3.はじまりの手紙
その日の朝、身支度を済ませたレティシアが部屋の扉を開けた時。
一枚の紙がふわりと宙を舞った。それは、見たことのない封蝋で綴じられた手紙だった。名のある貴族家からの手紙でないことは確かだ。
まだ少し時間がある。一度戻って扉を閉め、ペーパーナイフで封を切る。
『僕は秘密の協力者。いつでもきみを見守っているよ。どうかそれを忘れないで』
「……なにこれ」
まず眉を寄せた。正直あまりいい気分はしなかった。
どうやら知らない内に変なファンを作ってしまったらしい。差出人は書かれていないが、宛名は「レティシア嬢」となっているため、レティシアに宛てられたものに間違いない。最初からファーストネームなんて、なれなれしいにもほどがある。
身に覚えのない不気味な手紙を、レティシアはろうそくに近づけて火をつけ、燃やしてしまった。
不思議な夢を見てから数日。
黒髪の平民の少女アイリスといるところは何度となく見ているが、ロードリックから呼び出しを受けることはいまだにない。
元々、両家がセッティングしなければ、お茶もともにしなかったくらいの関係だ。釈明や側妃候補の紹介のために、彼が呼び出すとは思っていなかった。
かといってレティシアの方から関わりに行くのは、やっぱり怖い。夢の中と同じことにならないように。レティシアの願いはそれだけだった。
あの時の痛みは、夢とは思えないほどだった。もしあれと同じ痛みを現実でも感じていたら。きっと死んでしまう。
彼女が側妃となるならそれでいい。あわよくば彼女を本来の王太子妃として、自分が捨てられてもいい。そうなってもいいように準備はしておこう、と思っていた。
万が一王太子との婚約破棄となれば、レティシアが今後結婚することは難しいだろう。それでもいい。
元々恋愛感情なんてものはないし、大好きな家族のそばにいられると思えば、辛くはない。ただ、家族に迷惑をかけるかもしれない。家にとって利となる人間であると証明するために、商売でも始めてみようか。やったことはないが、できないとは思えなかった。
そんな願いにも近い妄想を繰り広げながら、残り少ない学園生活を過ごした。
今日は王国の歴史を勉強しようと、図書館の歴史書のコーナーに向かう。幼い頃に始まった王太子妃教育のせいで、それなりのことは頭に入っている。しかし、王太子妃となるもの、それなりではいけない。
たとえ王太子妃になれなくても、この経験はどこかで生きてくるはずだ。
歴史書のコーナーには、普段から人がいない。難しい専門書を読んでまで勉強に励む学生は、いくら優秀な生徒が集まるアカデミーといえど、いないということ。
しかし今日は、1人の女子生徒が立っていた。
色素の薄い茶色の髪はすらりと長く風に揺れ、大きな茶色の瞳が真っ直ぐに本を見つめている。長身ですらっとしたモデル体型のため、その様子は画になる。
熱中しているのだろうか、こちらに気づくこともない。
仕方なくレティシアは、少し距離を取って本を探す。目はいい方だが、目的の本が見つからず、少しずつ近づいていく。
「あ、申し訳ございません」
近すぎたか。女子生徒がレティシアに気づいて、さっと退いた。
「気にしないでください。わたしも本を探しているだけですから」
トラヴィス伯爵家の一人娘だとすぐにわかった。王家や公爵家のように目立った特徴が出るわけではないが、各貴族家の情報は王太子妃教育としてしっかり頭に入っている。
彼女の方もレティシアを知っているようで、怯えたように恐縮した。
「……あら」
ふと彼女の手元にあった本のタイトルが目に入る。
王国で最も古い歴史書。それこそがレティシアの読みたい本だった。
「もしかして、アークヴィースト様もこちらをお探しに……?」
ここでそうだと答えれば、彼女から本を奪ってしまうことになる。
しかし嘘も吐けない。嘘の吐けない正直すぎる自分の性格を、よく理解していた
「順番は待ちますわ」
レティシアは暗に肯定しながらも、彼女から本を奪わないように答えた。
「い、いえ!お先にどうぞ!」
しかし当然譲られてしまう。困ったレティシアは、
「では、あそこに座って2人で読みませんか?」
と提案した。
彼女はレスリー・フォン・トラヴィスと名乗った。
浪費家だった前当主のおかげで没落寸前のトラヴィス伯爵家の一人娘として生を受け、貴族家でありながら平民と同じ生活レベルを余儀なくされ、それでも貴族家としての納税や社交界への出席を求められる、非常に苦しい立場にある少女。
レティシアが王太子妃教育の一環として身につけた知識であったが、レスリーはそんな苦しい立場などと一言も話すことはなく、笑顔が明るく芯の通った強かな女性だった。
「歴史が得意なのですか?」
「まさか。得意だったら、図書館で勉強しようとは思いませんわ」
「ではあなたは、苦手な勉強をすすんでするのですか?」
「……しませんね。うふふ」
コロコロと笑う彼女からは、大変さなどほんの微塵も伺えない。
レティシアが知らない内に、トラヴィス伯爵家は持ち直したのだろうか。
「アークヴィースト様は?」
「え?」
思わず気の抜けた声が出た。
「歴史、お好きなんですか?」
「……まぁ、嫌いではないです」
嫌いじゃない。それが正直なところだ。
好き嫌いなんて、王太子妃教育には許されなかった。国のことならまんべんなく知っていて当たり前。それを要求されてきた。
「では、わたしと同じですね」
レスリーは嬉しそうに微笑む。
「アークヴィースト様と好みがあうなんて思ってもみませんでしたわ」
思わず見とれる程の華やかな笑顔で、彼女はそう言った。
「レティシアと呼んでください」
彼女と親しくなりたい。レティシアは初めてそう思った。
「光栄です」
怯えて断られてしまうかと思えば、レスリーはそれを受け入れる。
そんな強い一面が、レティシアを惹きつけた。
「わたしのことも、どうぞレスリーと」
「ありがとう」
ファーストネームで呼び合う。それはこの社交界において、親しい友人になったということ。
「レスリー、わたしのおすすめの本を読んでくれないかしら」
「あら、じゃあ交換しましょうよ。わたしもおすすめしたい本があるの」
2人は仲良く本の海に消えていった。
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「アークヴィースト嬢は、本日も図書館でお勉強されていました」
「……そうか」
報告に来た女性の声に、男は短く答える。
「今日の手紙にはおすすめでも書いておこうか。彼女は読んでくれると思うかい?」
「……どうでしょう。お届けしてはみますが」
不審人物でしかないだろう、という思いは心の中。
男はそれでも満足そうに、唇に弧を描いた。