど世界中に影響を与えるバンドが生まれるとは限らない。
漫画もアニメも同じ事が言える。
ただ、この世界の女性達が前世世界の神々よりイマジネーションやインスピレーションで劣っているかと言えばそうではない。
一九〇〇年代初頭という激動の時代が、娯楽へ力を入れる事の出来る余裕のない時代であった事も大きな要因となっている。
帝政ロシアで起こった内戦が爆心地であるとされる、ウイルス兵器に起因するパンデミック。
当時の世界人口の三分の一が死亡、そのほとんどが男性であった。
男性主導で動いていた国家という枠組みを、新たな女性指導者達が掌握するのにも様々な苦労があった。
また、国内の人口減少対策にリソースを取られ、植民地支配や覇権争いをするほど国同士に余裕はなかった。
その後、同時期に男性保護のシステムと人工授精技術を確立させた日米による技術面での主導権争い、後に精なる戦争(精戦)による技術革新が進む事となるが、伊吹の前世世界に比べ数十年のタイムラグが発生している。
そんなこの世界で生きている伊吹。
この世界にもそれなりに愛着を感じているが、しかし前世世界の事も考えてしまう。
自分が好きだったアニメや漫画のストーリーなどを可能な限り書き出して、決して忘れないように努めた。
自分が忘れてしまえば、もう取り戻す事が出来なくなる。自分以外にあの感動を、あの衝撃を、あの熱狂を経験した者は、この世界にはいないのだ。
(俺に小説投稿サイトを立ち上げる為のプログラミングの知識があれば、この世界の神になれただろうになぁ。
今からでも勉強してみるか……)
ネットで注文してプログラミング言語の教本を取り寄せてみたは良いが、伊吹には全く理解出来なかった。
「知らない事を知ろうとするのは良い事だよ」
心乃春は積極的に学ぼうとする伊吹の姿勢を褒めたが、本人としては心底落胆していた。
(ダメだな、前世の知識で物語を広めようにも、その前段階で躓いてしまった。
専門家に頼んで外注するのが良いだろうけど、おばあ様が許してくれないだろうなぁ)
専門家に外注するとなると、伊吹が外部の女性と直接的であれ間接的であれ接触する事となる。
屋敷のご近所さんは別として、外部の人間と接触する可能性のある事について、心乃春は絶対に許さなかったのだ。
外出する際も、この村の中だけに限られ、この山から下りる事は一度もないほどの徹底ぶりなのだ。
◇
「心乃春様!?」
就寝前、伊吹が自室でノートパソコンを開き、自分が書き出してきた文書ファイルを読み直して何か忘れている作品はないかと唸っていると、美子の叫び声が聞こえて来た。
伊吹は何事かと様子を見に行くと、心乃春が廊下で倒れているのを発見する。
「おばあ様!?」
祖母とはいえ、まだ五十六歳。急に倒れるような年齢ではない。
慢性的に抱えている病気なども聞いておらず、たびたび朝の稽古に加わるほど元気な女性だ。
京香がすぐに救急車を呼ぶが、この屋敷は山奥の田舎にある為、到着には時間が掛かる。
息をしていない心乃春に馬乗りになって、美子が心臓マッサージを続ける。
「代わって! 僕がやる」
「しかし!」
心臓マッサージを続けるのは膨大な体力を消耗する。すでに息が上がっている美子を無理矢理どかせて伊吹が続ける。
そしてまた美子が代わり、伊吹が代わり、美子が代わってと続けていると、遠くから救急車の音が聞こえて来た。
「伊吹様。どうか、自室へお戻り下さい」
心乃春の衣類などを纏めた鞄を抱え、京香が伊吹へ深々と頭を下げる。
「何でですか?
僕におばあ様が大変な時に部屋でじっとしてろって言うの!?」
「救急隊員に、お姿を見られては、余計な厄介事が、発生する恐れが、あります! どうか!」
美子が心臓マッサージを続けたまま、伊吹の身の安全についてを諭す。
「美子さんまで……」
美子と京香の二人は三ノ宮家に仕える侍女ではなく、あくまで伊吹個人に仕える侍女である。
優先するのは伊吹の安全。それは心乃春からも事あるごとに伊吹へと伝えられている。
何があっても伊吹が一番大事なのだ、と。
「分かった。おばあ様の状況は逐一知らせてほしい」
そして、まだ目を閉じたままの心乃春の手を握り、必ず帰って来てねと耳元で声を掛けて、伊吹は自室へと戻った。
その後、心乃春が屋敷に帰って来る事はなかった。救急車の中でも意識は戻らず、病院に着いてすぐに医者から死亡診断が下された。
「またお別れ出来なかった」
骨壺に入れられての帰宅。咲弥の遺影の隣に飾られる心乃春の遺影。
仏壇の前で一晩、二人の顔を眺めていた伊吹に、美子から心乃春の残した遺書が手渡される。
・この遺書は自分の身に万一があった際に伊吹へと用意したものである事
・伊吹は咲弥が精子提供を受けて人工授精で授かった子供ではなく、自然妊娠で授かった子供である事
・咲弥からはいつか自分から伝えるつもりだからと口止めされており、例え本人が亡くなっているとはいえ娘の意思を尊重したいので、それ以上詳しい事は記さないつもりである事
・伊吹は望まれて生まれて来た子供であり、時には厳しい事を言ったり、伊吹にとって納得出来ないであろう事も言ったりしたが、心乃春は心から伊吹を愛していた事
・咲弥が最期に伝えた通り、大きく育ってくれて嬉しい事、そしてこれからも優しく愛ある男性でいてほしい事
心乃春の直筆で書かれた遺書を読んでも、伊吹は全く涙が出なかった。あまりに突然の別れ。そして葬式にも出席していない事で余計に実感が沸かないのだ。
これから自分はどうするのか。
山奥の田舎で一生を終えるのか。
静かで穏やかな生活をずっと続ける事が出来るのか。
美子が、京香が、近所の誰かが亡くなっても自分がその葬式に参加させてもらえず、ずっとここで自分の番を待ち続けるのか。
美哉も橘香も電話越しに心配してくれるが、ほぼ生返事をする程度しか出来ず、ゆっくりと心が沈み続けていっている感覚。
空虚感。
虚無感。
無力感。
(消えてなくなりたい……)
心乃春の死去からどれほどの日数が経ったか伊吹には分からないまま、ただ日々を過ごしていた頃。
屋敷のチャイムが鳴る音が聞こえ、少しして京香が慌てて伊吹の自室へ飛び込んで来た。
「新しく派遣された侍女だと名乗る集団が警察官を連れて乗り込んで来ました。私と美子さんが伊吹様の侍女としての役目を国から罷免されたという書類を持って来ていると話しています。
明らかにおかしいです。恐らく目当ては伊吹様の身柄です。
今は美子さんが時間を稼いでいますので、すぐに地下室へ避難して頂きます」
「……分かりました」




