4.うわさ
「レスリー、今日も図書館に?」
レティシアが尋ねる。
「えぇ。でもその前に、先生に質問に行きたいの。先に行っていてもいいわよ」
レスリーからの返事。
「わかったわ。お先に」
これがレティシアの日常。
レスリーという友人ができたレティシアは、今までひとりで楽しんでいた勉強の時間も、レスリーとともに図書室へ向かう。
しかし今日は、レスリーはいないらしい。あとで来るとのことだったので、レティシアは先にひとりで図書室へ向かう。
図書室までの道はもう見慣れた道。教室が並ぶ大理石の廊下に、綺麗に手入れされた中庭が見える外廊下。夢の中で最期を迎えた噴水広場では、ロードリックとアイリス、そしてロードリックの側近たち。相も変わらないメンツなど目に入れる価値すらない。
ロードリックが他の女性を愛しているからといって、レティシアには関係がないのだ。
「美しい髪だね。こんな綺麗な黒は初めて見たよ」
「リックったら、変なことばっかり」
楽しそうな2人の笑い声に目を向けることなく、レティシアは淡々と外廊下を歩く。
見えてきたのは豪華な図書館棟。国内有数の蔵書数を誇るアカデミー図書館は、王宮図書館にしかない本の複製なども置いてある。読書好きには憧れの場所だ。
レティシアは特別読書好きというわけではなく、ただ勉強のために通っているだけだが、その読む本は様々だった。政治や経済はもちろん、哲学や物語の本まで。恋愛小説にも手を出していた。
レスリーもまた、レティシアと同じように、ジャンルに関わらず様々な本を読む。だから2人は話が合った。どんな本の話でもできるから。それがレティシアには嬉しかった。
仲のいい兄とも本について話すことはあるが、政治、経済、哲学の本が多く、物語といってもせいぜい難しい推理小説くらいだ。あの兄がかわいらしい恋愛小説を読んでいるところなんて、想像もできない。
それもあって、レティシアにとってレスリーは貴重な友人だった。
「おまたせ」
「おかえりなさい」
レスリーが用事を終えて図書館で合流する。
「おもしろい本はあった?」
「えぇ、これ」
レティシアが開いていたのは恋愛小説だ。
「どんな話?」
レスリーが隣の椅子に座りながら聞く。
「素敵なお話よ。文通で恋心を育む話」
「へぇ、確かにステキね。そんな恋愛をしてみたいわ」
平民の男女が主人公の物語ではあったが、貴族でも憧れないわけではない。
「レスリーは、婚約者はいなかったかしら」
彼女の家の事情は知っている。貴族家なら、娘を有力な貴族家に嫁に出すことだってできるはずだ。それにより得られるものは、きっと少なくないだろう。
「まぁね。両親とも好きにしていいって言ってくれているし、その言葉に甘えてしまって」
貧しくとも幸せ。たった今読んでいた本の一文を思い出した。
お金で買えない幸せを、きっと彼女は知っているのだろう。
レティシアは少し羨ましくなった。自分と婚約者の間に、きっと望めないものだから。
「……ねぇ、レスリー」
この話に憧れると言った彼女だからこそ、聞いてみたいことがあった。
「もし……。あくまでたとえなのだけど」
「なによ。もったいぶらないで教えてちょうだい」
普段とは違うレティシアの様子に、レスリーも真面目な顔になる。
「もしあなたが誰かわからない人から手紙をもらっていたとして」
「その本の話?」
「黙って続きを聞いて」
「……わかったわ」
どうしても彼女の答えを聞いてみたくて、つい強い口調になってしまった。
しかしそれで折れる彼女ではない。少々不満そうだが口をつぐむ。
「もし、誰からかわからない手紙をもらっていたとして、あなたはその手紙をどう思う?」
「内容によるわね。どんな内容?」
「どんなって……。あくまでたとえよ」
「わかったから」
何度も念を押すレティシアに、レスリーも焦れてくる。仕方なくレティシアは正直に吐きだした。
「えっと……おすすめの本とか。“いつも見守っているよ”とか」
「なにそれ。気持ち悪いわ」
さすがレスリーだ。ズバッと言ってくれる。
『秘密の協力者』そう名乗る相手からの手紙は、あの後も続いていた。
内容は他愛ないこと。『今日は何も用事がなかったからずっとキミのことを考えていた』とか『キミが好きそうな本を見つけた。ぜひ読んでみて』と本を紹介したり。
そもそもなぜ彼は、レティシアの好みを知っているのだろう。
家族にすら悟らせないよう、本当にいろんな種類の本を読んできたのに。
王太子妃として、好き嫌いを顔に出してはいけない。周囲に知られてもいけない。
好きなものを暗殺に使われたり、嫌いなものが迫害されたりするからだ。
だから、彼が好みを知っている理由が、レティシアにはわからない。
「レティシア、わたしはあなたが心配よ。変な人に捕まらないでね?」
「それは大丈夫よ。わたしだって護身術くらいは心得ているわ」
簡単なものではあるが、兄から教わっていてよかった。
「それで?レティシアはその手紙をどう思ってるの?」
「……たとえ話だと言ったはずだけど」
「さすがにわかったわ。レティシアの体験談でしょう?」
レスリーは誤魔化せなかった。
「……確かに気味悪くはあるけれど、少しだけ興味もあるわ。この手紙は、誰が書いてるのかしら」
「レティシアの熱狂的なファンでしょうね」
兄からかわいいかわいいと言われて育ったレティシアは、自分が他人よりも整った顔立ちであることも自覚している。だからそう言われても、否定はできなかった。
「お父様に相談したら?公爵様がどんな方か知らないけれど、力になってくれるんじゃない?」
「……そうね……」
レティシアの父、アークヴィースト公爵は、実の娘であるレティシアからしても、よくわからない人物というのが正直なところだった。
感情を隠すことに長けているのか、表情はいつも硬い。冷たい月の光のような銀髪と相まって、冷たい人間だと思っている人間も社交界には多い。
母は産後の肥立ちが悪く亡くなっているため、母を奪った自分は父から憎まれていると思っていた頃もあった。兄のおかげでそれは勘違いだったとわかっているのだが、未だに父との関係は微妙なままだ。
「レスリーのご家族は?どんな人なの?」
「そうねぇ……。父も母も変わってるわ。だからわたしがしっかりしなきゃ」
話題を変えるために話を振ってみたが、レスリーの説明は短かった。
「そろそろ寮に戻りましょうか」
「そうね」
「本を返してくるわ」
レティシアはそう言って席を立ち、本を持って本の海の中へ入っていく。
レスリーは席で待っているのか後をついて来なかった。
別にレスリーがいなくてもこの本の家は探せる。番号をたどって探していると、
「ねぇ、聞きました?」
向かいの本棚からだろうか。令嬢たちのおしゃべりが聞こえてきた。
ここは図書館。図書館では静かにと注意しなければ。
そう思って踏み出した足が、次の瞬間止められる。
「アークヴィースト嬢が、平民の方をいじめてらっしゃるって!」
思わず耳を疑った。それは夢の中の話だったはず。まさか、また夢を見ているのだろうか。
「まさか。あの方はそんなことをなさる方ではないはずよ!」
「そうよ。わたしたちにも気遣ってくださる方だわ」
何もしていない。近づいてもいない。
レティシアが親しくしているのはレスリーだけだ。
「あなたたち、ここは図書館ですよ。お喋りは慎んでください」
司書の先生の注意を受け、慌ててパタパタと去っていく足音が、どこか遠くに聞こえた。
「レティシア?」
レスリーの声がして、ハッと意識を取り戻す。
「顔色が悪いわ。どうかしたの?」
「……いいえ、何でもないわ」
感情を悟られてはいけない。幼い頃に教育されたおかげで身に染みついた言葉が、レティシアの表情から感情というものを奪った。
寮に戻ったレティシアは、あの夢の内容をまとめてみることにした。
アイリスというアカデミーに通う平民の少女。そして許婚者のロードリック。
良かれと思って教育したことが裏目に出て、許婚者に裏切られる結末まで。
よく考えれば、夢にしては記憶に残りすぎている。
本来夢というものは、起きて5分も経てばほとんどを忘れてしまうはずだ。
もう何日も経っているというのに、どうしてこんなにもはっきりと覚えているのだろう。
裏切られた時の感情も、あの思い出したくもない痛みさえも。
まさか、夢ではなかった?では、あれは何?どう説明すればいいの?
レティシアは頭を抱える。
こんなこと、王太子妃教育では習わなかった。アカデミーでもそうだ。
そんな時、コンコンとドアをノックする音が響く。
「はい」
レスリーだろうか。返事をしたが、入ってくる気配はない。
「レスリー?どうしたの?」
声をかけてみても。どうやらレスリーではないらしい。
「どなた?」
そう声をかけて開けてみる。
が、誰もいない。気のせいだったのだろうか。
幻聴が聞こえるなんて、疲れている証拠だ。休まなければ。
無駄に考え込むくらいなら、休んだ方がいい。難しいことは、明日考えればいい。
そう思ってドアを閉めようとした彼女の視線が、下に落ちた時、それを見つけた。
いつもの手紙と、今日はそれに添えられた一輪の花。
美しいその花は、トリテレイア。守護を意味する花だった。
思わず頬が緩む。手元の手紙も開けてみる。
『落ち込んだあなたを見るのはとても辛い。心無い言葉に惑わされないで。僕はキミの優しさを知っているよ』
いつも通り、短い詩のような内容。そして、優しい言葉。
どこの誰かも知らない、不審者からの手紙。
それなのにレティシアは、それを抱きしめていた。
柔らかいムスクが香る。強くなく、清潔な印象の香り。
トリテレイアの花を花瓶に差し、ベッドの隣に置いた。
「で、今朝になったら花びらが落ちてたから、押し花にしたと?」
「えぇ」
レスリーが呆れている。その意味が、レティシアにはわからない。
「あのねぇ……」
レスリーはこめかみを抑えながらつぶやく。
「レティシア。あなた、その手紙の相手に気があるんじゃない?」
「何を言っているの?わたしには許婚者がいるのよ。それも王太子殿下で」
「他の女にうつつを抜かす男なんてどうでもいいわよ」
本来なら不敬罪だと捕らわれるところだが、今はレティシアの部屋に2人きり。特に問題はない。
「ねぇ、一応聞くけど、何も気づいてないのよね?」
「何が?」
レティシアには、レスリーが何を求めているのかわからない。
「その花よ。わたしの記憶が正しければ、トリテレイアを家紋にしてる貴族家があったと思うんだけど」
「……!」
レスリーの言う通りだ。
エデルガルド公爵家。現国王の弟が公爵になったことで成立した家で、確かレティシアの兄と同い年の息子がいたはずだ。
「……偶然でしょう」
第一、レティシアはエデルガルド公爵家の子息との面識はない。こんな親切な手紙を送られるいわれもないのだ。
「どうしてそう言えるの?」
理由なんてない。そう信じたいだけかもしれない。
「とにかく、気を付けた方がいいわよ。手紙の相手がエデルガルド小公爵として、彼は殿下の従兄。気があればあるほどつらくなるのは、レティシアなんだから」
ただの偶然。レティシアは何度もそう言い聞かせた。
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「彼女は花を気に入ってくれたかな」
「気味悪がって捨てられたと思います」
男に応えたのは、少年のような声だった。
「お前はあの子と違って正直だね」
「あれは特別です。貴方に恩があるのですから」
「キミはないと?」
ないはずがない。男のそばに控えるのは、全て彼が恩を売った者たちばかりだ。
「……失礼致しました」
「今更やめてくれ。キミはそれでいいんだ。楽だからね」
誰も彼も気を使われては、彼自身も疲れる。ひとりでも楽に接してくれる人物がいた方がいい。
「でも、あからさますぎたかな」
「誰かが入れ知恵でもしない限り、普通のご令嬢は気づきませんよ」
いろいろな空想を広げては楽しむ主人に、彼は呆れたとばかりに冷たい声を向ける。
「念のため、カモフラージュしておこう。……わかっているね?」
コトンと小さな音を立てておかれた、香水の小瓶。
窓から入った光によって照らされた彼は、華麗な金髪を輝かせる。
身勝手な主人だ、と、従者の男は小瓶を黙って受け取った。