男装の麗人(男)
オフィス街、昼食時を少し過ぎた時間帯。
支払いを終えた伊吹がこってりラーメン屋から出て来る。すぐには歩き出さず、ビルの陰で吹き出る汗をハンカチで拭う。
(生きてるーーー!
夏場にタートルネックで食うもんじゃなくけどやっぱ最高だなマジで)
伊吹は現在自分が置かれている状況を完全に忘れて、生を実感している。
前髪からその表情を覗かせて、周囲の女性達から注目を集めてしまうが、当の本人は気付いていない。
「どうぞー。男装ってあっついですよねー。私も時々するけど、さすがに今の時期にタートルネックはきっついでしょー。
でもその姿勢は大好き」
道端でうちわを配っていたアルバイトの女性が伊吹に歩み寄る。伊吹は小さく頭を下げてうちわを受け取った。
「あー、声も出さないなんてちょー本格的ですね。私ってば男装中に声掛けられたら調子に乗ってベラベラ喋っちゃってちょー幻滅されるんですよ。こないだなんて、声が女だって言って怒鳴られて散々でした。
あ、このうちわ、男性化整形の病院のなんで必要ないかもだけど良かったらよろしくでーす」
しっかりとアルバイトとしての職務をこなし、離れて行く女性。声は大きいが、あまり長く話すと迷惑が掛かるという気遣いを感じる。
伊吹の様子を窺っていた他の女性達が、二人のやり取りを見て興味をなくしたように立ち去っていく。
耳の辺りを押さえて離れていくアルバイトの背中を見送りながら、伊吹は貰ったうちわで顔を扇ぐ。
「しかし本当に暑いな。これ脱いだらヤバいんだろうか」
肩まで伸ばされた髪の毛は、汗で濡れて頬やうなじにぺったり張り付いている。
坊主頭にしたらダメかなぁと呑気に考える伊吹男の目の前に、スライディング土下座をかますビジネススーツ姿の女が現れた。
「話を聞いて頂けませんか!?」
混雑する時間を過ぎているとは言え、オフィス街である。
伊吹自身への注目はなくなったが、今の二人の状況に対して再び注目が集まってしまう。
「……良いですけど、場所変えません?」
「ありがとうございます! では少し離れた場所にある喫茶店へ参りましょう!
もちろんお茶代は私が持ちます!!」
立ち上がり、ずれたメガネをクイっと直したショートカットの女を見て、伊吹はキャリアウーマンだなぁという印象を覚える。
「力強いナンパねぇ、私も若い時は女と分かりつつも男装の女に……」
と、うんぬんかんぬん言いながら野次馬していた女性達が通り過ぎていく。
「ささっ、こちらへどうぞ」
伊吹はスライディング土下座キャリアウーマンに腕を掴まれ、近くの喫茶店へと向かう事に。
百七十五センチの伊吹に対し、ヒールを履いているスライディングキャリア土下座ウーマンは少し低いくらいの身長だ。
「暑いですし、アイスコーヒーで良いですか?」
「そうですね」
男は女に答えつつ、すれ違う一見男女のカップル、に見える女性達を見て、自分達もそういう風に見えるのだろうと納得する。
カランコロン♪
路地を入った先、落ち着いた印象の純喫茶風の店へ入る二人。
慣れた様子で女はカウンターの向こうにいる店員に右手の指を二本出してアイスコーヒーを注文した。
他に客はいないようで、店の雰囲気にピッタリなジャズが流されている。
店内の一番奥、商談にも使えそうなテーブルの壁際のソファーを伊吹に勧め、女は自らお冷とおしぼりを取って来てテーブルに置き、そして対面の椅子へと腰掛ける。
冷たいおしぼりを首筋にあてがい、女がふーっと小さく息を吐く。
「ババ臭いけどついついやっちゃうんですよね」
「分かりますよ」
では僕も失礼して、とおしぼりを広げて顔を拭く男。
おじさん臭いですよね、と言い掛けて寸前で止める。今の自分の置かれた状況を思い出し、しかし慌てずにおしぼりを畳んでテーブルに置く。
「お化粧じゃないんだ……」
怪しまれたか、と伊吹の背中に冷や汗が伝うが、今さらである。
逆に堂々としていれば案外バレないのではないか、と開き直って笑顔を浮かべる。
伊吹は小さく深呼吸をした。
自然に、自然にしていれば何も問題ない。別に悪い事をしている訳ではない。
お冷に口をつけて唇を湿らす。
ちょうどその頃合いで店員がアイスコーヒーを運んで来た。
白いシャツの上から緑のエプロンをつけ、黒いズボンを履いている。
改めて店員を見た伊吹は、六十代くらいかなと想像する。他に店員はいないので、この女性が店主であると当たりを付ける。
「こんな良い男連れて来て、あたしの子宮が若返ったらナプキン代もあんたの会社のツケに入れとくからね?」
「止めてよママさん。今から大事な話するんだから」
この世界では喫茶店の店主をママさんと呼ぶのだった、と伊吹は認識を改ためる。
テレビやその他メディアを通じてこの世界の常識を把握しているつもりではあるが、伊吹の今世の出身地はかなりの田舎であり、人と触れ合う機会もかなり限られていた。
「あらそう、まぁごゆっくり」
ママさんは伊吹に微笑んで、カウンターへと戻って行く。
ママさんはもし他の客が来た場合、二人の会話が他のテーブルに聞こえないようにか、音楽の音量を少し上げた。
カウンターへ戻ったママさんへ向けて小さく頭を下げる女。
伊吹は二人のやり取りから、この女は近くに住んでいる、もしくは近くに勤め先があるのだろうと推測した。
「まず、自己紹介させて下さい。私、こういう者です」
椅子から立ち上がり、名刺入れから出した名刺を差し出す女。
伊吹は中腰程度に立ち上がり、両手で名刺を受け取る。
「ヴィヴィッドカラーズ、代表取締役、社長……?」
「はい、Vtunerの管理運営会社を経営しております、VividColors代表の宮坂藍子と申します」
「これはこれはご丁寧に。三ノ宮伊吹と申します。
今は何もしてないので無職です」
「何もしてないんですね!?」
ダンっ、とテーブルに両手を突き、前のめりに伊吹を見つめる藍子。
その勢いに押され、伊吹はソファーへと仰け反るように腰を落とす。
「おっと、失礼しました。取り乱しました」
「はぁ……」
藍子は椅子に座り直し、アイスコーヒーへミルクとシロップを垂らしてストローでかき混ぜる。
伊吹はブラックのままのアイスコーヒーが入っているグラスを傾け、ぐびりと嚥下した。
「どうかされました……?」
伊吹は、ストローを持ったまま呆然と自分を見つめる藍子に対し訝かしげに問い掛ける。
「えっ!? いえ、すみません。
その、ただアイスコーヒーを飲まれただけなのに、すごく色っぽく感じまして……」
「はぁ……」
伊吹はただアイスコーヒーを飲んだだけで色っぽいと言われた経験などない。
が、相対してじっくりと観察されると、仕草一つでボロが出てしまうのだと気付き、再び曖昧に相槌を打って誤魔化した。
「えっと、Vtunerにご興味はありませんか?」
「えっと、ぶいちゅーなーって何なのでしょうか?」
知らない事は知らないと答える。変に知った振りをしても、いずれは分かってしまう。
そう祖母に躾けられた経験から、素直に尋ねる伊吹。
ちなみに伊吹がぶいちゅーなーと聞いて頭に浮かんだのはラジオのツマミである。
藍子は伊吹の完璧な男装の姿格好から、自分の興味がある事は突き詰めるが、そうでないものは全く気にならないタイプなのだろうと受け取った。
「YourTunesはご存じですか?」
「動画配信サイトですね。
あぁなるほど。バーチャルユアチューナーと言う意味ですか」
一を聞いて十を知るとはこの事か。藍子はVtunerを知らない伊吹が、少しの説明で答えに辿り着いた事に感心する。
一方、伊吹は前世の知識として、Vtuberを知っていただけである。
頭の回転が速ければ、視聴者との会話も上手いに違いない。
早くもVtunerとして活躍する伊吹のアバターを想像する藍子。
これはとんでもない逸材を発掘してしまったのではないだろうか。
テンションが上がった藍子は立ち上がり、両手を差し出して頭を下げる。
「私と契約して男性系Vtunerになって下さい!!」




