5.公爵家
その日、レティシアは馬車の中にいた。
『明日は父上も仕事を休むみたいだ。レティ、たまには帰ってこない?』
ほんの数時間前、通信機に残された兄の言葉。
仕事の鬼の父がその仕事を休むなど、絶対にありえない。兄の声は穏やかで普段と変わらなかったが、自分が知らないところで家に何かあったのかもしれないと、レティシアは公爵邸へ帰ることにした。
「おかえりなさいませ」
馬車から降りるレティシアを出迎えるのは、公爵家に仕えるたくさんの使用人たち。
そんな彼らを前に、レティシアは堂々としていた。
「ただいま。お父様とお兄様は?」
「旦那様は書斎にいらっしゃいます。公子様は……」
レティシアに答えるのは侍従長のみ。
その時、
「レティ!」
エントランスにつながる巨大な階段を駆け下りてくる、銀髪の青年。兄ヴィルヘルムの登場だ。
「ただいま戻りました、お兄様」
「おかえり。待ってたんだよ」
レティシアになかば飛びつくように抱きしめ、よしよしと頭を撫でる。
少々大げさなようにも見えるが、妹を何よりも大切にするヴィルヘルムには、このくらい当然だ。
「疲れてないかい?お腹が空いているならお菓子を用意させようか」
「お兄様」
久しぶりの妹の帰還にはしゃぐ兄を、レティシアは一言で諫める。
「本日のお呼び出しの理由は、何でしょうか」
真面目な顔をしていれば、兄も真面目に答えてくれる。それをレティシアは知っている。
案の定、レティシアの顔を見たヴィルヘルムは、一気に真面目になった。
「こちらで話そうか」
レティシアの部屋は、綺麗に掃除されている。急な帰省だったにも関わらず、埃1つない清潔に整えられた部屋。
着替えないままソファに座ったレティシアの向かいに、ヴィルヘルムが座る。
レティシアはメイドたちにお茶の用意だけをさせ、すぐに人払いした。
「お話とは?」
「それが……」
ヴィルヘルムは真面目にそう呟いたかと思うと、すぐに立ち上がり、レティシアの隣に来た。
次の瞬間、彼は妹を抱きしめる。
「僕がレティに会いたかっただけだよ」
「お兄様、ふざけないでください」
「ふざけてないって。この前も様子がおかしかったし、心配でね」
兄に心配をかけたことは自覚している。朝早くから通信機を使うだけならず、涙を見せてしまったのだ。
「……申し訳ございません」
「謝ることじゃないよ。でも、もう大丈夫そうだね」
「えぇ。アカデミーで友人もできました」
「それはよかった」
心から喜んでいる顔。兄は、必要になれば感情を隠すことができるが、不要な時は隠そうともしない。父にも妹にも似つかないその姿は、乳母から母にそっくりだと言われていた。
「レティ」
兄がもう一度レティシアを抱き寄せる。レティシアは黙って身を任せた。
母に抱かれているかのような安心感。母を知らないレティシアにとって兄は、育ててくれた乳母と同じように、母を重ねる人物だった。
その日の夕食の席、レティシアは久しぶりに父を見た。
変わらない銀髪。変わらない薄い色の瞳。そして、変わらない、何も感じられない表情。
少し老いたのだろうが、それを感じさせない威厳。
小さい頃は、ほとんど会わない父に怯えて、大泣きして乳母を困らせた。
その度に慰めてくれたのは兄だ。少し成長すれば、兄の後ろに隠れてしか父に会えないようになった。
ダイニングに響く、カトラリーがぶつかる音。
父と娘の複雑な雰囲気を読んでいるのか、ヴィルヘルムすら声を発する気配がない。
「……アカデミーは」
そこに響いたのは、地面から響くような父の声だった。
思わずビクリと反応してしまったレティシアは、次には胸を張る。姿勢を崩してはいけない。
「どうだ」
「変わりありませんわ。お父様に報告するようなことは何も」
その視線に、レティシアは思わず言葉に詰まった。
父を見てもいないのに、この突き刺すような視線は何だろう。全てを見透かされているかのようなこの視線は……。
一瞬だけ兄に視線で助けを求める。しかし彼は、眉尻を下げて口元に笑みを浮かべただけだった。
父も兄も知っているのだ。
「お父様に報告するべきものではないと判断しておりました」
「必要か不要かは私が決める。お前が判断することではない」
横暴だが、これも父の愛だと、兄は言う。レティシアにはよくわからないものだ。
「王太子殿下が側妃を選ばれたようです」
一気に一息で。レティシアは言葉を吐き出した。
父はもちろん反応しない。兄は、
「……レティ、大丈夫?」
と優しい目で妹を気遣った。
「かまいません。側妃ですから、我が公爵家に影響することではないかと」
「アカデミーを卒業しないと、正式な婚約はできない。内定前に許婚者以外の相手を選んでいるのは、問題だと思うよ。殿下はそれがわからない方ではないと思っていたけれど」
兄の声が冷たい。父と同じ、感情の感じられない声。ロードリックが本当にそれをしないとは思っていなかった、ということだろう。
「父上、陛下にご進言くださいますか?レティがかわいそうです」
「……あぁ」
婚約関係を解消することはできないのか。内心残念に思いながらも、それはわかっていたことだと、レティシアは心の中で言い聞かせる。
王家とアークヴィースト公爵家は、常に近い存在でいなければいけない。
強大な力を持つアークヴィースト公爵家が、王家に反乱を起こさないために。
先々代国王が当時のアークヴィースト公爵令嬢と結婚した。次はレティシアの番。
そうやって、この国は成り立ってきた。
レティシアであっても、王太子であっても、この決定を覆すことはできない。
「そういえば、レティは友達ができたって言っていたね」
兄が話題を変える。ようやく喋り出した兄に、今回は父が噂の真相を聞くために呼び出したのだと悟った。
「はい。話が合う、いい友人です」
「どこかの家の子かい?」
貴族家かどうかを気にしているのか。優しい兄とはいえ、やはりそこは公爵家の後継者だ。
「トラヴィス伯爵家のレスリー嬢です」
どうだろう。一応貴族家ではあるが、その内情は貴族とは言えない部分もある。
兄に、そして父に、認められる友人なのか。
「そっか。よかったね」
兄がそう言ってくれた。父も何も言ってこない。
よかった。心の底からホッとする。
「仲良くするんだよ。レティ、友達は初めてだろう?」
「本ではたくさん読んでいますわ」
「物語の中と現実は違うんだよ」
友人すら、自分ひとりでは決められないのか。家族の許可が必要なのか。
兄の楽しそうな笑顔を、レティシアは複雑な気持ちで見つめていた。
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「アークヴィースト嬢の噂の件、何者かが故意に流しているものと思います」
従者から報告を受けた彼は、わずかに呆れを示す。
「知ってるよ」
そうでなければ、ここまで様々なうわさが流れるはずはない。
アイリスという名の平民の少女への、いやがらせの数々。
そのどれも、彼女がしているという証拠はないのに、まるでそれが真実かのように語られる。
いったい誰が流しているのだろう。何のために?
彼には思い当たる節があった。
前の人生、彼女を追い詰めた人間たち。その中でも、アイリス・コンラッド。
可能性は高い。前回の人生で、彼女が死んだことで誰よりも得をした人物だろう。
前回の人生でも同じことがあった。あの時は噂ではなく真実だったのだが。
彼女は間違ったことをしていないのに。それがいじめだと断罪された。
「……略奪すればいいのに」
悶々と悩む主人に、従者がポツリと呟く。
「もちろんそれでもいいんだけどね」
しかし、そう答えた主人に、ドキリと一瞬引いた。
「でも、できれば彼女が幸せになる方法を選びたいんだ。もちろんいずれは僕のものにするけどね」
「……矛盾すぎません?」
従者の声は今まで以上に呆れていた。